バタンキュー

 放課後、C組の教室に向かった芽亜凛は、堂々と前方の扉から入っていった。好奇な眼差しを向けられるけれど、その誰とも目を合わさない。唯一合わせたのは千里とだ。

 千里は、結んだ目線を慌てて解くと、鞄を持って後ろの扉から出て行った。向かった先はE組である。今日は柔道部も女子テニス部も休みだから、凛と一緒に早々と帰宅するのだ。


(大丈夫。今度こそ、死なせはしないわ)


 席に着いていた響弥の前に行くと、その両サイドにいた清水しみずはやと林原はやしばらごうが口をあんぐりと開けた。先ほどから向けられている視線のなかに二人のものは入っていたし、小声で何やら話し合っているのもバレバレであった。響弥はのんきに手を振っている。


「えっ……きょ、響弥? は? どゆ、どゆこと?」

「……春? 神永に春キターッてこと?」


 清水とゴウは響弥の肩に手を置き説明を求めている。響弥は鼻の下を伸ばしながら咳払いをひとつして。


「ま、そういうことだ童貞諸君。俺にも春、来ちまったんだよ」

「早くしてください」


 ぴしゃりと言い捨てて芽亜凛は踵を返した。向こうのペースに合わせる気は毛頭ないのだ。

 響弥は「は、はい!」と返事をし、ガタンと音を立てて起立する。「じゃあなお前ら!」と清水らに残して、芽亜凛の後を子犬みたいに付いていく。


「えーっと、芽亜凛ちゃん。どこ行くの?」

「二人きりになれる場所です。どこかありますか?」

「ふ、ふた……ふたりきり…………」


 振り返れば、C組の教室から清水とゴウが顔を覗かせてこっちを見ていた。無視して響弥を見やれば、混乱したように目をぐるぐると回している。

 意外と優柔不断なのか、それともそういうフリをしているのか。しかし響弥はハッとひらめきを見せるや、芽亜凛の隣にスキップをして並んだ。


「か、カラオケとかは? うるさいとこは嫌?」


 芽亜凛は自然な素振りで、鞄を響弥と隣接する肩に移した。


「できればお金のかからない場所でお願いします」

「いや俺が払」

「割り勘派なので」


 響弥の言い分を遮ると、束の間の静寂が訪れた。

 響弥はひょろりと細い身体を丸めて考え込んでいる。ちらちらと芽亜凛の様子を窺う様子はおどおどしい。こちらは人知れず手に汗握っているというのに、馬鹿馬鹿しく思えてくる。


「じゃあ俺んちとか?」

「………………」


 今度は芽亜凛が黙り込む番だった。


「ヘンな意味じゃなくてね!? だって、まだ、付き合ってないんだし!」


 響弥はあたふたと弁明し、芽亜凛に反応を求めてくる。知ってはいたが、彼と話しているとストレスが溜まるみたいだ。まるで本心が掴めないせいか。耳元できゃんきゃんと喚かないでほしい。

 芽亜凛は「……まあいいか」と呟いた。


「じゃあそれにしましょう」


 目を合わせた響弥の顔は耳まで紅潮していた。同じ顔をした悪魔が重なる前に、芽亜凛は彼から目線を外した。




 外の雨は降っていなかった。藤北ではグラウンドが湿っているだけで休部か室内活動になるのだから易しいものだ。芽亜凛の前いた学校じゃこれくらいで休部などありえないことである。

 千里は今回も傘を忘れていくのだろう。帰路の途中でたこ焼き屋に寄り、凛と並んで食べるのだ。


 芽亜凛はあの日三人で食べたたこ焼きの味を思い出しながら、濡れて黒くなった歩道をきびきびと歩いた。その間響弥は、ただひたすらに芽亜凛に話しかけていた。


「芽亜凛ちゃんって転校生なんだよね? 俺も小学校の途中で転校したからさぁ、ちょっと気持ちわかるんだよね。クラスに馴染むの大変だけど、授業の進み具合とかさ。転校ってマジ大変だよなぁ。でも芽亜凛ちゃんって頭いいんだよね? 俺は小学校だったからまだマシだけど、高校だったら絶対ついてけねえわ。あ、なんかわかんないことあったらなんでも聞いて。授業以外のことだったら答えられる」

「お家、まだですか」

「え、あ、ああ。ここここ、ここが俺んち」


 響弥は目前に見える『神永分寺』を指差した。「んと、寺です」とお決まりのごとく説明が入る。芽亜凛はどのような反応を返そうか考えあぐねて、視線を向けるのみにした。とぼけても仕方ないし、媚びを売るつもりもないのだから。


 神永分寺に――自主的に来るのは二度目になる。なかに踏み込んでも、特に懐かしさは感じない。木造建築の不透明な香りが鼻孔をくすぐった。

 響弥は、散らかった玄関の靴を隅っこに押しのけて、ほとんど使われた形跡のないスリッパを段差上に用意した。廊下の隅に溜まった埃を流し見ながら、芽亜凛はリビングへと招かれる。ここにどうぞ、と響弥が椅子を引いたので、素直に腰掛けた。


「いやぁ、散らかっててごめんね。今お茶入れる!」

「別に出されても飲みませんよ」

「お茶苦手?」


 そういう意味ではなくて。芽亜凛は反論はせず、リビングを見回した。

 室内干しされた洗濯物はどれも男物で、一人分以上あるように見て取れる。大型液晶テレビの下にはゲームコントローラーがふたつ、コードを伸ばして転がっていた。ほかにも服や下着がテレビ周りに放られているが、女性のものは見当たらなかった。


