善と悪

 その年、住んでいた地域を離れ、今の街に越してきた。別に卒園まで待てばいいのに、両親が耐えきれなかった様子。五歳とは言え、実の息子が傷害を与えたんだ。無理もない、かなぁ。

 あの人たちは、社会的な地位を気にしていたから。母が教員なのも周知されていたし、父の検察官という立場も、危うくなりそうだったし。

 って、普通に話を再開したけど、僕の頭のなかじゃCMは挟まれていないよ。この世界がテレビで流れているアニメやドラマでもね、ここで挟んだら主人公のメタ発言になってしまうだろう。放送時間は深夜帯かな。ね、聖良さん。


 そもそも僕は主人公ですらないか。役が回ってきても丁重にお断りするだろうし。僕は娯楽の消費者であって、生産者になりたいわけじゃないんだ。

 ……ああ、でも、小説だったらありかな。信頼できない語り手として読者を振り回すの、悪くない。

 ラノベの主人公は望月くんみたいな子がいいと思うよ。面倒くさがりだし、鈍感だし、幼馴染までセットで付いてくる。うん、ぴったりだ。今なら問題にも巻き込まれてるし――ってこれは僕も一緒か。

 でも、彼にとっては、僕も問題になり得るんだろうな。困難に愛されてるとしか思えない。そこも主人公らしくていいか。


 閑話休題ってことで。あの女の子の母親とはかなり揉めた。傷が残ったらどうしてくれるんだ、教職よりもまず母親としての役目を務めたらどうなんだ、どう責任を取ってくれるんだ。悪魔。最後のは僕に向けられたものだった。

 僕らが離れた後、結局彼女の家も引っ越したみたいだ。街にも幼稚園にも居づらくなったんだろう。女の子の顔に傷を付けたことは、それだけ重大な事件となったんだ。


 藤ヶ咲ふじがさき北高校で彼女と再会した時は、顔に傷は残ってなかった。けど、心の傷はぱっくり開いちゃったみたいで。今年めぐみと入れ替わりでB組に移ったわけだ。

 滑稽だよね、一年間同じ教室で、僕とクラス委員をしていたんだから。ちなみにB組はA組のペアだから、今日みたいな雨天の体育のときは嫌でも顔を合わすことになるよ。お気の毒さま。

 それにしても心の傷か、僕には無縁だな。


 かくして僕は再び、新しい幼稚園に途中入園することになった。今回は虹成も一緒に。僕にとっては三つ目の幼稚園になる。

 善悪について考え出したのは、ちょうどその頃だ。正確には、病院で脳をスキャンされてから。考えざるを得なかったって言うべきかな。それまでは真面目に向き合ったことなんてなかったし。


 僕は、一般の人よりも感情が足りていないらしい。元から欠けているのか、まだ眠っているだけなのかは不明瞭。好奇心はあるくせに、喜怒哀楽すべての感情の認識が低いのだ。

 追従するように、共感能力も欠如している。そりゃあね、自分の感情もわからないのに、他人の気持ちなんてわかりっこない。

 僕が笑えない理由は、最初から心が付属していないからだった。

 自覚すべき点はいくつもあった。妹を殺しかけた時、僕は微塵も悪いことをした気になっていなかった。生き物に対する扱いもそう、女の子に対する罪悪感だってない。両親に怒られても、涙を流されても、僕が泣くことはなかった。

 共感できないから、笑うことも泣くこともない。

 他人を思いやる気持ちがないから、間違いも視認できない。


 それでも両親が僕を施設に預けなかったのは、己の名誉とプライドのためだった。脳の出来を見るだけで、精神科に連れて行かなかったのも同じ理由だ。利己的で自分勝手なところは親譲りみたいだね。

 そんなわけで、賢い賢いあさぎりしゅうくんは、人間の出来損ないだったのだ。救いようがない、欠陥品。このままじゃ人間社会で生きていけない。出来損ないは、あっという間に食い潰されてしまうことを、僕は幼いながらにも、よぉく理解していた。


 だから考えた。何が正しい行いで、何が間違った行いか。


 まずは消去法。今まで僕が怒られてきたこと、悪魔と言われてきたこと、それらすべての行いは、悪とする。

 虹成の呼吸を止めたのも悪。家にカラスの死体を持ってきたのも悪。女の子の顔に傷を付けることも悪。

 なら魚を捌くことは? 女の子が僕のノートに落書きをしたのは?


