夜はまだ明けない
芽亜凛をバス停まで送って家に戻る頃には、もうすっかり昼過ぎだった。短い間とは言え、ひとつ屋根の下で一緒に暮らしてきた友人。彼女がいなくなることを考えると、朝から食欲が湧かなかった。それなら最後に楽しく昼食を三人で取ればよかったと、千里は小坂の顔を見る。
「お腹すいたねー。近くで食べてくればよかったかも」
自分と同じように、小坂の食欲がないことを察しておきながらも、千里は空元気に振る舞う。彼女の前では素直でいたいのに、
「出前でも取る? てかめぐっちって出前とか取るの?」
ほら、こうやってまた。
自分はいつもそうだ。盛り上げ役ばかり買って出る。正直な小坂とは違って、顔も態度も偽り続ける。宿主には元気でいてほしいと願う寄生虫ゆえの本能か。彼女は宿主ではないというのに、従順な犬のように主人を励まそうとしてしまう。
小坂は何も答えない。暗い顔で、視線を下げたまま。玄関の扉を前にして、千里の半袖をきゅっと摘んだ。
「千里は帰らないわよね?」
「え――」
いくら茶化し上手な千里でも、今目の前の家を指して『帰っちゃ駄目なの?』とふざけることはできなかった。小坂の言うそれが、
正直な話、彼女の家は快適だ。門限はないし、日が落ちて帰ってきても怒られないし。娘がゲームセンターに行こうが、外で夕飯を食べてこようが、朝帰りをしようが。事前に連絡をしておけばそれでいい。親は怒らないし気にもしない。誰にも縛られずに済む、まさに理想的環境である。
だから芽亜凛が突然家に帰ると言い出したときは疑問に思った。三人で喧嘩したわけでもないし、実家に帰る理由なんて千里のなかには最早皆無に等しい。毎日が自由で、のびのびとしていて……。小坂のことが羨ましいくらいだ。
この暮らしのはじまりは、すべて『ストーカー』がきっかけである。狙われているのは千里で、迷惑をかけないように凛からも離れて、こうして小坂の家に匿われている。
だがそのストーカーとやらは、一度も見ていないというのが現状だ。存在そのものははじめから疑っていたし、今も信じていないけれど。もしかすると芽亜凛は、自分がいなくても大丈夫だ、と判断したのかもしれない。
だからと言って、千里にこの極楽環境を自ら手放す考えはなかった。ずっとこのままでもいいかな、と甘えた考えを抱いてしまうほどに、今の生活には満足している。
言えば小坂は難なく受け入れるだろう。心行くまでいればいいと言ってくれる。いっそこのまま高校卒業までいようよと、千里を甘やかしてくれるはずだ。
だから千里は何も言わない。口にしなくても、こうしてそばにいるだけで満足だから。
「ならいいけど」と言って家に上がる小坂の顔色は、多少なりとも改善されていた。芽亜凛に続いて千里まで帰ってしまうんじゃないかという考えが、彼女を不安にさせていたようだ。
千里は玄関の靴をさっと見渡した。自分の父親の靴を確認するのが習慣となっているのと同じく、つい目が動いてしまう。今日は子供たちだけで過ごす休日の予定だ。家の人はまだ帰ってきていない。
千里は、んふふ、と怪しく笑った。――安心して。わたしは離れる気まったくないよ。
「めぐっち……芽亜凛ちゃんに触発されてわたしもいなくなっちゃうと思った? 心配しちゃってきゃわいいんだからぁ」
「はあ? 別にそんなんじゃないわよ」
「またまたぁ。わたしがいなくなったら寂しいよ? 夜一人で寝ることになるんだよ?」
「一人だって寝れるわよ」
「でもいつもわたしの腕ぎゅーってしてくるよ? あれ夏場だと結構暑いよ?」
「クーラーの温度下げればいいじゃない」
「おお、抱きつくのはやめないと。さすがめぐっち、そこに痺れる憧れるぅ」
小坂はやれやれといった顔で首を振った。こんなにふざけていても、彼女は、帰れも出て行けも言わない。寛大な心で千里を受け入れてくれる、女神のようなお人だ。
だが、