 この家には、彼以外にもう一人、男がいたはずだ。髪をひとつに結って赤縁の眼鏡をかけている、長身の男だ。

 叔母の存在も確認している。男のほうはともかく、叔母は一緒に暮らしているわけではなさそうだ。

 全員がグルというわけじゃないのか? 詐欺師で、犯罪集団で、殺人鬼で……。最後以外は、どれも憶測に過ぎない。芽亜凛は彼のことを知らなすぎた。ずっと、避けてきたから。


(っ……)


 ツキ、と頭が酷く痛んだ。ここで何人もが殺されるのだと思うと、胸の中央にむかつきを覚える。まだ誰も捕らえられていないはず、なのに、すでに亡者の気配がするみたいに感じた。今にでも足元から、不気味な呻き声が響いてきそうだ。早く家に帰って、一人で休みたい。


「はいお待たせ」


 テーブルにオレンジジュースの入ったグラスを置いて、響弥は隣の椅子に座った。飲み物を用意するまで随分長く感じられたが、実際には一分も経っていない。それなのに、なかに毒でも入ってるんじゃないかと芽亜凛の目には見えてしまう。いや、彼には疑いすぎなくらいが丁度いいはずだ。


「あの、それで、お願いのことなんですけど」


 芽亜凛は前振りもなく口を開いた。段々疲れを隠しきれなくなってきた。

「その前に!」と響弥は挙手をした。


「自己紹介させてください!」

「…………」


 不要と言うわけにもいかず、芽亜凛は「どうぞ」と小さく許可をした。重要視することではないため忘れていたが、響弥はまだ名乗ってすらいなかった。

 響弥は、ふう……と息を吐き、どこか真剣な顔つきに変貌した。


「神永響弥です。クラスは二年C組。特技はペン回し、趣味は歌とギター。手先の器用さと相手を楽しませることは誰にも負けねえ! です」


 響弥は一度胸の前でガッツポーズをしたが、スンと大人しく膝の上に手を戻した。お見合いをしに来たのではないのだが。


「あっ、どこが好きとか言ったほうがいい?」

「誰も殺さないでください」

「――――」


 響弥の顔から、活気がなくなっていく。横断歩道の信号が青から赤へと変わるように。


「誰も殺さないというお願いを聞いてくれるなら、私はあなたと付き合います」


 松葉まつば千里を救うためには、彼の動きを制限する必要がある。千里へ訴えをかけるのは無意味。制御するのも無理。ならば、こうするしかあるまいと芽亜凛は考えた。

 できるだけ自分に注意を引きつける。その上で彼の行動を監視する。

 ――私の自由なんて、くれてやる。

「何の話?」と、響弥は眉を八の字にして言った。


「殺したりしないよ。俺は、誰も、」

「それじゃあもうひとりはどうですか?」


 響弥は乾いた笑いをした。


「もうひとりって?」

「……髪が白くて、目付きが凶悪なほうです」


 そしてとうとう、観念したように肩をすくめる。


「なんでそんなこと知ってんの?」


 そう言った彼の瞳が、一瞬煌めいたように感じた。芽亜凛は唇を引き、注意深く身構える。


「私にはわかるというだけです。心配しなくても、誰かに聞いたとかじゃありませんよ」


 彼が自身のことを話しているかも謎だけれど、協力者には明かしているかもしれない。疑り合うのなら味方同士で――とは言え不要な疑心から周りに飛び火されては元も子もないので、フォローはしておく。

 響弥は「ふぅーん」と言いながら腕組みをした。


「まあ、俺はいいけど。茉結華まゆかが何て言うかな」


(マユカ……?)


 聞き覚えのない名前に目を白黒させる。

 ――それが、彼の名前……?


「お会いすることはできますか? 今日……このあと、すぐにでも」


 芽亜凛は動揺を悟られないよう、声に芯を宿らせる。


「でも待たせるのも悪いし――」

「待ちます。会って直接お話します。させてください」


 以前保健室で現れたみたいに、今すぐにでも。

 会って話をする。会って、――説得できるかはわからない。そんな生易しい相手ではないことは重々承知の上。だが相手の興味は確実にこちらのものとなっている。今度こそ、止めてやる。


「……わかった。ちょっと待ってて」


 頼み込む芽亜凛に気圧されて響弥は苦笑し、まっすぐリビングを出ていった。

 芽亜凛はドッと息を吐いた。

 彼と会って、ここを生きて出られたら――明日が希望に変わるかもしれない。

 だが、それにしても、コンディションが悪すぎる。向かい合って話している間、ずっと息が詰まりそうだった。よく耐えているな、と自分でも不思議に思うくらい、芽亜凛の心身は限界だった。張った糸は今にも切れそうで。こんな状態で会ったら、自分はどうなってしまうのだろう。


 芽亜凛は口元を押さえて、ふらりと立ち上がった。ケホッと軽く咳き込んだだけで胃液がせり上がってくる。さすがにシンクに吐くわけにはいかず、トイレに向かおうと廊下に出た。


 相変わらず、広い家だ。二階を合わせて、いったいいくつ部屋があるのだろう。リビングを出て左前の扉には、くぐった覚えがあった。確かあの部屋は、彼と、渉と、凛と――

 足元が崩れた。

 両足から血を流していた彼のように。背中に黒い染みを作っていた彼女のように。芽亜凛は一歩も、動けなくなった。

 首の動脈を切り裂いた冷たい刃の感触がする。伝っているのは汗だった。空気にさらされて冷たくなった汗だ。

 人形のように四肢を投げ出して、芽亜凛は壁に背中を預けた。

 薄暗い視界に帳が下りる。深い眠りへと落ちていく。

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