一触即発

 昔から弱い奴は嫌いだった。

 でかい背中に隠れて野次を飛ばすだけの虎の威を借る狐とか。他人の反応を窺っておどおどしている張り子の虎とか――今まさに目の前で唇を噛み締めている紙人形とか。毎度毎度うまく扱われているとも知らずに。


 三城さんじょうかえでも、弱い人間のうちの一人だった。彼女は己の弱さを自認している。その上で隠し、強くあろうとする人間だ。

 だから人はみな彼女に魅せられ、惹かれ、夢中になる。彼女だけは特別な存在であった。強くて弱い、ただ一人の親友。

 その姿が愛おしいと、椎葉しいばみのりは思うのだ。


「ありがとチオ、助かったぁー。さすがクラス六位のノートは違うわ」


 数学の課題を写し終えた三城は、チオこと安浦やすうら千織ちおりにノートを返した。受け取った安浦は顔を赤くして微笑んでいる。同じ仲間内グループでつるんでいるくせに、王様に逆らうことができない。まるで薄っぺらい奴隷だな、と椎葉は思った。


「楓ほんっと数学駄目だよね」

「うん。数字見るだけで吐きそうになるからね」

「重症すぎ」


 椎葉が言うと三城は、「やっと朝ご飯食べれるー」と言って、ペンケースの横に置いてあったおにぎりに手を付けた。


「楓ちゃんご飯食べてなかったの?」

「そう。先輩がくれた」

「にしてはタイムよかったけどね」


 三城は「まあね」とはにかむ。

 椎葉と三城は同じ女子陸上部員。朝練中に空腹だという旨を話していたら、先輩に聞かれていて、『食べなきゃ駄目!』と売店のおにぎりを手渡されたのだ。

 これは先輩がいい人というより、三城が気に入られているという事実である。椎葉が言っても、あの先輩は朝食を奢ってくれたりはしないだろう。

 安浦は女子バスケ部のマネージャーであるため、この話は知らない。そのため三人でいる間は話題に乗り切れず、聞き役に回ることが多い。同じバスケ部の桜井さくらいがいれば気後れせずに済むのだろうけれど。椎葉には関係ないことである。


 椎葉は隣の空席を見つめた。桜井遥香はるかはまだ教室に来ていない。四人のグループトークには顔を出していたが、マネージャーの安浦が戻ってきていて桜井がまだ体育館にいるとは考えにくい。彼女のことだ、どうせ他クラスをほっつき歩いているに違いない。

 噂をすればシャララランと、椎葉のスマホが通知音を奏でた。見ると、桜井からのメールであった。わざわざ個人トークを送ってくるとは何事だと思いながら、新着メッセージがありますをタップする。


『C組前集合。楓にはしーっで!』


 そんな一文が、桜井遥香から送られてきていた。しかも、三城には内緒だと。


(集合って……)


 自分以外にも送っているのかと思い、椎葉は安浦の顔を盗み見た。安浦は吸い込まれるようにして、隣の三城の顔を凝視していた。その視線を辿ると、三城の口元に、ご飯粒がひとつ。

 彼女はスマホを片手におにぎりを食べている最中だった。口元に残されたご飯粒にも、安浦の視線にも気づいていない。安浦も安浦で言い出せないようらしい。

 椎葉は自分の唇を指差しながら、「楓、ご飯粒ついてる」と指摘した。

「む?」と気づいた三城は親指でご飯粒を掬い、ピンクの舌で舐め取った。


「ねえ楓、今日の体育の内容って聞いた?」


 この機を逃さずに椎葉は尋ねる。


「……あ、聞いてない」

「私聞いてくるよ。どうせなかだろうけど、保健かもしんないし」

「ん、じゃお願い」


 三城の返事を聞いて椎葉は席を立つ。

 二人はE組の女子体育委員。今日は一限目から体育があるので、鍵の貸し借りを担当することになる。これも体育委員の仕事だが、いつもは合同するクラス――今日だとC組だ――の委員に任せている。以前鍵の貸し借りで相手クラスと揉めたことがあって、それ以来椎葉と三城は楽ができるようになった。相手に仕事と責任を押し付けたとも言う。

 そのため椎葉たちは授業内容を確認するだけでいい。朝練中は降っていなかった梅雨の雨も、じきに降りはじめるだろう。土の状態も最悪だったので室内活動になると思うが。


 C組の教室前に桜井がいた。スマホ画面を注視していた桜井は、椎葉が来たことに気づくと、眉間にしわを寄せてぶんぶんと手招きした。

「返信待ってたのにぃ」と小言を言う桜井遥香。返信しないのは「いつものことでしょ」と椎葉は言って本題に入る。


「集合って何?」

「あそこあそこ!」


 桜井は斜め前方の窓を指差した。何を見せたいんだかと首を動かして、椎葉は目を見開いた。

 窓際前方の席に、E組の転校生と男子がいた。椎葉も名前を知っている――神永響弥だ。

 ふたりは向かい合って椅子に座っている。転校生の横顔は無表情だが、響弥の顔は笑顔で、何やら身振り手振りで話し込んでいるみたいだ。どう見ても一方的に話しかけているようにしか見えないが、転校生がちゃんと顔を見て聞いているのが意外だ。


