失意の朝

「明日、例の男子高生の家に行きます」


 長海さんには、事前に伝えておきたくて。


「俺はあの子のことを被害者だと思っていたんです。環境に支配されて、身動きが取れずにいる不運な子供。罪を犯す前に大人が止めてやらなきゃいけない。今でも半分はそう信じています」


 だけど、


「先日お会いしたときに気づきました」


 


「洗脳されているのは稗苗永遠のほうです。彼女は彼を庇っている」


 長海さん、


「俺に何かあったら、あとはよろしく頼みますね」


    * * *


 小坂家を出た土曜日以降、二人と連絡が取れなくなった。グループトークでは一昨日の『今家に着いたよ』という芽亜凛のメッセージを含めて数件、今朝送った『おはよう』まで既読が付いていない。個別にかけた電話も繋がらない。

 何かがおかしい。今までにない事態が発生している。二人一気にスマホが壊れた、なんてことがない限り……。もしかすると、二人はもう……。


 考えたくない不安を抱きつつ、芽亜凛は一足も二足も先に登校した。おそらく全校生徒で一番早いであろう時間帯に。誰もいないA組とC組の教室を確認し、両方が見渡せるB組の前に立つ。二人は一緒に登校してくるだろうし、よく目立つ小坂なら後ろ姿でも判別できるだろう。

 スマホを見る。既読は付いていない。芽亜凛は自分の胸に手を置いた。

 今日に限って晴れ渡った空が憎らしい。心はこんなにも曇り空だというのに。現実は芽亜凛を嘲笑うかのように夏空を広げている。


(二人に何かあったら……私は……)


 ううん、知るのが怖い。見るのが怖い。もう誰も死んでほしくないのに。自分が死ぬことよりも恐ろしく感じる。これからのことを考えるだけで、死んでしまいたくなる。だけど知らなければ、去ることもできない。二人の安否を、確認しなくては……。

 芽亜凛は当てた手をきつく締め、ちらほらと登校してくる生徒を横目に、呑み込まれそうな不安の渦と闘った。違う生徒を見るたびに立ちくらみのようなふらつきを覚え、胃の底がキリキリと痛む。一人、また一人と空振りするたびに気がどんどん遠のいていく。手の届かない場所に二人が行ってしまう――そんな感覚に襲われる。


 淡々とA組側の階段を上る規則正しい足音は、うなだれる芽亜凛を正気に戻した。芽亜凛は右の角を曲がった朝霧を捉え、反射的に彼の腕を掴む。

 朝霧は振り返り、「おはよう」と呑気な挨拶を交わした。日常を切り取ったようないつもどおりの笑みに頭が混乱する。自分だけが現実と妄想の狭間に取り残されているかのようだ。

 ――この人は、何も知らないのか……。


「二人と連絡が取れないんです。千里と小坂さん。何か聞いてませんか?」


 半ば掴みかかるような勢いで朝霧を引き寄せて、芽亜凛は単刀直入に訊いた。朝霧は周囲を窺って、「家に帰ってないってこと?」と小声で続ける。芽亜凛は首を左右に振った。


「違うんです。私、小坂さんの家を出て、自分のアパートに帰ったんです。二人共バス停まで見送りに来てくれて、それから……それからは……」


 どっと息を吐いて頭を垂れる。


「私のせいです……私が家を出たから、二人が、何か、事故に……」

「落ち着きなよ。めぐみの両親から何か聞かされてない?」

「いいえ……もしかしたら私や千里の家にいるんじゃないかと思い込んでいるのかもしれません。友達と一緒なら、心配いらないだろうって……」


 習慣はやがて当たり前となり、思い込みという罠を張る。一度芽生えた信頼は気の緩みとなって足を掬う。日常を信じて止まないから、隙間に入り込んだ非日常の影に気づかない。

