水族館
保健室で目を覚ました渉を迎えたのは、「大丈夫? ようやく起きたね」と顔を覗き込む朝霧の柔らかな声だった。夕日のオレンジ色に照らされた髪が糸のようにきらきらと輝いていて、渉はしばらくぼうっと見つめたあと頭痛を訴えた。
「頭いて……」
「薬の副作用だね。水飲んで」
「薬……?」
身体を起こし、朝霧からペットボトルの水を受け取る。どうして保健室で寝ていたのか、なぜ朝霧がここにいるのか、まったくもって覚えていない。自分は体育館にいたはずだろう。
疑問は、朝霧の話を聞いて解消された。
「体育館で倒れたんだって。水筒に睡眠薬を混入されてね」
「
「さあ。僕は会ってないけど」
「じゃあ新堂が運んでくれたのか」
問いかけとも独り言とも取れる渉の言葉から目を逸らし、朝霧はスマホ画面を見せた。画面には大きく、『購入済み』と書かれている。
「水族館。明日一緒に行こう」
「す……は?」
「今度二人で行こうって話したじゃないか」
「テスト前だけど」
「勉強もするよ。筆記用具と問題集、ちゃんと持ってきてね」
「いつ買ったの? 今?」
「前もって用意しておくのがデートの基本だよ」
「ずっとその画面にしてたわけないだろ」
渉が眉間にしわを寄せると、朝霧は吹き出し笑いをし、「嘘。さっき買った」と訂正する。
「迷惑だったかな?」
「……いや、ううん」
「じゃあ決まりだ。何時がいい?」
「勉強するなら、朝でいいんじゃないか」
「受付は九時半からだから、うん、九時集合にしようか」
渉は硬い表情のまま、こくりと首を振った。「あんまり嬉しそうに見えないね」と言われて、「いや、嬉しいよ。顔が追いついてないだけ」と今の気持ちを素直に伝える。
倒れたと聞いて保健室に駆けつけて、渉を気遣い、遊びの用意をしてくれた。それが――それだけのことが、堪らなく嬉しくて、目頭がじんわりと熱くなる。寝起きで疲れているせいか表情は追いついてこないけれど、嬉しい。
朝霧の気遣いが、心の底から嬉しかった。
帰りは
当日の天気は晴天とは言えないものの、雨は降っていなかった。梅雨嫌いの渉としてはそれだけで及第点だ。文句を挙げるならば少々蒸し暑いことくらいか。
シーパラダイス四つ時は、内と外とでエリアが分かれている、都内でも有数の広さを誇る水族館だ。施設自体はバスを降りて目と鼻の先にあり、さすが休日と言うべきか、開館時間ぴったりに着いても人で溢れている。
渉と朝霧は案内に従って進み、事前に買った電子チケットのおかげでほとんど並ばずに入館した。チェックマークの付いたスマホ画面が引換券の代わりとなるため、再入場をする場合は画面を見せるだけで済む。
朝霧は出入り口に設けられたマップと、本日の予定板を確認した。
「屋内に行けるのは十時からで、十時半に海獣のショーがあるよ」
「このベルーガって何?」
渉は昼前予定のベルーガショーを指差す。
「ベルーガはシロイルカのことだね。別名、海のカナリア。聞いたことない?」
「あー、あるある」
「イルカと違って背びれがなくて、前頭葉が丸いのが特徴だよ。せっかくだし、午前のショーは全部見て回ろうか」
「うん」
ほかにもたくさんのイベントが午前と午後の部に分けて行われる。急遽予定を変更して一日中見て回りたいくらい、どれも興味をそそるものばかりだ。午後からテスト勉強をするのが惜しくなる。
北と南に分かれて広がる屋外エリアは、公園のような雰囲気で緑が生い茂り、屋内と繋がった一部の水槽も見れるようだ。渉と朝霧は北館から順に回ることにした。
入り口脇にはペンギンの大きな水槽が構え、奥にはアシカがいるようだ。反対側にはウミガメの広場があって、すでに家族連れで賑わっている。
渉は、岩の上で首をきょろきょろと動かすペンギンたちを見上げた。
「可愛い……写真って撮っていいよな?」
「うん。フラッシュだけ気をつけてね」
水で泳ぐ姿は前の人たちで見えないが、陸の上のペンギンは十分目にできる。渉はスマホを持ち上げて何枚か撮影し、後ろから来た若いカップルと場所を交代した。
「すげえな、どこ見ても人気で……向かう場所に迷うな」
「あっち側も見てみる?」
「うん。朝霧はいいの? 写真撮らなくて」
なんだか自分ばかりはしゃいでしまって、朝霧が楽しめているのか伝わってこない。テンションに差があるというか。渉が子供なら朝霧は保護者みたいだ。
朝霧はにこりと笑ってスマホを取り出すと、渉に向けてシャッターを切った。
