絶望するあなたに

「あ、これガチ死んだわ」

「あたしも」


 きゃはははは、と不調とは思えない声で笑いながら教室を出ていくE組の女子グループ。変なところで真面目なのか、テストで解答の怪しかった箇所を教科書で確認し合い、ほかの生徒が二人になるまで彼女たちは居残っていた。

 ――ようやく帰ってくれた。

 空気を読んで出ていったとも言える。だって教室に残ったのは、渉と新堂だったのだから。


 渉はホームルームを終えた後、一緒に帰るかと訊いてくれたいつメンの誘いを断り、新堂は「先行ってろ」と、宇野うのつじを送り出していた。声をかけるタイミングを見計らいつつ、渉は居残り勉強というていで新堂を窺う。新堂もまた、席でスマホをいじりながら、帰る素振りをまったく見せない。

 いつも率先して教室を出ていく彼が、一人で、しかも早帰りの日に長く留まっている。そのこと自体が異例で、クラスメートは珍獣を見る目をしながら続々と帰っていった。

 まさかなとは渉も思った。声をかけられるのを待っているのかなとか、二人きりになるまでいるつもりなのかなとか。早とちりであっても、そんな淡い期待を抱いてしまう。

 そして最後の女子グループが帰り、声が遠ざかっていくのを耳にして、


「おい」


 と、先に声を発したのは新堂のほうだった。予想だにしない口火に渉は驚き身をすくめ、恐る恐る斜め後ろを振り向く。新堂は、はっきりと渉のほうに身体を向けており、視線がかち合うと目を泳がせた。


「テストの調子、どうだった」


 渉が訊こうとしていたことを新堂は投げやりに口にした。渉はまだ状況が読み込めず、「あ、うん、バッチシ」と固まった状態で答える。新堂は「あっそ」と言ってスマホをポケットにしまい立ち上がった。それだけでもう帰ってしまうのかと一瞬ヒヤリとしたが、そうではなく。

 新堂は、渉の前の椅子に座り、渉の机に頬杖をついた。「低いな」と――椅子に言ったのか机に言ったのか、両方か――舌打ちしながら足を組む。


「身体の具合は」

「…………え?」


 新堂はもう一度舌打ちをし、「身体の具合は、どうなんだっつってんだよ」と語調を強めた。渉はぽかんと口を開き、「あ、大丈夫」と深く頷く。新堂は納得したように肩を落とし、「あっそ」と腕を組んだ。

 ――これは、本当に、もしかしなくても……、


「心配されてる?」

「あたりまえだろ」


 新堂は渉を睨み即答した。


「目の前で急に、スヤスヤ眠られたら……誰だってびびるっつーの」

「あっ……新堂が、保健室に……運んでくれたんだよな。ありがとう」


 休日を跨いでやっと言えたお礼だった。あのときの記憶は渉自身あやふやであるが、直前まで新堂と一緒だったことは憶えている。もしかして、休みの間もずっと気にしてくれたのだろうか。お礼を言いたくても言えなかった渉のように、新堂もまた。それはそれで、申し訳なさが勝ってしまうけれど。


「新堂はテストどうだった? バッチリか?」

「言うまでもねえよ」

「さすがだな……」


 サボってばかりの状態でクラス内三位の成績を維持できるのだ。新堂が本気を出せば一位にもなれてしまうのだろう。これまでの渉だったら到底及ばない壁である。

 だが今は朝霧が付いている。渉も十分勉強し、新堂に負けまいと努力してきた。きっといい勝負になっているはずだ。

 新堂は渉から目線を外し、何か言いたげに口ごもった。


「お前さ……こないだの体育館で――」

明樹はるきーっ」


 と、新堂を呼んだのは辻勇利。他クラスから戻ってきたのか、教室に顔を出し、遅いよと言い切る前に渉に焦点を合わせる。そして重たい瞼を途端に持ち上げると、目の色を変えてまっすぐ渉の元へ、風を切るように入ってきた。

 辻は渉が口を開くよりも早く胸ぐらを掴み上げ、後ろのゴミ箱へと突き飛ばす。「何話しかけてんだよゴミ。キモいんだよ!」罵声と共に胸をどんと押され、脚はゴミ箱に当たり、背中は冷たい窓ガラスにぶつかる。


「明樹にちょっかい出すなよ。ストーカーかよ気持ち悪いな。明樹は嫌だっつってんだよ」


 言いたい放題に気圧されて、渉は声も出なかった。しかし、『嫌』って、バスケ部に戻ることの話か……?

