ラストオーダー
あ、温かい。
今のは、きみを抱き締めた時の感想。今日の雨は大降りだったから、シャワーを浴びると何だか既視感が生じてしまうね。頭から浴びる雨は冷たかったけれど、きみの身体は温かかったな。
望月
目と鼻の先で轢死体と化す彼女を見ながら、望月くんは遮断機の前でへたり込んだ。連なる僕も腰を下ろし、五感は自然ときみを捉えた。
――腕のなかでぶるぶると、望月くんが小刻みに震えている。
この震えが寒気によるものではないことは、心のない僕でも一目瞭然である。
広い肩幅を愕然と落として丸めた背中は、とても小さく感じた。僕も望月くんも傘を投げ出していたから、二人して髪の毛先から雨粒を垂らし、カッターシャツは透けて、下着までびしょ濡れになった。それでもなお、きみの身体は冷えることを知らない。
腹部に回した右手からは、きみの乱れた呼吸が伝わり、胸部に回した左手には、鳴り続ける警報機よりも速い心音が響いていた。それらは不変的に刻む僕の鼓動と重なって、歪んだハーモニーを奏でている。
雨と漂う血生臭さよりも、僕の鼻は密着しているきみを強く嗅ぎ分けた。舌根から唾液が湧くような甘酸っぱい香り。数センチ浮かした鼻先に触れるような、熱を含んだ匂い。雨水の伝うその首を、思い切り吸ったら驚いてくれるかな。そう思った時に、警報機が止んだ。
僕は顔を上げた。望月くんは反応しなかった。誰かに声をかけてもらうのを待っているのだ。誰かって、僕しかいないじゃないか。
だから、彼の耳元で言ったんだ。
「ぜーんぶ、きみのせいだよ」
そう。全部きみのせい。
同級生が失踪したのも、転校生が自殺したのも、すべてきみのせいだ。
きみが
悪いのは望月くん、きみだよ。救えないくせに、中途半端に手を伸ばすからこうなるんだ。
「なんてね」
曇った鏡を拭って、片頬を吊り上げる。あの頃と比べれば、随分柔らかくなった僕の笑顔。作るのは容易くて、使い所も様々ある。
『きみのせいじゃない』そう言った時は、さすがに笑っていなかったけどね。
望月くんは、ビクリと肩を強張らせて、鈍足に僕を振り向いた。僕を見上げる瞳は水面みたいに揺れていて、涙と同時にくしゃりと潰れた。そっか、泣くんだ。
案外脆いなあって、僕は彼の頭に手を回したけど、望月くんは抱き締め返さずに、ぎゅっと握り拳を固めていた。偉い偉い。男の子だから泣かないもんって強がる子供みたいだね。
彼の善を壊すのは今じゃない。そう思ったんだけどな、いつでも折れてしまいそうだった。それこそ、きみのせいなんて言ったら崩れてしまいそう。
きみと出会った一年前から、僕の決意は変わっていない。あの日からずっと、僕はきみの善を壊したがってる。
* * *
高校一年の夏休み。登校日である今日、生徒会室の掃除を任されることになった。本館の二階に位置する生徒会室と、生徒棟の四階にある生徒指導室を入れ替える。そのための掃除を行う。
一年生で次期生徒会執行部に推薦されていた僕は、先生の頼みを快諾した。断ってやってもよかったが、売れる恩は売っておかないとね。どうせ生徒会長になるのは僕だけど、こういう下積みは後で役に立つ。
本館で先生と別れて、僕は生徒会室に向かった。入れ替え予定の生徒指導室はだだっ広いが、こちらは驚くほど狭い。だから人数はいらないんだけど、先生は、もう一人適当に連れてくる、と言って去っていった。おまけか、僕に代わる本命か? どっちでもいいけど、恩が半減するのは惜しいな、と余裕をかましてみる。
指導室のほうは大方片付いているようなので、あとは生徒会室の掃除と荷物を運ぶだけで終わりだ。
持ち出すものは、テーブルの上の段ボール箱全部……って「これ全部か」思わず口に出していた。
積まれた五つの段ボール箱、どれも重量がある。これを一人で運ぶのは骨が折れるな。やっぱり協働者はいるかも。最低でもあと一人。
僕は掃除用にマスクをして、冷房のスイッチを入れた。こんな猛暑に閉め切られていた生徒会室は、半サウナ状態。すでに立っているだけで汗が滲みそうだが、部屋は荷物を運んでいる間に涼しくなるだろう。往復したくはないので、できれば一度で終わらせたいが。
そう考えている間に、扉がノックされた。
「失礼します」
