第十話

頑張り屋のきみに

「……はい。ありがとうございます、ではまた」


 小坂こさか家の長い廊下の壁に背中を預けて、芽亜凛めありはネコメとの電話を終わらせる。


 警察が稗苗ひえなえ永遠とわという女性を逮捕したのは昨日のことだ。以前芽亜凛が伝えた、神永かみなが家の居候と思われる眼鏡の男を張り込んでいる際に、彼女の出入りを目撃したという。永遠を見つけたのは、ネコメ曰く自分の相棒――つまり長海ながみ刑事だ。

 詳しくは捜査情報のため漏らせないが、調べていくうちに正体が掴めたのだろう。彼女を殺人容疑で緊急逮捕した。今日もこれから取り調べを行うようだが、永遠は黙秘を続けているらしい。


 いったい響弥きょうやは、何人の怪しい大人と関わっているんだ。不在の父親、眼鏡の男、神永詩子ともこ、稗苗永遠。ほかにもいるのではないかと思えてくる。

 重要なのは、人殺しが響弥と関わっていたことだ。殺人という罪を犯したまま逃れ、日常的に神永家に出入りしていた謎の女。

 もしくは逆だ。響弥と関わったことで、彼女の人生が狂ってしまった……。


 警察に任せっぱなしになっているが、芽亜凛が動ける範囲は限られている。それに、ネコメでなければここまでの進展はなかっただろう。芽亜凛の話を信じてくれるネコメだからこそ掴めた事実だ。

 外堀から埋めていくのは正しい攻め方と言える。相手は未成年。慎重に動く必要がある。

 このまま響弥が、茉結華まゆかが、諦めてくれるのが一番なのだけれど――


「ねえ芽亜凛、ほんとに帰るの?」


 芽亜凛がリビングに戻ると、テーブルに頬杖をついた小坂が何度目かの確認を取った。芽亜凛は薄く唇を引き、うん、と小さく首を振る。

 土曜日の今日。芽亜凛は小坂家を出て、自分の住むアパートへと帰る。その理由はいくつかあるが、まず大事なのは千里ちさとを匿うことであり、芽亜凛はそのおまけに過ぎない。だからそもそも、世話になる必要がないのだ。


 そして最も大きな理由は、りんをこれ以上傷付けないためだった。

 転校初日に空いた溝は生物学の一件で埋まり、凛とはこれまでどおりの――決して彼女の『特別』にはなれないけれど、それでも友人と呼べる間柄でいられた。それが一転、先日から芽亜凛が声をかけても遠慮するようになり、心なしかこちらの顔色を窺ってばかりだ。

 芽亜凛はそのわけをすぐに勘付いた。千里たちとの仲を知られてしまった、これしかないと。もちろん学校では気をつけていた。千里のことは小坂に任せ、芽亜凛はできるだけ彼女たちから離れることで周囲の目を引き付けていた。


 だが放課後となると話は変わる。学校では離れていても帰る場所は同じ。図書室で千里の誕生日会をしようと誘われたこともあったし、ショッピングモールでの買い物や、夜まで一緒にゲームセンターで遊ぶこともあった。――誕生日会は結局、神永響弥が参加しているのを見て引き返したが、小坂家で合流した後に盛大に祝い直している。

 どこで目撃されたかは確証が持てない。しかし学校近くで遊んでいれば、道だろうと施設内だろうと一度くらいは見られていそうなものだ。


 凛の寂しさの種である千里と小坂の関係に、話し相手となっている芽亜凛が隠れて関与していたら、それは嫌な気持ちになるだろう。裏切られた、と思うかもしれない。だから芽亜凛が離れるしかないのだ。

 凛のそばには、いてあげたいから。


「寂しいよー!」と、小坂の隣で千里が腕を振る。

「大げさよ、会えなくなるわけじゃないんだから……」

「寂しいものは寂しいよー! ずっと一緒にいたのに」


 そう言ってもらえるだけで嬉しい。二人ではなく、三人組と思われているのが。彼女らに友達として迎えられていることが。今まで死に絶えたすべての自分を報いてくれる。

 アパートまでは距離があるので、昼にはここを出るつもりだ。強がった返しをしてしまったが、寂しくないと言えば嘘になる。でも二人がしんみりするのは肌に合わない。


「さすがにバス停までは送っていくわよ」

「ありがとう。それまでテスト勉強でもする?」


 冗談を含んだ芽亜凛の言葉に、千里と小坂は「えーっ!」と声を揃えた。一緒に過ごす時間が長いと、シンクロ率も上がるようだ。芽亜凛は思わず笑みをこぼし肩をすくめた。


    * * *


 駐輪場にクロスバイクを停めて、わたるは待ち合わせの広場を見渡す。指定されたオブジェクトの前には、すでに朝霧あさぎりの姿があって――明らかに年上の女性と親しげに話していた。


(おいおい、いきなり来て逆ナンか……?)


 それとも偶然居合わせた売春相手……。まさかな、もうしてないって朝霧も言っていたし。じゃあ誰だ? と、見知らぬ相手を観察する。

 女性は身振り手振りで話したあと、朝霧に紙切れを渡して去っていった。やっぱり今の、お金だったんじゃないだろうか。怪訝そうに渉が近付くと、声をかける前に朝霧はこちらを振り向いた。


「おはよう望月もちづきくん」

「おはよう。今の誰?」

「モデル事務所の人だって」


 朝霧は渡された紙切れを渉に見せる。受け取ったのはお金ではなく単なる名刺で、有名なモデル事務所の名前が添えられていた。


「へえー、すげえ。俺、運よく見ちゃったわけ?」

「ん、そう? よくあることだよ」


 朝霧は名刺をくしゃりと丸めて、裏のゴミ箱に捨てる。いわゆるスカウトか。よくあって堪るかと突っ込みたくなったが、朝霧が言うと嫌味に聞こえない。彼は事実を言っているのだろうし、現に他人を頷かせるだけの容姿はしているよなと、渉は朝霧を上から下まで眺めた。

 無地の白Tシャツに、ゆったりめのシルエットが特徴的なワイドパンツ。シンプルな色合いは無駄がなく、その存在感は彼の立ち振舞で表されていて、なるほどこれはモデル事務所が放っておかない。まあ、先ほどの様子からして本人は迷惑がっていそうだけれど。


「その服着てくれたんだね」

「お前が選んだ服だからな」


 渉は、着慣れないオーバーサイズの半袖パーカーを照れ隠しで撫でる。前、朝霧とショッピングモールに行ったときに、彼が選んでくれた服だった。

 動きやすいパーカーを普段から好む渉は、自分に合ったサイズを選びがちである。色も、青やグレーといった暗めのものが多い。だが朝霧が選んでくれたパーカーはサイズも大きめで、夏にぴったりの涼し気な色合いをしている。勧められなければおそらく一生着なかったかもしれない、可愛らしい代物だ。


 渉もすっかり気に入ってしまったし、気づいてもらえて安心した。朝霧は「似合ってる」と微笑んで、バス停に行こうと指をさす。

 行く先は、『シーパラダイス四つ時』という水族館。四つ時というのは四時ではなくて、四季という意味だそうだ。

 そして午後からは図書館でテスト勉強。ちゃんと勉強道具もリュックに入れて持ってきたし、朝霧が誘ってくれたせっかくの息抜きだ。

 今の渉に必要なのは休息である。今日は、うんとハメを外そう。

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