「俺を撮ってどうする」
表情もポーズも作れていないぞ。
朝霧は「じゃあ一緒に」と言って背を向けて、インカメラで斜め上から撮影した。またしても反応できなかった。思わず「おい」と口を挟む。
「お前、撮るなら撮るって合図ないの? はいチーズとかあるだろ。って言ってるそばから撮るなよ」
「長居は禁物だから移動しようか」
「聞いてねえな」
渉の突っ込みも無視して朝霧はエリアの奥に進む。プライベートでもマイペース極まりないな、この優等生。
「僕は自然体を撮りたいんだ。ポーズなんて不要だよ。運よくカメラ目線で撮れたらラッキー程度で、ほんとは盗撮したいくらいだ」
「何言ってんの?」
「望月くんって野性味あるから撮りたくなるんだよ。きみもシロクマが目の前にいたら撮るだろ?」
「撮るけど俺はシロクマじゃない」
「ほら望月くん、アシカがいるよ」
「えっ、すっげえ、バスケットボール持ってる」
辿り着いたそこには、鼻先で持ち上げたボールを、プールに設置されたバスケットゴールにシュートするアシカの姿があった。見事ゴールに決まると、辺りから「おおー」と感嘆の声が漏れる。
「俺よりうまい」
「間違いないね」
「おい」
俺のシュート見たことないだろと振り向けば、目の前にスマホカメラが向いていた。ぐ、と歯噛みして持ち主を睨むと、朝霧はスマホを下ろして、ふふっと満足気な笑みを浮かべる。連れを撮って何が面白いんだとほとほと疑問に思うが、本人が楽しそうなら、いいか。
南館には全国でも珍しいラッコの水槽が人気を博していた。最近シーパラダイス四つ時に引っ越してきた二頭のオスだ。前列の人と入れ替わって実際に見てみると、その人気の理由はすぐにわかった。
二頭のラッコは水の上で仰向けになり、手を繋いで眠っていた。水面にぷかぷかと浮かぶ呑気な姿に加えて、互いの手をしっかり握っているのが愛らしい。
「超可愛いな」
満面の笑みになっているのが自分でもわかる。写真を撮るのも忘れてこの気持ちを共有したく、渉は朝霧の顔を見た。朝霧は渉が見上げる前からこちらを見ていて、そうだねと柔和にはにかんだ。
その後はお決まりのように撮影を行い、ウミガメの餌やり体験ができるふれあい広場に足を運んだ。子供や家族連れに人気のコーナーで、先ほどまでは混み合っていた。だがラッコに夢中になっている間に屋内エリアが開放されたため、比較的かなり緩和されている。
渉と朝霧は、購入した餌をトングで挟み、ウミガメのいるエメラルドグリーンの水中にそっと挿し込んだ。
「可愛いな」
「可愛いね」
ウミガメたちは首をゆっくりと左右に動かし、トング先のキャベツを食べはじめる。
「野生のウミガメは主に海藻を食べるんだ」
「へえー、海藻……」
「でも水族館じゃ新鮮な海藻を毎日用意するのは難しい。だから食物繊維たっぷりの野菜をこうして与えているんだ」
「詳しいな」
「僕が話さないと望月くん、可愛いしか言わなそうだから」
「……お前デートするとき事前に豆知識とか仕込んでおくタイプ?」
「それって水族館はなぜ暗いのかとか、サメがほかの魚を食べないのは満腹だからとか、その程度の雑学?」
「知ってんじゃねえか」
「知ってるよ」
朝霧はウミガメがキャベツを食べ終わったところで立ち上がり、「そろそろなかに行こう。ここよりももっと涼しいはずだ」とトングを元の位置に戻した。
予定板のベルーガのときからすでに差を見せつけられているが、朝霧の場合は事前に仕入れたのではなく元から入っている知識だろう。わかってはいるが、同じ男としての差を感じざるを得ない。女の子とデートしたとき、朝霧のほうが間違いなく相手を楽しませられるだろうなと。
それはともかく。
「朝霧」
渉は立ち上がり彼に尋ねた。
「水族館って、なんで暗いの?」
ショーまではまだ時間があるため、渉と朝霧は屋内で一番近いクラゲコーナーに立ち寄った。
暗いフロアの正面には、壁の端から端までのメイン水槽が構えており、手前には六つの筒状の水槽が左右対称に並べられている。それらは青、紫、緑などのカクテルカラーにライトアップされ、幻想的な光のアートを生み出していた。
「すっげ……」
渉はメイン水槽のパネルを指差し、「二千匹だって」と、クラゲたちを見上げる。水槽の大きさもさることながら、展示しているクラゲの量に圧倒される。時間が経つのを忘れて何時間でもぼうっとしていられる、そんな空間。ついつい見惚れてしまって――