 何も答えない渉に辻は舌打ちを鳴らし、「あんまり調子こいてると殺すぞ」と背を向ける。


「行こう明樹」


 捨て台詞のようにぽつりと言い残し、教室を出ていこうとする辻を、渉は「待てよ」と呼び止めた。辻は、新堂のほうをまったく見ないで、くるりと渉を振り返る。


「何だよ」

「お前新堂の友達なんだろ? 友達だったら応援してやるのが普通じゃねえのかよ」

「は?」

「駄目なことは駄目って言って、叱ってやるのが友達だろ!」


「なっ……」辻は打たれたように口を開け、わなわなと両腕を震わせた。「何偉そうなこと言っ――」


「偉そうなのはお前だろ」


 渉は辻の言葉を遮る。


「明樹明樹って、お前さっきから新堂のこと何も見てねえじゃねえか。俺が新堂を呼んだと思うか? 違うだろ? 新堂が俺に声かけてくれたんだよ。わざわざ教室に残って、俺のこと心配してくれたんだよ。お前はそれを認めたくないんだろ? だから現実から目を逸らして、安い暴言しか吐けないんだ」


 違う、と言いたいのか。辻は片頬をピクピクと引きつらせながら小刻みに首を振るが、見開かれた両目はやはり渉のほうを向いている。新堂を見るのが怖いのだ。変わろうとする新堂を見るのが。


「お前やお前の友達は、いつまでもぬるま湯に浸かってるけどな、新堂は抜け出そうとしてんだよ。藻掻いてる途中なんだよ。それを何だよ、ゴミだのキモいだの言って、見ようともしないで。何甘えてんだよ。お前らがそんなんだから、新堂が苦しんでるんじゃねえのかよ!」


 静まり返った教室に、ゴクリと嚥下する音が聞こえた。辻は返す言葉もないらしく、両目に涙の膜を張りながら力なくうつむく。そうやってまた下を見続けるのか。

 渉は呆れて、小さくため息をこぼした。


「何が友達だよ。だったら俺は友達なんていらない」


 そんな安っぽい関係なら俺は最初からいらない。隣にいる人を応援できないのが友達なら、俺は他人のままでいい。

 渉は、机にぶら下がった鞄を引ったくって教室を出た。背後で椅子を引く物音がしたが、頭に血が上って意識の範囲外にある。今までの鬱憤が溢れたと言うべきか。散々説教臭いことを言ってしまったが、辻だけを責めたところで新堂を取り巻く環境は変わらない。

 ――俺は光になりたい。暗闇で迷っている新堂を日の下に導く光に。


「おい」


 ぽん、と肩を叩かれて渉はそちらを見上げる。階段を急ぎ足で下りてきた新堂は、渉の隣に並んで「帰るぞ」と、さも当たり前のように言った。渉は耳と目を疑い顔をしかめる。


「なん……え?」

「顔がブスになってるぞ」

「いやいや顔は関係ないだろ」


 渉は思わず後ろを振り返り、「え、辻はいいの……?」と肩身を縮めた。

 いつもは眠たげな目で飄々と振る舞い、決して感情的になる奴じゃないのに、そんな辻が剥き出しの心で渉に立ち向かったんだ。彼は泣くほど新堂のことが好きなんだろう。渉と二人でいるところを見て、気が動転したに違いない。そんな奴を放っておいていいのか。

