一触即発
昔から弱い奴は嫌いだった。
でかい背中に隠れて野次を飛ばすだけの虎の威を借る狐とか。他人の反応を窺っておどおどしている張り子の虎とか――今まさに目の前で唇を噛み締めている紙人形とか。毎度毎度うまく扱われているとも知らずに。
だから人はみな彼女に魅せられ、惹かれ、夢中になる。彼女だけは特別な存在であった。強くて弱い、ただ一人の親友。
その姿が愛おしいと、
「ありがとチオ、助かったぁー。さすがクラス六位のノートは違うわ」
数学の課題を写し終えた三城は、チオこと
「楓ほんっと数学駄目だよね」
「うん。数字見るだけで吐きそうになるからね」
「重症すぎ」
椎葉が言うと三城は、「やっと朝ご飯食べれるー」と言って、ペンケースの横に置いてあったおにぎりに手を付けた。
「楓ちゃんご飯食べてなかったの?」
「そう。先輩がくれた」
「にしてはタイムよかったけどね」
三城は「まあね」とはにかむ。
椎葉と三城は同じ女子陸上部員。朝練中に空腹だという旨を話していたら、先輩に聞かれていて、『食べなきゃ駄目!』と売店のおにぎりを手渡されたのだ。
これは先輩がいい人というより、三城が気に入られているという事実である。椎葉が言っても、あの先輩は朝食を奢ってくれたりはしないだろう。
安浦は女子バスケ部のマネージャーであるため、この話は知らない。そのため三人でいる間は話題に乗り切れず、聞き役に回ることが多い。同じバスケ部の
椎葉は隣の空席を見つめた。桜井
噂をすればシャララランと、椎葉のスマホが通知音を奏でた。見ると、桜井からのメールであった。わざわざ個人トークを送ってくるとは何事だと思いながら、新着メッセージがありますをタップする。
『C組前集合。楓にはしーっで!』
そんな一文が、桜井遥香から送られてきていた。しかも、三城には内緒だと。
(集合って……)
自分以外にも送っているのかと思い、椎葉は安浦の顔を盗み見た。安浦は吸い込まれるようにして、隣の三城の顔を凝視していた。その視線を辿ると、三城の口元に、ご飯粒がひとつ。
彼女はスマホを片手におにぎりを食べている最中だった。口元に残されたご飯粒にも、安浦の視線にも気づいていない。安浦も安浦で言い出せないようらしい。
椎葉は自分の唇を指差しながら、「楓、ご飯粒ついてる」と指摘した。
「む?」と気づいた三城は親指でご飯粒を掬い、ピンクの舌で舐め取った。
「ねえ楓、今日の体育の内容って聞いた?」
この機を逃さずに椎葉は尋ねる。
「……あ、聞いてない」
「私聞いてくるよ。どうせなかだろうけど、保健かもしんないし」
「ん、じゃお願い」
三城の返事を聞いて椎葉は席を立つ。
二人はE組の女子体育委員。今日は一限目から体育があるので、鍵の貸し借りを担当することになる。これも体育委員の仕事だが、いつもは合同するクラス――今日だとC組だ――の委員に任せている。以前鍵の貸し借りで相手クラスと揉めたことがあって、それ以来椎葉と三城は楽ができるようになった。相手に仕事と責任を押し付けたとも言う。
そのため椎葉たちは授業内容を確認するだけでいい。朝練中は降っていなかった梅雨の雨も、じきに降りはじめるだろう。土の状態も最悪だったので室内活動になると思うが。
C組の教室前に桜井がいた。スマホ画面を注視していた桜井は、椎葉が来たことに気づくと、眉間にしわを寄せてぶんぶんと手招きした。
「返信待ってたのにぃ」と小言を言う桜井遥香。返信しないのは「いつものことでしょ」と椎葉は言って本題に入る。
「集合って何?」
「あそこあそこ!」
桜井は斜め前方の窓を指差した。何を見せたいんだかと首を動かして、椎葉は目を見開いた。
窓際前方の席に、E組の転校生と男子がいた。椎葉も名前を知っている――神永響弥だ。
ふたりは向かい合って椅子に座っている。転校生の横顔は無表情だが、響弥の顔は笑顔で、何やら身振り手振りで話し込んでいるみたいだ。どう見ても一方的に話しかけているようにしか見えないが、転校生がちゃんと顔を見て聞いているのが意外だ。
「今日ね、神永響弥と家から出てきたらしいよ」
「は?」
椎葉はつい突発的に返していた。その反応が気に入ったのか、桜井は口に手を当てて「むゅふふ」と奇妙な笑いを漏らす。
「神永くんちってお寺じゃん? そこからふたりで出てきたぁってのが目撃者情報なのだ!」
えっへんへん、と胸を張る桜井。その胸元には四人お揃いのネクタイピンが光っている。
馬鹿馬鹿しいなと椎葉は思った。そんなの、家で待ち合わせをすれば普通のことではないか。いちいち三城に内緒で呼び出すほどのことではない。