「映えるね」
「うん……。……ん?」
視線を感じて隣を見ると、朝霧はちゃっかり渉の横顔をカメラで収めていた。渉は反論しようと口を開いたが、こんな神秘的な場所じゃ怒りも湧いてこない。仕返しに今度は朝霧を撮ってやったら、写真写りがよくて悔しくなった。
二人組の客が占めるクラゲコーナーに子供が一人やってきて、「いっぱい泳いでるー!」とメイン水槽に駆け寄った。遅れて親と兄弟がパネルのそばに来て、渉と朝霧は入れ替わるように後ろに下がる。この大きさの水槽だ。遠くから撮影したほうが画になるはず。
スマホカメラを起動して横にする渉に、朝霧が耳打ちした。
「クラゲは泳げないんだよ」
「え、そうなの?」
「プランクトンだからね、ほとんど漂ってるだけ。浮く力はあるけど、水流がないとすぐに弱っちゃうんだ。この大きさだとかなり多くの配管が通ってるはずだよ」
「それA組だと授業で習うの?」
「授業で習うことがすべてじゃないよ」
はいチーズ、と朝霧はそのままの流れで渉と自撮りして、「合図しても同じだったね」と写真を見せる。写真の渉は朝霧を向いたままだった。――いやだから急すぎるんだよ。
撮った水槽の全体写真を確認していると、海獣ショーの案内アナウンスが流れた。場所は三階のスタジアム。クラゲコーナーにいた客はアナウンスを聞いて出入り口へと向かう。渉と朝霧も移動を開始した。
人波とまではいかないものの、通路はそれなりに混み合っている。渉は前の人とぶつかりそうになって避けた拍子に、今度は後ろから走ってきた子供にすれ違いざまに押された。ふらついて朝霧に「ごめん」と首だけで振り返った。
が、そこには見ず知らずの人がいて、渉の声には気づかずに階段を上っていった。子供たちは謝りもせずにキャッキャと笑い声を上げて走り抜けていく。渉は「えっ」と瞠目し、辺りを見渡した。
「は……」
はぐれた。こんな一瞬で。どうしよう……。心のなかで呟き、進むか引き返そうか考えあぐねていると、空いた右手を掴まれた。ビクリとして見ると、階段の数段上から手を伸ばす朝霧が、渉をぐいと引っ張り上げる。
朝霧は三階に着いても離してくれず、繋いだ手を後ろに回して渉の先を歩いた。その背中には不思議と圧があって、朝霧の通る道は誰もが避けてくれているような安心感があった。
「あさ……っ」
声をかけようとしても渉は人や椅子を避けるのに必死で、席に着くまで何も言えなかった。また自然に繋ぎやがったな、と文句を言いたかったのに。
中央の空席を見つけて腰を下ろし、ようやく朝霧は手を離す。
「お、お前さぁ……男に恋人繋ぎするなよ」
癖だというのは前に聞いたけど。「誰も喜ばないぞ」渉がそう続けると、朝霧はきょとんとした顔で、
「この歳で迷子になるよりマシだろ?」
「ラッコかよ」
「手を繋ぐラッコは水族館だけだけど」
そうして思い出したようにニヤリと蠱惑的に笑う。
「また泣きそうになった?」
「馬鹿」
肩をすくめて戯ける朝霧をしっしとあしらい、渉は舞台を注目した。ショーはまもなくして開かれる。
現れたのは飼育員とセイウチのセイちゃん。名前を呼ぶと鳴いて返事をしたり、飼育員と会話しているかのように相槌を打つ。さらにはヒレを振ってバイバイしたり、拍手したり、いないいないばあをしたり、恥ずかしがって顔を隠しちゃったり。細かな芸の一挙一動が可愛くて、面白くて、渉は釘付けになった。
一通り飼育員とパフォーマンスしたあと、観客のなかから代表者が選ばれて前へと出た。一人目の男性は腹筋運動を手伝い、二人目の子供はセイちゃんと歌を歌った。代表者がミスしてもセイウチは微動だにせず、飼育員が笑いに変えて観客を沸かせた。
生のセイウチは、小さい頃に別の水族館で見たことがあるが、こんなに笑ったショーははじめてだ。あのとき一緒にいた凛も経験がないだろう。
渉は笑い涙を浮かべながら、隣の朝霧に顔を向ける。さすがの朝霧もショーの間まで渉を見ていることはなく、舞台に目を向けて楽しんでいた。
「お前といると飽きないよ」
朝霧には聞こえないような声で渉は呟いた。この数日間で溜まった疲れも、学校生活で起きる嫌がらせも、このときだけは忘れられた。
「僕もだよ」
歓声に紛れて耳朶を打った声が、どうか気のせいじゃありませんように。
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