 新堂は「は? なんで?」と言うが、なんではこっちの台詞である。表情もいつになく晴れやかというか、スッキリしているような。それに足取りも――


 足取り。


 渉は新堂と自分の足元を交互に見て、はは、と笑みをこぼした。新堂は「あ?」と目を吊り上げるが、やはりそれは変わらない。

 ずっと先ばかり行って、追いつくのに必死だったのに。今は……。


 新堂が――渉に歩行を合わせている。隣で肩を並べている。言葉ではなく態度で示して、渉に寄り添ってくれている。そのことに気づくと、つい顔がニヤけてしまって。

 渉は「なんでもねえよ」と言いながら、ここ一番の贈り物に顔を綻ばせた。


    * * *


 灼熱の太陽がコンクリートの地面を照りつける。停車している車の上にもカーブミラーにも蜃気楼が揺らめき、夏の暑さが目に見えていた。

 下校後、芽亜凛は約束どおり朝霧と千里の家を訪ねた。だがインターホンを鳴らしても応答はなく、人の気配すらしない。朝霧は胸の前で腕を組み、「あとはめぐみの家か」と後退した。芽亜凛は、もういいです、と言ってしまいたくなる衝動を噛み殺し、「そうですね」と舌先で呟く。

 終わりが近づいている。逃れられようのない日常の終わりが。


(ああ、どうして……)


 神様は不公平だ。守りたいものを守らせてくれない。何度やっても、何度やっても、芽亜凛に諦めを要求してくる。何度やっても、何度やっても……手のひらから幸せがこぼれ落ちていく。

 ――私には誰も救えないのか。隣で笑ってくれる女の子さえ。こんな私を迎え入れてくれた友人たちでさえ。

 嫌だ……嫌だ。諦めたくない。こんなところで終わりにしたくない。またゼロからやり直すなんて……できない。


たちばなさん」


 両肩を抱く芽亜凛の顔を、朝霧は首を傾けて覗き込んだ。


「少し休もうか」

「……いいえ……大丈夫です」

「でも顔色が、」

「大丈夫だってっ!」


 芽亜凛は自分の声にハッと驚き、「言ってるでしょう……」と弱々しく続けて目を伏せた。

 朝霧に非はない。どころか、ここまで付いてきてくれただけでなく、芽亜凛に代わっててきぱきと順路を確認し、進んでインターホンを鳴らし、敷地を散策したり着くまでに通行人に話を聞いたりして、情報収集までしている。彼に八つ当たりするのは筋違いだ。


 だがさすがの朝霧も呆れたのか、颯爽と踵を返して芽亜凛から離れた。ガコン、と背後で物の落ちる音がして、戻ってきた朝霧は芽亜凛の視界にペットボトルの水を差し出した。

 芽亜凛は、安堵と罪悪感から出るため息を我慢して、「ありがとうございます……」とペットボトルを受け取り顔を上げる。朝霧は涼しい顔で笑みを作り、木陰へと芽亜凛を招いた。冷たいペットボトルの水を飲むと、興奮していた心拍数も徐々に落ち着いてくる。芽亜凛はこれからのことを考えた。


 小坂の家まではバスで向かったほうが早い。インターホンを鳴らし、誰かが出るのを待つ。両親がいたらまずは事情を説明して、家に娘たちがいなかったら警察に連絡し、捜索願が出される。誰も出なかった場合は……その場で待つか、きっと朝霧が決めてくれるだろう。

 そして、家に二人がいた場合、この底知れぬ不安ともおさらばできる。そのときは二人に言ってやるのだ。心配かけないでと。二人の胸に飛び込んで、目一杯抱き締めてやる。


「橘さん!」


 隣でスマホを見ていた朝霧は突然、似つかわしくない様子で声を張った。何事だと身構える芽亜凛に、朝霧はスマホ画面を見せる。映っていたのはどこかの掲示板――藤ヶ咲ふじがさき北高校の裏掲示板だった。

 スレッドは『ニュース速報』。


『マジ? 誰? どこ情報?』

『C組の東崎とうざきが職員室で話してたって』

『いつ? 誰? 男子? 女子?』

『なんか昨日から捕まってたらしいよ』

『C組で休みだったのって二人いるよね? どっち?』

『男子のほう』

『それマジで言ってんの?』

『じゃあ、あいつか』


 C組。男子。欠席者。捕まったって、いったい、どういうこと……。

 心の呟きと同時に、芽亜凛はその下の書き込みを見て思考を止めた。




『C組の神永響弥が逮捕されたんだって』

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