運命を越えて
「穂遅いよ」
体育館に駆けつけると、しかめっ面の三城からご機嫌斜めの第一声を貰った。しかし彼女は表情に反して、「心配したんだからね」と続ける。子供じゃないんだから、と思いつつ、椎葉の胸の中央が温かくなった。
「ごめん、トイレで着替えてきた」
「あの日なの?」
「バカ遥香」
振り返った桜井を一喝して、椎葉は周りに目を留める。ランニングもストレッチも終えたらしい女子たちは、体育倉庫にぞろぞろと群がっている。今日の授業が跳び箱運動だというのは、桜井から聞いていたので知っている。その準備に取り掛かっているようだ。
椎葉は一人、軽くストレッチをしながらその様子を見物した。男子の授業はマット運動らしく、跳び箱を運ぶ女子に紛れて運ぶ姿が見て取れる。
芽亜凛は、その腰まで届く長い髪をポニーテールに結っていた。男子から多くの視線を浴びているようだが、本人は知らんぷりで器具運びに勤しんでいる。椎葉は普段からポニーテールにしているが、注目は感じられない。所詮、求められるのは目新しさだと、椎葉は髪の束を払った。
前方から女子たちの声が聞こえてくる。
「珍しいよね跳び箱なんて」と肩をすくめる
「あたし小学校以来かも」と瀬川が跳び箱の天井を運ぶ。
「うちは中学でもやったなー」と
そんな世戸グループに睨みを利かせながら、椎葉はステージ下に後退した。名簿を見ている三城の隣に行くと「はい」とボードを渡される。
「楓取らないの?」
体育の記録を取るのもまた、体育委員の役割だ。いつもならサボりの口実として、記録係を率先する三城なのに、どうしたと言うのだろう。
三城は肘をクロスにして曲げて、関節を伸ばしつつ答えた。
「今日はいいや。身体動かしたい」
彼女にとって雨天時の体育は、ほとんど遊びのようなものだったはず。それなのに珍しくやる気だなんて、今朝のことを引きずっているとしか思えなかった。
わかった、と椎葉は三城に代わって記録係を受諾した。自分の記録は自分で伝えに来るという方針のため、わざわざ体育委員が立っている必要もないのだが。教師曰く、秩序とコミュニケーションのためらしい。
係をやるにしても、一度は跳ぶことになるだろう。最上段は何段だろう、と思ったとき、女子のうちの誰かが言った。
「えっ、何あれ」
その声に合わせて視線を向けると、一番奥のマットの前に、高跳び用のバーが設置されていた。手前には六段の跳び箱がある。あのバーは七段以上の代わりということだろうか。
「七段駄目らしいよ」
「なんで?」
「男子が言ってたって」
「あれ提案したの誰?」
「E組の
ひそひそと口にするC組の女子には、不満げな顔つきの者が多かった。「あんなの跳べるの陸上部くらいでしょ」という声も聞こえてくる。根暗なC組女子たちは、E組の独断にご立腹のようだ。挑戦する前から諦めてるのなら黙ってなよ、と椎葉穂は思った。
みな各段の前に並びはじめた。跳び箱は四段から六段。一番奥に、走り高跳びのスペシャルコース。三城はどこにいるのだろうと、椎葉は目を動かした。
三城楓は、高跳びの列に一人だけ並んでいた。
「目立ちたがり屋かよ」という声が聞こえてきて、椎葉はそちらに首を向けた。目が合った世戸は、声の主である瀬川の腕を小突いた。瀬川千晶はこちらを振り返ると、フンと鼻を鳴らして笑う。鬱陶しい女だ。椎葉の手のなかで、ボールペンがミシリと軋んだ。
(楓なら大丈夫。余裕で跳べるはず)
だがしかし、今朝の調子を思うとやや不安になる部分もある。バーの高さは百二十センチメートル程度。陸上部の記録では跳べていた高さだ。三城のやる気が空回りに終わらなければいいが……。
――私の親友が越えられないはずないでしょ。
C組の女子体育委員の笛の音を合図に、各自一斉に駆け出した。
椎葉は三城の様子が見える位置にしっかりと着いていた。三城は首を左右に回して、爪先をトントンと床に当てる。高跳びをするときの、彼女のルーティンだ。
走り出した三城は、思い切り床を蹴って――背面跳びでバーを越えた。バーは揺れることもなく、静止している。成功だ。
「うわ、つまんねー」
頭の後ろで指を組んでいる瀬川が、小さな声で愚痴った。椎葉は心のなかでざまあみろと蔑み、三城の記録を目視で書き込んだ。
ほらね――やっぱり楓は最強だ。あんたたちとは違う。
三城はスキップしながらステージ下にやってきた。
「もう書いたよ」
「ありがと」
あは、と笑って鼻を掻き、三城は「跳ぶときになったら言ってね。あたしほか行ってくる」と再び跳び箱のほうへと駆けていく。はいはい、と釣られて笑って手を振り、椎葉は続々と告げられる記録を取っていった。
E組は大方、四段から順に跳んでいる。久しぶりの跳び箱に苦戦して、五段で足踏みしている者もいるみたいだ。その様子を眺めながら、自分はどこに行こうかと考えた。六段ならギリギリ行けそうか、まだ跳んだ者はいないようだが。
「ねえ高部さん、あれ跳んできてよ。言い出しっぺなんでしょ?」
世戸の声が耳に這入ってきた。
「そう言う世戸が跳んだらどうだ。陸上部だろう」
「はぁー? 体育でガチになるとか無理なんだけど」
「じゃあ私もムリナンダケドだ」
「シン、私もシンの本気見たい」
「ここあが言うなら仕方ない!」
E組のエースこと高部シンは、高さ百二十センチのバーをハードルのごとく跳び越えていった。三城唯一のものだった栄光が、高部のものにと付与される。
「いやいや、チーターか」
「高部さんさすがぁー」
世戸グループはご満悦とばかりに口角を上げた。……他人を利用してまでマウントを取りたいか。浅ましい人たち、と椎葉は呆れた。
くだらない優越感の取り合いに巻き込まれている三城は、C組の女子たちに跳び方を教えていた。E組は比較的運動のできる者が多く、対するC組には少ない、というのが椎葉の印象だった。態度の悪い世戸たちも、ああ見えて運動は平均以上にできる。今年の体育祭はおそらく敵なしだろう。
(私もそろそろ跳んでくるか……)
名簿の上にペンを置いたとき、視界の横からひょこっと女子が顔を出した。
「百井凛ちゃん、六段跳んだよ」
凛とお揃いの髪留めをサイドテールに付けている、二年C組の女子生徒。
六段の列を見ると、今度は転校生が跳び箱を越えたところだった。凛はその先で拍手をしている。彼女の言うとおり、楽々と跳び終えたのだろう。
「わたしも運動できたらなー。いやぁ、凛ちゃんには付いていけないっすわー」
彼女は椎葉に話しかけるでもなく、独り言のように呟いた。さっきまでC組の輪のなかで、三城に跳び方を教わっていたようだが、彼女の意識は百井凛に向けられていたみたいだ。椎葉が三城を注目するように、彼女もまた、親友の凛を注目する。
椎葉は無言で、百井凛と橘芽亜凛の欄に『6』と記入した。
そして、「えっ」と横から声が上がる。思わず、何? と返しかけて椎葉は口をつぐんだ。
女子生徒――松葉千里の視線は、椎葉に向けられたものではなかった。千里は跳ねるようにして凛の元へと駆けていく。辿った先には、凛と芽亜凛が向き合い、手を取り合っていた。
芽亜凛の横顔は涙で濡れていた。
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