試し試され日は沈む
黒い霧のなか、すぐ手元で赤い風船が揺らめいていた。天辺から五本の突起物が生えた
それは風船ではなかった。熟れて真っ赤に膨れ上がった、自身の右手。
そうと認識した途端手首から先までに、弾けるような痛みと掻きむしりたくなるような痒みとが生じた。雨に打たれて実が割れるトマトのように、表皮に白い線がピシピシと入っていく。割れた部分から黄白色の膿が溢れて、眼下に色を増やしていく。
芽亜凛は恐ろしさに身をすくませた。一限目の途中には癒えていたはずの蕁麻疹が、いつの間にかぶり返していたのだ。どうして、こんなことに……。私があの手に触れたから? 触れてしまったから? だから、こんなことに……?
指先が赤紫色に変色しはじめた。その間も膿は流れ続け、ぶよぶよのしわを増やしていく。感覚がひどく曖昧になっていき、このまま腐り落ちてしまうのだろうと思った。
頭上から、ぽつぽつと雨が降ってきた。見上げた空は、指先よりも黒々とした赤で。錆びた中心から、何かが渦を巻いて落ちてくる。竜のようにひらひらとたゆたうそれは、スポーツタオル……。
芽亜凛は左手を伸ばし、タオルを掴み取った。布生地はどろりと溶けて人の手と成り、芽亜凛の腕に巻き付いた。
影色の手の先で、赤いふたつの目と、目が合った。
芽亜凛が悪夢から目を覚ましたとき、全身はびっしょりと汗をかき、喉はからからに渇いていた。たちの悪い夢を見た。今まで見た夢のなかでも最上位の悪夢だった。
はあ……とため息をつき、芽亜凛は視線を右端に向けて――ほとんど反射で飛び起きた。
傍らには、少女のお面を顔につけた白い髪の彼がいた。Tシャツにハーフパンツという、芽亜凛の記憶通りの姿で。
あぐらをかいて頬杖をつき、こちらをじっと見つめている彼は――「むにゃ」と声を出した。拍子に白い髪がかくんと揺れる。
「おはよう、芽亜凛ちゃん。起きたんだね」
そう言って両手を天に挙げて、彼は大きく伸びをする。その声帯は神永響弥のものと変わらない。芽亜凛はまだ悪夢の続きを見ている気分になった。現実に安心できる状況でないことを悟った。
ふわぁ……とあくびをする彼の横で、芽亜凛はひやっと感じて自分の身体を触った。異常はないか、血は出ていないか、痛みはないか、腫れてはいないか。身体中に目を泳がせた。
しかし両手はかぶれていないし、腹部にかかったタオルケットをどけても穴は空いていない。制服のスカートは切れていないし、黒タイツは裂けていない。喉は渇いているが、首を絞められた痛みもない。
徒労に終わりかけた身の確認の最後に、額の違和感に気づいた。コットン生地が指の腹に触れて、芽亜凛は急ぎそれをめくりあげる。額に貼られていたのは冷却シートだった。
「そんなに怖い?」
彼の言葉に、芽亜凛は視線を走らせる。彼はお面越しにくすりと笑った。
「よく見てみなよ。芽亜凛ちゃんは布団の上で眠っていたの。私は指一本触れていないよ、ここに運んでからはね」
そう言われて落ち着いたわけじゃないが、芽亜凛はようやく視野を広げた。いるのは和室、布団の上だった。奥に続く襖は閉め切られていて、隅にはパソコンが設置してある。
ここは渉と凛が血に溺れた部屋であり、そして芽亜凛が二度死んだ場所だった。
「倒れてたよ、廊下で。七度五分だってさ。微熱だねー」
どこから取り出したのか、茉結華は体温計を振ってみせた。耳で計るタイプのものだった。
彼は廊下で倒れている芽亜凛を見つけて部屋へと運び、布団を敷いて看病したと。いったいどういうつもりだと芽亜凛は思った。それで恩を売ったつもりなのだろうか。
とは言えまずは謝るべきだと芽亜凛は考えた。いつ相手の態度が変わるかわかったものじゃない。
「ご迷惑をおかけしました、ごめんなさい……」
「ううん、別に」
茉結華は再度頬杖をついた。
「私に会いたいんだって響弥から聞いたけど。話ってなぁに?」
(……聞いた……?)