一礼して入ってきたのは、一年D組の男子生徒だった。野球部で見たことがある――が、顔と名前が照合しない。
彼は僕と目が合うと小さく肩を跳ねさせて、忙しなく目線を動かしはじめた。きょろきょろと室内に巡らせて、僕の元に舞い戻る。
「あのっ……俺、ここの掃除を手伝うよう言われたんですけど……」
合ってますか? と言いたげに首が斜めに倒れる。僕は、一九六〇年代の三種の神器、そのひとつを指差した。このエアコンが目に入らぬか。
「冷房入れてるから扉閉めて」
苛立って聞こえたのか、男子は慌てて扉を閉めた。一挙一動、感嘆符が頭上に発生している感じだ。閉めた扉の前から動かないし、受け身のようだな。
僕はマスクをしていてもわかるように目を笑わせて手招きした。男子は弾かれたように再び一礼し、「失礼します」と言って僕の前まで駆けてくる。
「名前は?」
「も、望月渉です」
望月くんか。反芻しないと三秒で忘れてしまいそうなので「望月くんは執行部に入るの?」と名前を添えて尋ねる。
一瞬目を丸くした望月渉は、素早く首を振った。
「考えてないです、全然。そういうのは」つい倒置法になっている望月渉くん。考えてないのは本心なんだろう。
「先生に頼まれただけ?」
望月くんは「そうです」と頷いた。彼は急遽派遣された番兵に過ぎなかった。頼まれると断れないタイプか。それとも無理やり押し付けられたかな。意味はどちらも同じである。
「きみも大変だね」
「先輩もお疲れ様です」
先輩? と、反射的に指摘しかけた。
なるほど、望月くんは僕を執行部の先輩だと勘違いしているらしい。だからずっと敬語なのか。腰の低さにも納得が行く。
他人の誤ちを訂正するほど僕は親切じゃないので、そのまま黙っておいた。
「埃を被る前に、これ全部運んじゃおうか」
望月くんよろしく、と先輩の威厳を利用してすべて丸投げしてやろうかな。なんて薄い企みを這わせているうちに、望月くんは机上の段ボール箱を三つ抱えて持ち上げた。
「どこ運べばいいですか?」
箱の横から顔を出して、望月くんは軽々しく尋ねる。本当に一人で運んでくれそうな雰囲気だ。
「生徒指導室」
「……生徒指導室…………?」
「…………」
うん、僕も行こう。
西渡り廊下で通ずる生徒棟の四階だよ、と説明するより一緒に運んだほうが早い。はじめてのお使いを見送るお母さん気分を味わうのはまだ先でいい。
十キロ強の荷物を望月くんが三つ抱えて、僕がふたつ抱える。前の見えない望月くんを僕が先導して、最短ルートで目的地に到着した。
休憩もなく四階までサクサク上がっていくのは、さすが野球部だなと感心してしまった。まあ、僕が先に行ってしまうので言い出せなかった可能性もあるけど、それでも体力がある。
それから生徒会室に戻って、掃除開始。ロッカーから取り出したハンディモップを望月くんに渡して、手分けして埃を退治する。
望月くんはちらりちらりと時計の針を窺っていた。心なしか僕のほうにも何度か視線を送っている。じっと見つめ返してやると、決まって目を逸らされる。A組の一年生だと気づいた様子ではなさそうだ。
僕は不意に、「使う?」と自分のタオルを差し出した。僕はタオルを持ってきていたが、望月くんは手元にないらしく、手の甲で汗を拭っていた。
「まだ使ってないから、いいよ」
「で、でもっ……」
「予備のハンカチがあるし、気にしないで」
「……じゃあ」
望月くんはペコペコと頭を下げつつタオルを受け取った。控えめに汗を拭きはじめたのを見て、「それ二万円するタオルね」と冗談を言ってみる。
「ふっえええええ!?」お、漫画みたいな返事が返ってきた。
「冗談だよ」
そんな高いの、あったとしても学校で使うはずないだろ。
「びっくりした……」とタオルで顔半分を隠しながら言う望月くん。こういうときって、大体みんな笑うんだけどな。望月くん、眉間にしわが寄っているよ。耳が赤いのは猛暑のせいかな。からかわれて不機嫌さが隠しきれていないと見る。好奇心と加虐心をくすぐってくる子だな。
そうしてまた、時計に目をやる。何か用事――部活動だろうか。登校日の今日でも、野球部はグラウンドでみっちり扱かれているだろう。
「早く終わらせて部活行きたいね」
バスケ部の練習は休みだから僕は帰るけど。望月くんは働き者だなぁ――そう思ったとき、彼はわかりやすくうろたえて「俺、部活やってないんで、帰宅部なんです」と言った。すみません、となぜか謝罪付きで。