そのような節を伝えると、「そうでもないっぽいんだよね」と桜井は続けた。
「泊まりだって、本人言ってたもん」
(…………本人)
椎葉はもう一度ふたりに目を向けた。雰囲気からして、言いふらしているのは響弥のほうだろう。
神永響弥が転校生に告白したという話は、昨日のうちに耳にしている。藤北の裏掲示板でも盛り上がっていたようだし、男子の間では勇者だと崇められていた。
――問題はその後だ。
転校生が響弥の告白を受け入れたという噂が、そこらで飛び交っているのだ。昨日四人のグループトークでもその話はしたが、『初日に告られて受け入れるとかありえないんだけど』と三城は嘲笑っていた。椎葉もまさかね、と思っている。
しかし、火のないところに煙は立たぬ。
「初日からお泊りってさぁ、大人しそうな顔してやるよねー。やりたがりだったら楓かわいそだよぉ。神永くん騙されてるってことだし?」
隣で桜井がきゃらきゃらと声を上げる。やりたがりとか騙しとか、どうしてそういう話になるんだか。これだから頭お花畑は困る。
――それを私に言ってどうしたいんだ。
「顔はいいからなー神永響弥。でも楓聞いたら絶対怒るよね?」
「聞かせなきゃいいんでしょ」
椎葉は桜井を見下ろした。桜井は満足したように「にゅふ」と猫口になる。
親友の恋のためにか。傷心させないためにか。
――どっちでもいいよ。楓のためになるのなら。
「ついでに今日の体育の内容聞いといて」
椎葉はそう言い捨てて、E組へと回れ右をした。「うげぇーパシりだー!」という桜井の悲鳴を背中で聞きながら。
はたして、他クラスや先輩とも繋がり深い我らがリーダーの耳に、新情報という名の噂は入らぬものなのか。聞かせなきゃいいとは言ったものの、いつまでも防げるものじゃないだろう。
そんな文句を垂れたい気持ちを抑えて、椎葉穂は教室に戻り、前方の扉の前で足を止めた。
教室内は、一触即発の空気をまとっていた。
「だからぁ別にあんたに言ったわけじゃねえっつーの。誰が誰の話してようが関係ねえし。盗み聞きしてキレんなよ」
聞こえてきたのは、口汚く荒立てる
「あんたがでかい声でキモい噂してるからでしょ。朝帰りとか何その嘘、キモ」と、席で起立し腕を組んでいる三城が言い返す。
「いや本人が自慢してたんですけどー」と瀬川は天を仰ぎ、口に咥えたキャンディを噛み砕く。
「だからそれが嘘だって言ってんでしょ。男子の自慢話なんか鵜呑みにしちゃって、馬鹿じゃないの?」
自分の席で縮こまっている安浦は、椎葉にヘルプを目で訴えかけている。三城は扉に背を向けているので気づいていない。C組から戻ってきた桜井が「遅かったみたいだねぇ」と隣で呟いた。どうやらそのようらしい。
噂好きの瀬川千晶のことだ、駄弁りながら教室に入ったところを三城が噛み付いたのだろう。聞く限りその内容は、桜井と警戒していたもののようである。
三城と瀬川はなおも言い合っている。先生や委員長がまだいないからって、誰も止めようとはしないし。
何やってんの? と椎葉が割り込みかけたそのとき、後ろの扉から転校生が戻ってきた。
すかさず瀬川が顎で指し、「聞いてみれば?」と煽る。
三城は転校生を横目に見て、ずんずんと彼女の前に向かった。着席した転校生を鋭く見下ろし、
「あんた今日、朝帰りしたの?」
取り繕いもしないストレートな言葉が教室内に響き渡る。
転校生はきょとんと目を丸めかせて、いいえ、と首を振った。「そう」と三城は微笑んだ。
「ほーらね、嘘。適当言うのもいい加減にしなよ、瀬川千晶さん」
三城は顔いっぱいに勝利を浮かべて、自分の席へと戻っていく。椎葉と桜井も着席した。「何の話してたのかや?」と桜井がとぼけると、「別に」と三城は苦笑した。
転校生は、嘘は言っていないのだろう。一泊し、そのまま登校してきたのなら、朝帰りにはならないのだから。
* * *
一限目の体育がはじまる前。誰もいなくなった教室で、椎葉は橘芽亜凛の机を漁った。指で掴んだ教科書を引っ張り出して、裏を見る。
国語総合の教科書には、黒のマジックペンで『橘芽亜凛』と記されていた。習字でも習っていそうな整った字である。しかし国語は昨日も予定にあった教科であるため、証拠にはならない。
次に取り出したのは、化学基礎の教科書だ。化学科の授業は昨日予定になかったし、今朝見たC組の予定板にも貼られていない。
裏返した指に力が加わった。
教科書裏にはかすれたインクで、『神永』と書かれていた。
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