まるで自分がもう一人いるみたいな言い草に、芽亜凛は眉をひそめた。
彼らが双子でないことは保健室の一件で確定している。彼は神永響弥の内に宿るもうひとつの人格のはずだろう。それとも人格同士で会話ができるのだろうか……。
おそらく茉結華はお面の下でニコニコと笑っている。外さないのかとも芽亜凛は思ったが、不用意な発言は控えることにした。
「さ……殺人を、やめていただけませんか」
自分で口にしておいて、鳥肌がぶわわと立ち上がる。頬に嫌な汗が伝った。
茉結華は首をぽりぽりと掻き、「人を殺人犯みたいに言って……まだ誰も殺してないよ」
「でもこれから殺しますよね。凛の……周りの人間を」
茉結華はピタリと動きを止めた。それだけの変化に、芽亜凛は口内に溜まった唾を嚥下する。
彼はゆったりと首だけ傾けて芽亜凛の顔を見やった。ふふっと笑い声を漏らし、お面のゴムに指をかける。
「へえー、驚いちゃった」
茉結華はお面を顔から外し、「どこまでわかるの?」と身を乗り出した。
「――っ!」
芽亜凛は自然、目を瞑っていた。布団の上で後ずさり、身を強張らせる。が……茉結華は何もしてこない。
芽亜凛が瞳を開けると、茉結華は「ん?」と小首を傾げた。両手を布団の端にちょこんと置き、位置も変わらずおすわりしている。芽亜凛の反応にも気にしていない様子であった。
ナイフのように鋭い目付きがこちらを見つめている。芽亜凛は安堵の息を飲み込んで、声を絞り出した。
「あっ、あなたが……松葉千里や望月渉を狙っているのは知っています。ほかにも学校で細工していることや、これから狙われるだろう人たちのことも、私は知っています」
「芽亜凛ちゃんって占いとかできちゃう口? だから響弥のクラスも知ってたの? まさか、ねぇ?」
茉結華はケラケラと笑って、「で?」と目を細めた。
「そこまで知ってるのに、警察には言わないの?」
「止められなかったら言うつもりです」
「脅す気?」
「……何もしていないのなら、脅しにはならないはずです」
現に証拠だってないのだ。
「止める、かぁ」と、茉結華はぼやいた。
「芽亜凛ちゃんは、殺しをしてほしくないの? それとも、周りを救いたい?」
「……両方です。ただ、私は……あなたに殺しは似合わないと思ってます」
「……」
――神永響弥に殺しは似合わない。
たとえ普段の表情が、笑みが、言動が、偽りだとしても。あの日受け取ったタオルの温もりは、嘘じゃないとわかるから。
茉結華はしばらく値踏みするような目で芽亜凛を見て、不意に口角を上げた。
「わかった。じゃあしない」
「本当ですか?」
「うん」
信じていいんですね? と尋ねるより先に「その代わりさぁ」と挟まれる。
茉結華は自身の頬に人差し指を向けて『えへへ』と笑った。
「ほっぺにチューして」
「…………」
芽亜凛の全身から血の気が引いた。
「ほんとは口がいいんだけど、芽亜凛ちゃん風邪引いてるし」と、今度は唇に手をやる茉結華。
芽亜凛は、これは確かな脅しだと理解した。殺されたくなければ身を捧げろ。それなりの覚悟は見せてもらうぞと茉結華は言っているのだ。――こんな脅し方、最低だ。
芽亜凛は顔半分を引きつらせた。
「あなた、私のこと好きなんですか?」
「……えぇ?」
「神永響弥ならわかりますけど、そうじゃないんでしょう?」
代わるようにして茉結華の唇の端が引きつった。
「いっ、いいのぉー! 響弥のものは私のものでもあるんだよ、だから私とも付き合うの!」
響弥と比較されたことが気に食わなかったようらしい。非常に面倒くさい性格をしていると芽亜凛は思った。
だが、彼から殺意は感じられない。本気……なのだろうか。
本当に殺しをやめて、付き合うというのだろうか。いや、それだけではない。彼のそばにいれば情報が――うまくいけば掴めるかもしれないのだ。
千里が登校する六月四日が迎えられるかもしれない。芽亜凛が頷くだけで――
「今何時ですか?」
思い出したように尋ねた。「ん、何時だろ」と茉結華は携帯を取り出す。芽亜凛もスカートのポケットからスマホを取り出した。
時刻は、午後七時を回っている。
「あ、夕飯時だね。泊まってく?」
「泊まります!」
芽亜凛は間髪入れずに肯定し、しまったと口をもごつかせた。
「わ、私の家、少し遠くて……迎えに来てくれる人もいないから、一人で帰らないといけなくて……。泊まりまでとは言いませんが、せめて熱が下がるまでここに……」
静かに聞いていた茉結華は「いいよいいよぉ泊まってってぇ」と白い歯を見せた。芽亜凛は意を決して姿勢を正し、彼の手を取った。
「誓ってください。殺しはしないって」
茉結華は口角を維持したまま、「……誓うよ」と低い声を出した。その目は不思議と揺れてはいなかった。
「そばにいてくださいね」
吐息が、唇が、茉結華の頬に触れた。
茉結華はぎょっと瞬きをしたが、芽亜凛の視線が向く前に「うん、いるぅ」とご機嫌そうに口元を緩ませた。
――探り合いはもうはじまっているのだ。
「ハッ! お粥作ろっか!」
任せてと言って、茉結華はばたばたと部屋を出ていった。
扉が閉まりきるのを見届けてから、芽亜凛は手の甲で唇を拭った。蕁麻疹は――今のところ出ていない。
ため息を押し殺し、松葉家の様子を思う。千里がさらわれるのは、いつも夕飯時である。正確にはもう少し早く、支度をしている時間帯。その予定ラインは幸いにも過ぎている。だがしかし、前回起きた火事のように、このあと殺される可能性も十二分にあり得る。
芽亜凛はリビングに戻り彼の行動を見張っていようと思った。誓うと言った彼の言葉を、完全に信じたわけではない。それに芽亜凛は、彼がまだ本音を漏らしていないことを知っていた。
付き合うとかキスしろだとか言っていたけれど、普段響弥からは伝わる下心が、茉結華からは感じられないのだ。
(試し試されているのはお互い様……それなら私は、私を生贄にする)
芽亜凛は影のようにゆらりと立ち上がった。
気休めなんかではない。今度こそ本当に、千里を救えると信じて。
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