「先日野球部できみを見たよ」
「えっ……あー、あれは、練習に付き合ってほしいって頼まれたから、数回だけ」
望月くんは僕の勘違いを親切にも訂正、そして補足をする。
またしても頼み事だ。ボランティアのつもりなんだろうか。いや、自主性がないならボランティアとは言えないか。人助けが趣味とか? 僕とは相容れない考えだな。
興味が逃避行をはじめたので「そうだったんだ」とだけ返しておく。
望月くんはこくりと頷いて、表情を仄かに緩めた。
「実は今日……誕生日なんです」
「八月十六日がきみの誕生日?」
「はい。友達が祝ってくれるって言うんで、早く行かないとなって」
「へえ、自分の誕生日なのに、断らなかったの?」
意地悪く言ったつもりだった。
望月くんは肩をすくめて、首を横に振る。
「……断ったんですけど、気が変わって。だから手伝いに来ました」
確かに望月くんはここに来た時、手伝うように言われたと言っていた。つまり自分以外の人――僕のことは聞いていたということだ。
なんだ、僕一人のために来たとでも言うのか?
「そうなんだ」ありがとう。この言葉で満足する人間は少なからず存在する。だから言ってやらない。
他人のありがとうが欲しくて善いことをする人間。人のための善は偽善だよ。
「ごめんね、誕生日なのに、巻き込んでしまって」
眉尻を下げて、視線はやや床に向ける。うつむいてしまうと表情が見えなくなるので、浅く視線を下げる程度がいい。こうやって相手の良心に問いかけるのだ。
目論見どおり、望月くんは全力で首を振った。
「せ、先輩は悪くないです。俺が責任取りたいだけなんで」
「……責任? 何の?」
「指名された責任っすかね。俺がその場にいたのが悪いっつーか……」
……………………。
いや、意味がわからない。先生もそこまで重く考えていないと思うが。
彼は、頼まれた側にも非があると言いたいのだろうか。だとしても断る権利は失われないし、現に彼は断ったと言っていた。すなわち、表向きは気分で動いているのだろう。
だが、本音は今の発言だ。まるで、生きているだけで自分に責任を課せているような、過大な献身力。
「きみ、変って言われない?」
「……変?」
望月くんはきょとんとして、「えっ……俺、変ですかね……」と苦い表情になる。変わり者だと言われたことがないのか。気づいているのは、僕だけなのか。
マスクの下の口元が、天邪鬼に緩んだ。
「ううん、嘘」変だよ、「そんなことないよ」きみは異常だよ。
きみの善は、自己に対する無自覚な暴力だ。『普通じゃない』『正常じゃない』
例えばそう、望月くんにしかできないことだと言えば、どんなに理不尽な内容でも、きみはその責任を取るということだ。
人の死ぬ姿が見たい。そう頼まれたら、きみは相手のために死ぬのか? それとも代わりを用意する?
鳥肌が、興味を背負って総立ちした。
試したい。彼のその、感情優先で動く善が、どこまで形を保てるのか。
僕の手で試して、壊して、見届けたい。
* * *
ぐしゃり。
着替えの最中、紙が潰れる通知音がスマホから鳴った。個人別に設定したメールの受信音なので、送り主は明白である。Yシャツを通した手でスマホを取り、画面を見て目を細めた。
『通話してもいい?』って。付き合いたてのカップルのような一言が届いていた。思わず鼻で笑った。
こんな夜遅くにメールなんかしてきて、彼は存外寂しがりやのようだ。これが今日のラストオーダーか。
『いいよ』と打って送信する。きっと話したい内容は今日のことだから、いいよ、付き合ってあげよう。僕も、なぜ彼が転校生の自殺願望をわかっていたのか、聞き出さないといけないし。
そう言えば去年渡したタオル、まだ返ってきてないけど、ちゃんと持っているのかな。
僕があの時の先輩だって、彼は気づいているのかな。まさか、卒業したと思われてる?
まあ、いいか。どこの誰とも知らない他人より、目の前にいる僕を見てくれればそれでいい。
そうそう、例の写真のバックアップも消しておかないとね。もう必要ないものだからさ。
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