第十話

教えろ、詳しく

 真昼の太陽が少年少女の頭皮を焼く。

 人通りの少ない寂れた公園に、ふたりの学生の姿がある。

 藤ヶ咲ふじがさき北高校の夏服を着ている少女は、ベンチの上の異物にすがりつき肩を震わせ、奇声に近い呻き声を上げていた。そこから距離をおいてまっすぐ佇むだけの少年は、それ以上は――一歩も前に踏み出せないでいる。


 そこはかつて少年が腰掛けていた特等席だった。

 彼女と出会った思い出の場所。追懐に浸れば、思い出すのは夏の熱気と乾いた土、木々と夏草のかおり。薄桃の、彼女の匂い――

 でも今は、梅雨の土臭さに混ざって、錆びた鉄に酢をぶちまけたような異臭が漂っている。

 少年は、無意識下に止めていた呼吸を再開させた。思わず唇を引いて、片手で口元を覆う。

 笑顔がこぼれてしまわぬように。


 ――りんちゃんが悪いんだ。

 凛ちゃんが悪いんだ、凛ちゃんが悪いんだ。凛ちゃんが悪いんだ、凛ちゃんが悪いんだ。音のない呪詛を繰り返し、目線を上げて彼女らを見た。

 照りつける太陽に酔わされて、少年は喉の奥に指を差し入れる。すぐに胃液がこみ上げてきて、溢れた吐瀉物が地面をばしゃばしゃと濡らした。

 背後から聞こえる嘔吐き声にも少女は振り向かない。

 変わり果てた親友を抱き寄せ続ける小さな背中が、少年の視界で揺れる。

 いつまでも、ゆらゆらと、陽炎のように。


    * * *


「もーちづーきくん」


 間延びした声にいざなわれて、わたるは薄っすらと瞼を開けた。仄暗い視界に重なっている影色の正体は、半透明の学生服。


「やあ、おはよう」


 狭い押入れのなか、頭上に落ちた声を追って首を傾けると、朝霧あさぎりしゅうの顔が目と鼻の先にあった。いつかと立場が逆転しているかのように、彼は渉の身体に覆い被さっている。


「覚えてる? 寝落ちしたんだよ」


 抑揚なく言う朝霧の吐息は感じられない。その重みも、体温も。

 渉は緩慢に瞼を開閉させる。


「また、幻覚か……」

「幽霊扱いしないのは望月もちづきくんらしいね」


 片腕のない朝霧がくすりと笑う。

 最後に見た朝霧の姿は遊園地当日に着ていた私服だったはず。今目の前に見える彼が学ラン姿なのは、渉のなかでこっちのほうが印象強いということだろう。

 ただ、左の袖から先がないのは記憶上の朝霧との差異である。


 渉は、渇いた口内を潤そうと唾液腺を刺激した。表情筋を動かすたびに顔中がヒリヒリと痛む。あれだけ殴られれば無理もないことだ。

 少量でもいい、湧き出た唾液を構わず飲み込むと、額から頬にかけて朝霧の右手がなぞった。それは視界に映るだけで、接触することはない。


「苦しそうだね。麻酔も切れてるようだし、大丈夫?」


 朝霧は目をまん丸くさせて、長い睫毛を瞬かせる。その顔が一瞬、赤い帯にまみれて、


「っ……」


 崩れ行く肢体が頭のなかでフラッシュバックし、渉は目線を下げるついでに詰まった息を吐き出した。

 頭痛がする。下腹部が酷く痛む。排泄できない苦痛に身体が悲鳴を上げ、汗が止めどなく伝い落ちる。

 大丈夫か否か、答えるならば、きっと――


「それ、続けないの?」


 押入れの戸に上半身を貫通させて頬杖をつく小坂こさかめぐみが言った。紺色のワンピースが鮮やかなピンク髪を相対的に立てている。

 渉は自身の両手を見つめた。結束バンドに繋がれた親指の付け根は、ぼこぼこと凹凸な噛み跡に占拠されている。


 暗闇に閉じ込められて、どれだけの時間が経過しただろうか。

 茉結華まゆかの気配は、襖の前に来ては『渉くん、反省したぁ?』と問いかける。体内時計で午後十時と、深夜零時と三時、そして朝方五時頃。渉の覚えている範囲で計四回は問いかけられた。

 ではなぜいつまでも押入れから出られないのか? それは渉の対応にあった。

 茉結華は、渉が応えずにいると無言で去っていく。そっちがその気ならこっちだって、という茉結華なりの見解なのか――渉としては、反省したかなんて、上から目線で言われたくはない。