リビングの扉を開けて、「待ってめぐっち!」と。千里は張り付けていた笑みを消した。
「何?」と小坂は千里を振り向く。
「何か、聞こえない……?」
小坂は瞬きをして首をひねり、千里と揃って耳を澄ませる。
聞こえてきたのは――ピアノ。ピアノの音だった。その場で弾いているのではなく、端末を通して一箇所から聞こえる音の響き方。スピーカーを通して流れるメロディ。
この曲名は……なんだっけ。思い出せない。けれど誰もが聞いたことのあるピアノのメロディ。演奏。
それがどうして、いったいなぜ、誰もいないはずの二階から聞こえてくるんだ。
* * *
セイウチのショーを見終わり、渉と朝霧は再びアクアリウムを訪れた。青い海のなかを花吹雪のように泳ぐ小さな魚たち。珊瑚の隙間を掻い潜る色鮮やかな熱帯魚。大型水槽を優雅に行き交う、迫力満点の巨大なエイ。どれも美しく力強い生命力に溢れ、渉の心を癒やしてくれた。
朝霧は引き続き渉を撮り、渉は展示物を撮って回る。時間が過ぎるのはあっという間で、気づけば午後になっていた。
そして二人は今、水族館を出て真反対に建つビルの前にいる。入り口脇に設けられたストリートピアノ。演奏するのは朝霧
卒業式の入退場と、卒業証書授与で流れていたのを渉は憶えている。カノン、G線上のアリア、トロイメライ、月の光。有名なクラシック音楽のメドレーのなかで、ショパンのノクターンも流れていた。
渉は、椅子に座る朝霧の隣に立ちながら、その美しいメロディに酔いしれた。カラフルなアップライトピアノから奏でられる旋律は、過ぎ去った日々を噛み締めるかのように穏やかで。悲しみでもなく、喜びでもない。歌うように繊細で、踊るように弾む、官能的な曲調。
五感は耳だけでなく視覚をも震わせた。朝霧の形のいい靭やかな指先が、鍵盤の一つひとつをしっかりと押さえ込む。甲には薄く骨が浮かび上がり、手首は抑揚を付けて波打つ。
朝霧は、感情を込めるかのように何度も瞳を閉じた。そのたびに長い睫毛がふわりふわりと開閉し、曲に合わせてリズムを刻む。視線は鍵盤から切り離され、ない楽譜を頭のなかで覗いているかのように思慮深い顔つきだった。
見慣れてしまって、もう当然のことになっていたけれど――やっぱり朝霧は顔がいい。音に身を任せた彼は無防備で、安らかで、普段なら見ることのできない表情だからこそよさが引き立つ。演奏する横顔を見て改めてそう気づかされた。端正で秀麗で、腹が立つほど上品だ。
演奏はいつの間にやら終了し、ハッと我に返った渉は一斉に沸き起こる拍手の音に包まれる。ピアノの音色に足を止めた人たちが二人を円形に囲んでいた。ギャラリーはビルの窓や歩道橋の上にもいて、何人かはスマホを向けて撮影している。
渉は慌ててカメラを止めた。朝霧が席に着いてから渉もカメラを回していたけれど、他人に撮られているのはぞっとしない。「うまく撮れた?」と歩み寄る朝霧に渉はうんうんと頷き、彼の手を引いて足早にその場を離れた。
曲がり角で止まって、人の目が気にならない場所で息をつく。
「お前すげえな、ピアノも弾けるのか」
朝霧がビルの前に寄っていったときは、まさかとは思ったが。素人目にも上手だったし、驚きと混乱と――いろんな意味でドキドキした。
しかし朝霧は「いや、弾けないよ」と即座に否定して、渉は「弾いてたじゃん」と反論する。朝霧は、ふふっと笑って口元に手を寄せると、
「ゲームで覚えた」
「……へえー……」
「顔が引きつってるし棒読みだね」
「うん……、いや、朝霧は、種類の違う天才だなって思っただけだよ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
朝霧の言葉が本当か嘘かわからないけれど、すごいことには変わりない。本当だとしたらそちらのほうがドン引きだが。
「そうだ、この動画送っていい?」