 このアンサーは、母の言う『普通』という言葉にあった。

 食べるために魚を捌くことは『普通』だし、子供が落書きするのも『普通』だ。

 だが、虹成の呼吸を止めるのは『普通じゃない』し、カラスの死体を持ってきたのも『普通じゃない』――逆に言えば、悪魔が悪いことをするのは『普通』になるんだ。

 そう、悪魔なら悪いことをしても、全部『普通』になる。

 でも僕は、その道を選ばなかった。さっきも言ったとおり、人間社会で生きていくためには、僕は悪魔ではなくて、人間であらねばならない。人間でいなきゃいけないんだ。


 そのためにはコミュニケーション能力を養う必要があった。感情を表に出す練習と、読み取る練習。表情の作り方、選び方。目の動き、声色、吐息、震え、仕草。使える情報をすべて駆使して表す。読み取る。

 僕が僕という人間であるために、自分をコントロールする。抑制する。

 本当、こればかりは努力だった。今までしてきたどの勉強もおよそ努力というものは実感してこなかったが、これだけは違った。

 今こうして『バイト』をしているのも、コミュニケーション能力を養うための――その延長線。今はただ生活費を稼ぐためにやっている。おかげで、相手がしてほしいことやその望みは、大方わかるようになった。


 さて、僕が悩んだのは、感情表現だけでない。善についてだ。正直これは悪よりも理解し難い哲学でね。

 解を得たのは、小学校三年生に進級したばかりの春。教室でいじめられていたハーフの男の子を助けてしまった時のこと。


    * * *


 彼は、去年からいじめの標的にされていたようだった。クラス替えをしてもその扱いが変わらなかったのは、奇しくもいじめっ子の親玉がクラスメートだったから。その子にとっては二年連続、あるいは三年連続同クラスで、腐った縁が生成されつつあった。

 親玉くんは持ち前のジャイアニズムを発揮し、一年の頃にはカースト上位に君臨してたみたいだ。僕も名前は知っていたし、聞く限りじゃ悪ガキへの道を順調に歩んでいるようだった。


「おいガリ勉。お前もあいつと話すんじゃねーぞ」


 外遊びから帰ってきた僕を、席の前で手厚く歓迎する親玉くん。僕より背が低く横幅に栄養分が伸びている彼は、仁王立ちでそう命じてきた。


「あいつって誰?」悟りながらも訊いて席に着く僕。

「あいつはあいつだよ。日本人じゃねえやつだよ」


 名前も口にできないなんて、恋でもしてるのかな? と安っぽく嘲笑しつつ「あぁ、そう」と生返事をして朝読書の本を取り出す。秒で奪われる。

 親玉くんは僕を睨んで、「話したらころすからな」と言った。その頃僕は奪われた本を見つめていた。図書室で借りたものだし、別に彼の手垢で汚れるのは構わないけれど、こういう気の引き方は好きじゃない。いつかの視界ジャックとおんなじだ。


「ふぅん。殺せるの?」

「は? よゆうだし」


 じゃあやってもらおうか。


 昼休みに図書室から戻ってきた僕は、拝借した品を親玉くんの引き出しに滑り込ませた。親玉くんはトイレから戻ってくるや引き出しの中身に気づき、下っ端たちときゃあきゃあ騒ぎ出す。その勢いのまま定規でチャンバラまではじめた。