 朝霧はスマホを取り出して、どこかに電話をかけはじめた。が、一分もしないうちに耳から離し、


「繋がらない」


 芽亜凛を絶望させるには十分すぎる一言だった。小坂が最愛の彼の電話に出ないなんてありえない。たとえ通学中だとしてもだ。千里との会話に夢中になっていようと、二人で家出をしていようと、相手が朝霧修なら応えるはず……。

 ――これはもう、確定か……。


「もし二人が欠席だったら、テストが終わり次第順に家に行こう。親は仕事中かもしれないけど、娘の留守は確認できるだろう」


 芽亜凛はおずおずと頷き、ふらりと膝を折る。咄嗟に朝霧が肩を支えた。「大丈夫? 保健室に行く?」と言う朝霧の声がノイズ掛かって聞こえる。

 駄目だ。ここで逃げちゃいけない。とにかく登校だけでも確認しなければ。芽亜凛はううん、と首を振って身体を起こした。

 朝霧の言うとおり、今日一日何もなければ、家を回ってみるとしよう。二人の死体が出てこなければ。二人の身体の一部が、学校に送られなければ。


 あと頼りにできるのはネコメだけだが、彼とも連絡が取れていない。以前までなら繋がることのほうが珍しかったが、今は気づいたら折り返してくれている。それすらもないということは――?

 はあ……と芽亜凛はため息を漏らした。焦り過ぎだろうか。繋がりが切れただけでこんなにも不安になる。ネコメを信じているからこそ、怖くて怖くてたまらない。きっと大丈夫だ、きっと大丈夫。何十回も繰り返した心の呪文を唱えても、胸のざわつきは止まらない。


 みんな……お願いだから、無事でいて……。どうか、どうか。

 この止まない雨を止めて。


    * * *


 植木鉢に注ぐジョウロの水しぶきが、小さな虹を作り上げる。


 今日はテストで早帰り。誰もいなくなった教室で一人、晩夏ばんかすみれは花に水をやっていた。

 それは本来、担任の細沢ほそざわがやるべき仕事だった。生徒の誰一人として望んでいない花の手入れを美化委員に任命し、性懲りもなく大好きな花を買い漁り、窓際に並べているのは細沢である。ほかの美化委員も当然面倒くさがり、晩夏に仕事を押し付けた。本当に、いい迷惑。


 晩夏は花瓶の水を取り替えて、汚れた茎の切り口をハサミで切った。他クラスにはまだ居残り者がいるようで、廊下からは生徒たちの足音や笑い声、黒板にチョークで落書きする音まで聞こえてくる。階段の前にも男子が数名たむろしていた。

 そして友人らに先に行くよう告げて引き返してきたのか、晩夏に声をかけたのは、そのなかにいた一人。


「ばーんーかーさーん。聞きたいことあるんだけど」


 愉悦を含む声で教室に入ってきたのは、同じクラスの宮部みやべりくだった。宮部は、花の手入れをする晩夏のそばまで歩むと、スマホの画面をずいっと見せつける。


「この字、なーんか見覚えあるなーって思ってさー。勇利ゆうりの下駄箱に入ってた睡眠薬。これ入れたの晩夏さんでしょ?」


 晩夏はハサミを持つ手を止めて、冷ややかな目を宮部に向けた。スマホ画面には、確かに晩夏が用意して送った睡眠薬のメモが写っていた。


「駄目だった? いけないこと?」


 シャキンシャキンと、ハサミが鳴る。

 宮部は興味深そうに眉を持ち上げて、あは、と破顔した。


「いや、全然。むしろウェルカム!」

「そう。ならよかった」


 好奇心を宿す宮部とは裏腹に、晩夏の視線は再び花へと落ちる。彼女の言う『ならよかった』は、『馬鹿でよかった』という意味だ。


「なんで俺らにこんなことを? 加担っていうか、手を貸すようなことをしたわけ?」


 晩夏はピクリと反応し、左手で頬に触れた後、花瓶に手を添えた。

 そんなの、決まっているじゃない。


「滅茶苦茶になっちゃえば、いいよ」


 みんな、みーんな。


「壊れちゃえばいいんだ」


 シャキン、シャキン。

 花の首が落ちた。

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