渉は撮り終えた映像をタップして朝霧に見せた。映っているのはピアノを弾く朝霧が中心で、周りの人や風景は画面外にある。
「いいけど、誰に送るの?」
「凛と、あと響弥たちのグループトーク」
「別に構わないよ」
朝霧の了承も得たので、渉はその二組に水族館で撮った写真とピアノの動画を送った。普段からやり取りする相手は凛と響弥たちくらいしかいない。ヌギ先輩もいるが、朝霧の映像を送っても仕方ないだろうし。
返信は凛からすぐに来た。
『いいなー! 綺麗!』
『動画? えっ、これ弾いてるの朝霧くん? すご!』
目を丸くする凛の顔が浮かんで、渉はスマホ画面に笑い掛ける。それから、テスト前に何遊んでるのと怒られる前に『このあと勉強会』と送信した。凛は真面目だし、家でテスト勉強をしているのだろう。『いいなー』と再度羨むメッセージに既読を付けてから渉はスマホを閉じた。
テストが終わったら、今度は凛と一緒に行こう。二人きりは恥ずかしいので、響弥と千里も誘って――
「なあ朝霧」
途端に顔をしかめた渉に、朝霧は「ん?」と眉を上げる。
「朝霧って、友達と喧嘩したときどうしてる?」
「急だね」
「んー、厳密には友達が友達と喧嘩してるって感じなんだけど……俺はどうしたらいいのかなって」
「依存を断ち切るのもその子のためになると思うけどね」
「依存……?」
それって、どういう状況だ。どちらがどちらに依存しているのだろう。あの二人の場合だと、凛が千里に? それとも千里が?
「人の関係なんて変わり続けるものだよ。長続きしない」
「そう、かな……」
「そうだよ。だから今を楽しんだら? 変わりゆく繋がりを精一杯」
変わりゆく繋がりに、千里と小坂のことが頭をよぎる。昔からの関係を維持する保守的な渉は、千里には凛との関係を大事にしてほしいと願ってしまう。けれど朝霧の言う刹那的な生き方も頭ではわかっていて……。ちょっぴり悲しい気もするけれど、彼女たちの関係を否定はできない。
――新堂も、恐れているのかな。環境の変化を恐れている。バスケのこと、嫌いではないのに戻れなくて。誰も出口を教えてくれないから、迷い続けている。
「それじゃあランチにしてから図書館に行こうか」
ああ、と頷いて、渉は朝霧に付いていく。そう言えばまだ昼ご飯を食べていない。満腹になれば眠くなってしまいそうだが、今日の本番はこれからだ。気を引き締めて勉強に取り掛からなくては。
朝霧は最寄りの飲食店をチェックした。休日はどこも混んでいる。食べたいものから考慮しようと、二人はファミリーレストランを選んだ。渉と朝霧は食が合うらしい。
朝霧のスマホが震えたのは、店内に入れるまであと一歩のとき。朝霧は「ちょっとごめんね」と言って電話に出る。渉は、後ろの人たちの話し声が気になっていた。友達のバイト先で逮捕された人がいてね、それはもうすごい騒ぎだったのよ――と、何やら事件性のある話をしている。
スマホに耳を当てた朝霧を求めたのは、小坂めぐみの金切り声だった。
『修! 助けて! 家に――』
ゴッと背後から何かがぶつかったような音がして、スマホが床に落ちたのか、ガシャンガシャンと二回ほどバウンドする。それから機械を砕くようなけたたましい音が続いて、ビリビリと鼓膜を突く凄まじいまでのノイズ音。
ブツリ。電話はそこで途切れた。しかし朝霧は聞き逃さなかった。
「朝霧、大丈夫?」
スマホを耳にしたまま動かない彼を、渉が不安そうな顔で覗き込む。朝霧はスマホを耳から離して、「望月くん、」いつもと変わらぬ調子で問う。
「さっき、
「言ったけど……」
動画のことだよね、と渉は首をひねる。朝霧は「……ふぅん、そう」と言って質問の理由は明かさずに、「なんでもないよ」と口元に弧を描いた。
「間違い電話」
電話の向こう側では微かに、夜想曲が流れていた。
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