 僕は、席で一人指遊びに興じているいじめられっ子の元に向かった。手を後ろに隠し、攻撃する意思がないのを示しながら、

「ねえ、一緒に図書室に行かない? おすすめの本がいっぱいあるんだ」と、安心感を与える笑みを貼り付けて誘う。

 彼は怯えと歓喜で目元を歪曲させて、僕を見上げた。青い瞳がぱちぱちと瞬く。

「行こうよ」とすかさず笑顔で追撃すると、横から「おい」と。僕が彼に声をかけた時から静まり返っていた親玉と下っ端が乱入してきた。


「話しかけてんじゃねえよ。ころされてえのか」

「あ、口だけのへっぴり腰がなんか言ってる。早く行こう」


 こわーいと軽く煽ってやると、親玉くんは顔の表皮を真っ赤にして目を剥いた。

 そして、中指ほどの長さの刃を僕へと向ける。あ、あれは僕が図書室のカウンターから拝借し、うっかりなくしてしまったはずのカッターナイフ。そしてこれから凶器へと変貌する文房具。

 親玉くんは自分の引き出しに入っていたカッターナイフを、何の疑いも持たず、自慢げに振り上げる。彼は考えるより先に手が出るタイプ。得物を持つと自分が強くなったと勘違いしてしまう小物。だからこうして恵んでやった。


「なめんじゃねえよクソ! は? マジでころすし!」


 そう言って向かってくる刃を、「危ない!」――僕は素手で掴んだ。ぽたりぽたりと、赤い滴が、流れることはない。代わりに折れた刃が手のひらからこぼれ落ちる。

 僕は叫び声を上げた。うわー、とか、痛いー、とか。とにかく大げさに声を上げた。ハーフの男の子も横であうあう言っている。我関せず、と席で本を読んでいた子も絵を描いていた子も僕らを見た。恐怖は伝染し、教室という池で悲鳴が釣り上げられる。


 親玉くんは、クラスメートの女子が呼んできた先生に取り押さえられた。僕は片手を押さえて、いじめられっ子と一緒に保健室に送られた。

 あらかじめ手のひらに貼り付けておいたガムテープは道中で剥がして廊下に捨てた。


「しゅうくん……ごめんね……ごめんね……」


 僕の無傷な手のひらに安堵してもなお、男の子は隣で号泣していた。泣かれる覚えも謝られる覚えも僕にはない。僕はただ、自分への障害を取り除き、穏やかな春を過ごしたかっただけだ。

 ちゃんと怪我をしないよう手のひらにガムテープを貼って、カッターナイフの刃を剥き出しにしておいた。斬り付けるならまだしも、人を刺すのには向いていないし、どちらにしろあんなに刃を出していたら折れる。結果はこのとおり、怪我なしだ。なのになぜ泣く。


「謝らなくていいよ。何もしてないし」

「うん……うん……でも、だって……」


 彼は頷きながら、「ふつうはできないよ……」と言った。


「え?」

「みんな無視して、助けてくれなかったもん……助けてくれたの、しゅうくんだけだもん……」


 そのとき、僕のなかで何かが砕けた。

 ありがとうの言葉に耳鳴りが重なった。


「……普通じゃ、ないんだ……」


 

 別に、助けたつもりはなかった。だけど僕には、善の度合いもわからないから、結果的に『普通じゃない』行いをしてしまうことがある。

 なら、どうすればいいのか。

 簡単だ。

 普通じゃないなら、普通に変えてしまえばいい。

 すべての善が『普通』となるように、

 善いことをするのが普通の、誰よりも優秀な生徒に。


    * * *


 盗難と傷害事件に便乗した周りの告げ口によっていじめも明らかになり、親玉くんはすっかり大人しくなった。カッターナイフを盗んだことは最後まで否定してたみたいだけどね。

 それから僕は小学校卒業までクラスの中心……よりかは、まとめ役と言うのが無難かな、を買っていた。

 卒業アルバムのなんでもランキングでは、頭がいい人、運動ができる人、総理大臣になりそうな人、アイドルになりそうな人の欄で一位だった。面白い人ランキングでは二位だったけど、一位が僕より遥かにやんちゃでお調子者だったから……もっと下でもよかったな、なんて。


 以上が、優等生朝霧修が開花した話。

 出来損ないのあさぎりしゅうくんが下地となって、僕がいる。そこには苦悩があって、工夫があって、努力がある。なんでもできるって言われるけど、僕って結構努力家なんだ。

 ……聖良さん、起きてる? って、声をかけても駄目そうだな。気絶しちゃってる。

 僕もシャワーを済ませてホテルを出るかな。明日も学校あるしね。

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