 つまるところ、意地の張り合い。我慢比べが勃発していたのだ。

 いい加減意地を張るのやめたら? と幻覚に促されるたび、渉は「うるさいな」と


 そしてこの状況を一転させようと思案した結果導き出されたのが、結束バンドを噛み千切ることだった。

 しかし目的であるプラスチックの表面は、まだ形状を保っている。これでも幾分か厚みを失ったほうだが、ストローを噛むみたいに柔くはいかない。


「反省した?」


 朝霧の幻覚が茉結華の言葉をなぞる。


「馬鹿言え……」


 渉はぼそりと呟くと、麻酔の切れた右肩の激痛を我慢して、結束バンドに歯を立てた。

 ――そうだ、さっきもこうやって……がじがじと噛んでいるうちに眠りに落ちた。もとい、痛みで気を失った。

 押入れに閉じ込められたのは昨日の昼過ぎだと渉は推理している。茉結華が弁当を持ってきたのがその根拠だ。結局あの弁当が渉の胃に収まることはなかったが。

 現在時刻は不明。体感としては昼過ぎから夕方頃をうろついている。つまり、閉じ込められて二十四時間は経っている――


「まだ切れないの?」


 小坂がもどかしそうに顔を近付ける。


「早くしないと、あいつが帰ってくるんじゃない?」

「わかってるよ……」


 両手を駆使したところで襖をこじ開けられる確証はない。足で蹴破ろうと試みもしたが、外の金具がギチギチと擦れただけだった。辿り着いたのがこのありさまだ。

 しかし無理をしてでもここから出なければならない。飢えと脱水症状よりも渉が忌避しているのは、こんなところで排泄してたまるかということだ。それを捨てたら、人間性が失われてしまう。負けも甘えも、死んでも御免だ。ミシ、

 ――ミシ?


「あ」


 朝霧と小坂が同時に声を上げ、渉も襖を見やる。

 襖の前に、確かな茉結華の気配を感じた。今しがた来たのか、足音の代わりにミシリと軋んだのは畳だろう。まさか以前みたく、ずっと待機していたわけではあるまい。

 渉は結束バンドを噛むのを中断し、相手の出方を窺った。素直になったら? と耳元で幻覚が囁いたが、無視を決め込む。


「……………………」


 ため息に近い、茉結華の呼吸音がした。ガチャガチャとスライドロックを外す音がして、勢いよく襖が開かれる。その場にしゃがみ込む茉結華の鋭い瞳が渉を捉えた。


「抜いてた?」

「…………」


 見当違いの回答に渉の頬が自動で引きつる。それから茉結華はすんすんと空気を吸って嗅覚を行使すると、どこか残念そうに眉を八の字にした。


「出なよ。気に入ったわけじゃないんでしょ」


 茉結華は立ち上がり、数歩後退する。片手には救急箱が見て取れた。


「お咎めなしか、やったね」


 ほくそ笑む朝霧の声を後頭部で受けながら、渉は四つん這いで押入れから抜け出した。骨折の痛みは相変わらずだし、下半身は棒のようになっている。二十四時間、同じ姿勢を強いられたのだから当然だ。

 渉はほとんど左腕の力だけで床を這い、真っ先にトイレへと向かった。飲食を制限されていても排泄物が抑えられるわけじゃない。


「いっそのこと漏らしちゃえば?」


 ピンク髪を人差し指でいじりながら幻覚が提案する。


(そんなこと、万が一にもありえない)


 そう思いながら「……うる、さい」と、つい口に出した渉の一挙一動を、茉結華は静かに見つめていた。手を貸そうとはしなかった。

 トイレで用を済ませると、ようやく下腹部の痛みから解放された。噛み跡だらけの結束バンドに目を落とし、手を洗う。そのさなか、渉は洗面所の引き戸を一瞥した。――どうしよう。

 結束バンドはまだ噛み切れそうにない。歯を立てたことは、表面に触れれば一瞬でバレるだろう。バレたら……いったいどんな扱いを受けることやら。

 だから早くしろって言ったのに、と頭のなかで声がこだました。


「渉くーん」


 茉結華が引き戸から顔を覗かせる。ばちりと目が合った双方の顔つきに驚きが宿り、


「……手洗い中? 早くおいでよ」


 短く告げて、ぱたりと閉められる扉。

 渉は、頷く間もなく引っ込んだ茉結華を思った。――妙に優しいのは、なぜだ? 考えても答えは出ない。

 仕方なく、足先でぴょんぴょんと跳ねながら移動し、扉に手をかける。静音の引き戸を開けると、死角からぬっと茉結華の手が伸び、渉の両手を捕らえた。


 自慢の体幹はないも同然、渉は驚きのあまり声も出ず前方に倒れる。両手を掴まれているのでガードもできず、床に顔を打ちつけた。まるで、昨日仕掛けた不意打ちのオウム返しだ。

