√8 人繋編

プロローグ

七転八起

 古くなった皮を脱ぎ捨てるかのように、心が――意識が、私の元から離れて行く。身体が――肉体が、爪先からほろほろと崩れていく。離れた『本物』の私は、いったいどちらに――どこに、いるのだろう。

 一人、二人……。

 三人、四人……。五人……六人……七人……。

 闇のなかで無造作に転がる、私の亡骸たち。

 そして生まれた、八人目の私――?


 瞼を開けるとそこは夜の道端で、街灯がチカチカと瞬き、目の前に赤い傘が転がっていた。手に触れていた温もりはすっかり冷え切って、雨に打たれてずぶ濡れになっている。


「また……」


 また――私は、死んだみたいだ。




 ギリ、と歯噛みして訪れたのは保健室。勢いよく扉を開けると、廊下まで漏れていた黄色い声がピタリと止んだ。

 けれども静まり返ったのは一瞬だけ。怪我でも体調不良でもないのに保健室に集まって寛ぐ女子たちは、話を戻してきゃっきゃと駄弁り散らす。

 奥で座っていた猪俣いのまた先生は、「あんたらうっさいわ」と言って席を立ち、私の前まで来た。


「入んなさい」


 と、私の顔よりも少し高い位置から呟く。先生は後ろを振り返って「おら、健康人共。男漁りでもしてこい」と女子たちを保健室から追い出した。「はぁーい」という甘い声とすれ違い、私は中央の席に座る。


 六月三日、私の転校日。昼休みになってすぐ、死んだように保健室へとふらふら足を運んだ。それまで誰かとまともな会話をした覚えはない。

 みんなの前で行なった自己紹介は『……よろしく』の一言だけ。席に着き、あのりんと話す時でさえ、曖昧に頷くばかりで笑顔も作れなかった。校内案内の約束もせず、午前中の授業で当てられた時はすべて『わかりません』と答えた。


 ――限界だ。


 転校生なんて大したことない。噂にするほどの逸材でもない。休み時間にクラスメートが絡んでくることはなく、野次馬は暇な数人だけ。教室のドアから一瞥してクラスへと戻って行った。

 昼休みになると、凛が『大事な話があってね』と廊下に誘ってくれた。私は『具合が悪いから』と言って振り切った。凛が追ってくることはないと思う。気を遣える子だから、今頃職員室で用事を済ませていることだろう。


 猪俣先生は向かい側の椅子に腰掛けて、


「顔色わっるいわね。どしたの?」


 五、六人いた生徒は全員いなくなり、保健室には猪俣先生と私しかいない。私は机上の端にやっていた視線をさらに落として、瞳をゆっくりと閉じた。


「また、駄目でした」

「深刻そうね」


 ため息混じりの猪俣先生の声が正面から放たれる。気持ちはこもっておらず、まるで相槌を打つ壁みたいだ。……でもそのほうが、楽に思う。


「……駄目、なんです。何度やっても、変わらない。救えても、救いきれない……もうやめたい……もう逃げたい……」

「早いわね。転校してきたばかりなのに」

「……転校してきたばかり?」


 フッ……と、思わず片頬の筋肉が引きつった。


「転校なら、半年前に済ませましたよ。何度も転校して、同じ日を繰り返して……やっと救えたと思ったら別の人が殺されて、いなくなって、私も……階段から……」


 閉ざした唇が震える。テーブルの上に手を置き、固く指を組んでみせる。

 どうせ言ったって伝わらないんだ――伝えたくてここに来たのではない。吐き出すためにやって来たんだ。崩れてしまいそうな自分の心を整理したくて、吐露したくて、誰かに聞いてほしくて。


「意識が虚ろなんです。目覚めたときから、ずっと……。ずっと……、暗闇のなかにいて……。身体が動かなくて、目も開けられなくて……、誰かの声が時折聞こえてきて――早く……早くよくなってねって……」

「……」

「薬品のにおいがするそこは、きっと病室でした。ベッドの上で、指先ひとつ動かせない私の手を握って、その人が言うんです。大丈夫、大丈夫……芽亜凛めありちゃんなら大丈夫。大丈夫、大丈夫って……悲しげに唱えるんです。まるで自分に言い聞かせるみたいに、毎日毎日花を替えに来ては、私の手を握るんです」


 指を組む両手が机の上でぶるぶると震える。あの感触が忘れられない。あの人の声が忘れられない。

 あの優しい声が。悲しげな声が。


「長い間……私は眠っていました。長くて、長くて……何日じゃ済まされない。何週間でも済まされない。何ヶ月……何ヶ月も、ずっと……」


 階段から転落した。首の骨を折った。重傷だった。意識不明だった。

 運び込まれた病院で、私は手術を受けた。一命は取り留めて、冷たい機械が私の心臓を動かし続けた。いくつものチューブが身体から伸びて、酸素を送り込んで、命を繋いでいた。

 死ねたら楽になれる。けれど、あの人を――彼を――ひとりにしてしまう。

 ここにいたいって……ここで生きていたいって、ようやく思えたのに……。


「最後に聞こえたのは、悲しい、悲しい、叫び声……。私の名前を必死で呼ぶ、あの人の声……っ」


 机上にしずくがぽたぽたとこぼれ落ちて、視界にハンカチが差し出された。震える指先で受け取って、頬に当てる。私、泣いていたのか。


「……で、その子は今、あんたのこと憶えてんの?」


 私は左右に首を振る。


「憶えてません……みんな……みんな、忘れてしまうから……」

「……あたしもみんな、あんたのことを憶えてないってことか」


 なるほどね、と猪俣先生は椅子の背もたれに身体を傾ける。聞き役に徹するのは慣れているようで、先生は静かにこう告げた。


「休んでスッキリするなら、いくらでもここにいればいいし。あたしから石橋いしばしくんに言ってあげようか? あんたのその悩み事」

「……言ったところで」

「そんなのやってみなきゃわかんないでしょ」


 呆れたように遮って、背もたれがギシリと軋みを上げる。


「一度目が駄目でも二度目がある。二度目が駄目でも三度目がある。七転び八起き――努力が無駄になることなんてないのよ」

「……努力、ですか」


 そんなふうに言われたのははじめてだった。私が今までしてきたことは、努力だったのだろうか。考えたこともない。


「もし内緒にしてほしかったのなら、先に謝っておくわ。ごめんなさいね」

「いえ、別に……。言うんですか、石橋先生に」

「ううん、もう言った」

「え――?」


 石橋先生じゃないけどね、と猪俣先生は親指を背後に向ける。先生の後ろには仕切りがあり、窓際を隠すように小さなスペースが設けられている。使わないパーテーションを並べているだけかと思っていたが、まさか今の今まで使


「あんた、今の話聞いてたでしょ」


 猪俣先生は首を後ろに回して問いかける。私の視線は極自然に持ち上がった。


「耳栓でもしろって言うんですか」


 仕切りの上からにゅっと現れたのは、伸びをするように組まれた両手。その左腕に巻かれているのは、黒の腕時計。

 カタンと椅子から立ち上がり、パーテーションから覗き見るように朝霧あさぎりしゅうは微笑んだ。


「また会ったね、たちばなさん」

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