√7 生贄編

プロローグ

あるべき道

 六月三日。今日は待ちに待った藤ヶ咲ふじがさき北高校の転入日だ。

 学校が変わっても、タイツを穿くのは忘れない。肌色を極力隠した夏用の黒タイツだ。

 藤北の制服は、ベージュ色をしたワンピース型。袖を通して、オフホワイトの襟を整える。学年カラーを示す赤いスカーフを胸元できゅっと締めてから、鏡の前で一回転した。しわひとつない新品の制服は艷やかで、触り心地も抜群だ。

 緑色のブレザーとはもうおさらばである。

 私、たちばな芽亜凛めありは、藤北の生徒になるのだ。


 まだ乗客の少ない朝のバスに揺られながら、藤ヶ咲北高校を思った。進学校だし、学力のラインも高いし、校舎の綺麗さは極普通だけど、制服はお嬢さまみたいだなという印象がある。

 でも私が藤北を選んだ一番の理由は、部活動の緩さだ。運動よりも勉強に力を入れているため、部活のほとんどは趣味の一環程度らしい。加えて、私が入っていた部活は藤北には存在していない。もう人の視線に怯えることも、厳しい指導に悩まされることもないのだ。


 転校が四月だったらどんなによかっただろうか。クラス替えもあって、転校生だとしても多少は馴染みやすいだろうに。

 春は過ぎて、遂には六月になってしまった。頑固な親を説得するのに時間がかかってしまったせいだ。これには、両親を説得する前に家を出てしまった私にも原因はある。私の気持ちを理解してくれたのは、一人暮らしをサポートしてくれた祖母だけだった。

 しかし、話し合ったとて結果は同じだったはずだ。両親は、春季の大会に出るのを条件に、転校を許可してくれたのだから。私はどこの学校を相手にしても、春過ぎからしか転入できなかったのだと思う。

 その条件で両親と約束をして、三月のうちに転入手続きを終えた。そして、あの忌々しい大会を最後に、私は藤ヶ咲北高校の生徒になる権利を得た。


 学校に着いたらまず職員室に顔を出すようにと言われている。担任の教師は男性だと聞いた。本当は女性がよかったけれど、頭のおかしな教師じゃなければそれでいい。

 バスを降りて傘を差し、目と鼻の先にある藤ヶ咲北高校へと歩いて向かった。藤北には専用の送迎バスがあるらしいが、私はまだ利用する気にはなれずにいる。人見知り故にだ。

 校門を視界に捉えて歩を進めると、ちょうど開門されるのが視界に映った。スマホで見る時刻は、午前七時を過ぎたところである。随分早くに来てしまったようだ。


 学校周辺を窺っていると、突如真横から水しぶきが上がった。驚いて目をやったときには、徐行とは思えないスピードで大型トラックが通り過ぎていくところだった。

 バッシャーンと跳ねた泥水が新品の制服に襲いかかる。トラックを捉えるよりも水の冷たさに気づいたほうが早かったかもしれない。どちらにしても、もう手遅れだった……。


「う、嘘……」


 よく見るまでもなく、ベージュのスカートには大きな染みができていた。タイツも濡れてしまって、表面に泥が付着している。新品なのに、新品なのに、新品なのに。初日から汚れてしまった……。

 落ち込むさなかにポケットからハンカチを取り出して、濡れた箇所へと当てた。叩くようにして染みを取ろうと試みるが、効果は見られない。どころか、ハンカチのほうが先にやられてしまう。どうしよう……。


「あ、あの……!」


 すぐ近くで、声が湧いた。

 傘を持ち上げて視野を広げると、独特の艶を放つ黒髪の男の子が、私の顔を覗き込んでいるではないか。反射で身を引きそうになった意識を、彼の差し出し物によって防がれる。


「よかったらこれ、どうぞ……!」


 私の手に渡されたのは、有名ブランドのスポーツタオルだった。戸惑い続ける私に、彼は「どうぞどうぞ」と言って使用を促す。


「ありがとうございます……」


 傘を倒さぬよう頭だけをぺこりと下げて、私はありがたくタオルをお借りすることにした。

 しかし、どんなに布を当てても、泥を含んだ染みは消えない。はあ……と私はため息を漏らした。乾いたとしても泥の跡は残るだろう。もうこれは、クリーニングに出すしかないかもしれない。

 こんな格好で藤北デビューをするのか。そう思ったとき、希望の光が照らされた。


「保健室行けば替えあるぜ。あ、でもまだ開いてねえか……」


 少年は顎に手を当ててうーんと唸る。黒の学ランを着込んだその姿は、紛れもなく藤北の男子生徒だった。今の発言からしても、私のことを同じ藤北生と思ってのことだ。


「俺鍵借りてくるよ。保健室開けるから来て!」


 え? と返す間もなく、少年は校門を通過して校舎へと駆けていく。しわにならぬようタオルを丁寧に折り畳んで、私も後に続いた。


 シューズロッカーは、二年E組の三十一番となる。言わずもがな、出席番号で定められているようだった。私は転校してきた身であるため、二年生の間はラストナンバーということになる。


 職員室前を通り過ぎた先で、彼が立っていた。私に気づくと、ぱあっと顔いっぱいに笑みを広げて手を振った。思わず振り返しそうになった手をぎゅっと丸めて小走りする。

 彼のいる扉の上部には『保健室』と書かれた札が掛かっていた。


「えーっとね、女子の制服は……これこれ、二番目の引き出し」


 少年はずかずかと保健室に踏み入るや否や、薬品棚の隣を指差した。彼の単刀直入に仰天している暇などない。

 私は彼の隣に並んで、棚の引き出しを開けた。視界に広がったのはベージュ色の制服群。確かに、女子の制服が詰まっているみたいだった。


「はい、これ着替え入れとく用の袋。返すときに紙袋と一緒に出せばいいよ」


 少年は棚の隙間からビニール袋と紙袋を取って、ぐいと差し出した。

 どうしてこんなに詳しいのだろうと思った矢先、「へへっ。保健委員なんで」と得意げに笑われてしまった。心のなかを覗かれたみたいでドキリとする。

 私は袋を受け取った。


「あ、ありがとうございます……」


 タオル洗って返しますね、と言う前に「ううん、全然! じゃあ俺は出るから」と返されてしまう。動きながら喋るのが癖なのか、少年は颯爽と保健室を出て、扉を閉め切った。

 私はベッド周りのカーテンを閉めて、着替えスペースにと利用した。脱いだ制服とタイツをビニール袋に入れて、さらに紙袋のなかへと押し込む。


 もう視界にいないというのに、私は着替えをしている最中も、彼の顔が頭から離れずにいた。いや、離れさせるわけにはいかなかった。

 外側に跳ね返った烏羽色の髪と、人懐っこい笑み。それから、両耳に付けられたイヤーカフが特徴だったなと記憶する。

 藤北に来てすぐの大ピンチだったけれど、彼のおかげで切り抜けられる。後日ちゃんとお礼を言って、タオルを返さなくちゃ。

 私は、ああいう親切な人がこの学校にいることが嬉しかった。あの人がいれば、きっとこの先も大丈夫……そんな気さえしていた。


 この後クラスメートの男子に殺されるなんて、思ってもいなかった。

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