「今日ね、神永響弥と家から出てきたらしいよ」

「は?」


 椎葉はつい突発的に返していた。その反応が気に入ったのか、桜井は口に手を当てて「むゅふふ」と奇妙な笑いを漏らす。


「神永くんちってお寺じゃん? そこからふたりで出てきたぁってのが目撃者情報なのだ!」


 えっへんへん、と胸を張る桜井。その胸元には四人お揃いのネクタイピンが光っている。

 馬鹿馬鹿しいなと椎葉は思った。そんなの、家で待ち合わせをすれば普通のことではないか。いちいち三城に内緒で呼び出すほどのことではない。

 そのような節を伝えると、「そうでもないっぽいんだよね」と桜井は続けた。


「泊まりだって、本人言ってたもん」


(…………本人)


 椎葉はもう一度ふたりに目を向けた。雰囲気からして、言いふらしているのは響弥のほうだろう。


 神永響弥が転校生に告白したという話は、昨日のうちに耳にしている。藤北の裏掲示板でも盛り上がっていたようだし、男子の間では勇者だと崇められていた。

 ――問題はその後だ。

 転校生が響弥の告白を受け入れたという噂が、そこらで飛び交っているのだ。昨日四人のグループトークでもその話はしたが、『初日に告られて受け入れるとかありえないんだけど』と三城は嘲笑っていた。椎葉もまさかね、と思っている。

 しかし、火のないところに煙は立たぬ。


「初日からお泊りってさぁ、大人しそうな顔してやるよねー。やりたがりだったら楓かわいそだよぉ。神永くん騙されてるってことだし?」


 隣で桜井がきゃらきゃらと声を上げる。やりたがりとか騙しとか、どうしてそういう話になるんだか。これだから頭お花畑は困る。

 ――それを私に言ってどうしたいんだ。


「顔はいいからなー神永響弥。でも楓聞いたら絶対怒るよね?」

「聞かせなきゃいいんでしょ」


 椎葉は桜井を見下ろした。桜井は満足したように「にゅふ」と猫口になる。

 親友ののためにか。傷心させないためにか。

 ――どっちでもいいよ。楓のためになるのなら。


「ついでに今日の体育の内容聞いといて」


 椎葉はそう言い捨てて、E組へと回れ右をした。「うげぇーパシりだー!」という桜井の悲鳴を背中で聞きながら。




 はたして、他クラスや先輩とも繋がり深い我らがリーダーの耳に、新情報という名の噂は入らぬものなのか。聞かせなきゃいいとは言ったものの、いつまでも防げるものじゃないだろう。

 そんな文句を垂れたい気持ちを抑えて、椎葉穂は教室に戻り、前方の扉の前で足を止めた。

 教室内は、一触即発の空気をまとっていた。


「だからぁ別にあんたに言ったわけじゃねえっつーの。誰が誰の話してようが関係ねえし。盗み聞きしてキレんなよ」


 聞こえてきたのは、口汚く荒立てる瀬川せがわ千晶ちあきの声だった。


「あんたがでかい声でキモい噂してるからでしょ。朝帰りとか何その嘘、キモ」と、席で起立し腕を組んでいる三城が言い返す。

「いや本人が自慢してたんですけどー」と瀬川は天を仰ぎ、口に咥えたキャンディを噛み砕く。

「だからそれが嘘だって言ってんでしょ。男子の自慢話なんか鵜呑みにしちゃって、馬鹿じゃないの?」


 自分の席で縮こまっている安浦は、椎葉にヘルプを目で訴えかけている。三城は扉に背を向けているので気づいていない。C組から戻ってきた桜井が「遅かったみたいだねぇ」と隣で呟いた。どうやらそのようらしい。

 噂好きの瀬川千晶のことだ、駄弁りながら教室に入ったところを三城が噛み付いたのだろう。聞く限りその内容は、桜井と警戒していたもののようである。

 三城と瀬川はなおも言い合っている。先生や委員長がまだいないからって、誰も止めようとはしないし。


 何やってんの? と椎葉が割り込みかけたそのとき、後ろの扉から転校生が戻ってきた。

 すかさず瀬川が顎で指し、「聞いてみれば?」と煽る。

 三城は転校生を横目に見て、ずんずんと彼女の前に向かった。着席した転校生を鋭く見下ろし、


「あんた今日、朝帰りしたの?」


 取り繕いもしないストレートな言葉が教室内に響き渡る。

 転校生はきょとんと目を丸めかせて、いいえ、と首を振った。「そう」と三城は微笑んだ。


「ほーらね、嘘。適当言うのもいい加減にしなよ、瀬川千晶さん」


 三城は顔いっぱいに勝利を浮かべて、自分の席へと戻っていく。椎葉と桜井も着席した。「何の話してたのかや?」と桜井がとぼけると、「別に」と三城は苦笑した。

 転校生は、嘘は言っていないのだろう。一泊し、そのまま登校してきたのなら、朝帰りにはならないのだから。


    * * *


 一限目の体育がはじまる前。誰もいなくなった教室で、椎葉は橘芽亜凛の机を漁った。指で掴んだ教科書を引っ張り出して、裏を見る。

 国語総合の教科書には、黒のマジックペンで『橘芽亜凛』と記されていた。習字でも習っていそうな整った字である。しかし国語は昨日も予定にあった教科であるため、証拠にはならない。

 次に取り出したのは、化学基礎の教科書だ。化学科の授業は昨日予定になかったし、今朝見たC組の予定板にも貼られていない。

 裏返した指に力が加わった。

 教科書裏にはかすれたインクで、『神永』と書かれていた。

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