 茉結華は結束バンドの表面を指の腹で撫でながら言った。


「悪いウサギさん、どうお仕置きしようか」


 最初から気づいていたのか。結束バンドが傷んでいることに。

 押入れを開けて目視したのではない。茉結華は、渉ならやりかねないと予想していたのだ。そしてその予感は的中した。

 茉結華は、手錠がぶら下がっている柱の前まで渉を引きずると、左手に輪っかを掛けた。両手の親指は繋がったままなので、必然的に右肩も吊り上がる。骨折の痛みと熱に、渉は苦悶の表情を浮かべた。

 視界の隅で取り出されたのは折り畳みナイフだった。行動不能となった渉の頬に刃が当てられる。鋭く凍てた感触だ。渉は唾を飲み、茉結華を睨みつけた。


「また、脅しか……」


 そうぼやくと、茉結華の口角が上がった。しかし次の瞬間には「んふ」と不敵な笑みが漏れ、


「うっそぴょーん」


 茉結華は欠けた月のように目を細めて、渉の頬からナイフを離すと、傷んだ結束バンドをスパッと切り落とした。指先まで痛覚がほとばしっていた右腕が楽になる。

 ナイフを畳んで、「いっぱい噛んだねー」と感嘆する茉結華。得物は拍子抜けするほど早急にポケットへとしまわれて、渉の胸の内に霞がかかる。


「お医者さんごっこしよ? 麻酔打ってあげるね」


 茉結華は救急箱を開けて注射器と小瓶、消毒液とガーゼなどを取り出した。鼻歌交じりに、渉の学生服のボタンを外しはじめる。


「なんかご機嫌じゃない?」

「また一人やっちゃったとか?」


 渉を中央に挟んで、左の小坂と右の朝霧が口々に言う。


(また一人……って)


「だ、誰を……」

「え――?」


 晒した鎖骨に麻酔を打ちながら茉結華はきょとんと顔を上げる。よそ見をしても、その手付きがブレることはない。

 渉は言葉に迷って口元をもごつかせたが、茉結華は追及しなかった。注射し終わって、「これでよしっと」丁寧にボタンを留める。


「次は顔ね。茉結華先生がポンポンしちゃいまーす」


 あくまでお医者さんごっこと呈して渉の手当を続けるようだ。


(何だよそれ)


 陽気で、健気で。こんな茉結華を見ていると、閉じ込められたときの怒りとか恨みとか、悲しみとか、そんな負の感情が霧散していく。意地を張っていた自分が馬鹿らしく思えて――


響弥きょうやがさー警察に行ったよ」


 そこで思考が停止した。

 ――いま、なんていった?


「渉くんにも見せたかったなー」


 茉結華はピンセットで摘んだコットンに消毒液を染み込ませて、渉の顔に近付ける。その綿先が触れる直前、


「なんで響弥がっ!」


 誰かの声が、空気と茉結華の肩をビクンと跳ねさせた。今のは、誰の――――俺の、声?

 茉結華は瞳を震わせて、引きつった笑みを浮かべる。


「い、いろいろ、あったみたい……」

「いろいろってなんだよ!」

「おおお落ち着いてよ渉くん、そんなに怒鳴らないで!」


 渉は、一歩引いた茉結華の胸ぐらを右手で掴んで引き寄せた。麻酔は効き、痛みはない。感覚も曖昧になった腕を酷使する。


「教えろ、詳しく」

「…………、…………」


 茉結華の目がきょそきょそと泳ぐ。目前だったピンセットもコットンも床に落ちてしまっていた。それを拾い上げようと茉結華が手を伸ばしても、渉の怒気が許しちゃくれない。

 観念したのか、茉結華は渉の拳に手を添えて、指先で軽く叩いた。胸ぐらを掴み上げる渉の手が、わずかながらに緩む。


「事件に巻き込まれたんだよ」


 吐息のかかる距離で茉結華はどっと二酸化炭素を吐くと、事の詳細を紡ぎはじめた。

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