叶えてあげるよ

 午後八時の外界の空気は、七月上旬に相応しい蒸し暑さを宿していた。梅雨明け宣言も未定な今日明日の天気は晴れ。特に明日は快晴となるでしょうと、夕方気象庁から予報されていた。

 街灯に群がる蛾類とコウモリを黒のキャップ帽で素通りして、暗色の迷彩服を上下にまとった茉結華は、目的地を目指してひた進む。向かう先はむろん、松葉千里の家だ。


 犯人は現場に戻ると言うが、茉結華はすでに二度、松葉家に出向いている。一回目は簡単な下見に、二回目は誘拐実行、そして今回は不法侵入および、これから行う計画のために必要なものを集めに行く。不法侵入はそのための手段に過ぎず、やることは言わば宝探しに近いものだ。


 茉結華は友達の家に遊びに行くような軽装で、夜道を悠々と闊歩する。街灯はさっきの、蜘蛛の巣だらけの明かりが最後だったらしく、サバイバルゲーマー御用達の装備は夜の帳と一体化していた。

 この辺りの街灯と防犯カメラの少なさは周知されていることだ。車と人通りが少ないことも、そして近所に住む藤北生が松葉千里のみであることも、本人の口から聞いている。


 さて、ゴールデンタイム真っ只中に住居不法侵入を試みるわけだが、これが意外と効果的だというのを茉結華は知っていた。

 ほとんどの人が心から寛げるスペースは愛しの我が家だ。そんな憩いの場で、最も堕落できる時間帯が今である。大好きなテレビ番組の視聴、趣味への没頭、遅いところは夕飯の時間。このリラックスタイムこそ注意力が散漫になる。

 そしてもうひとつ。動員された少数の警察がパトロールに精を出すのはもう少しあと、午後十時からが常なのだ。こんな時間に動き回る犯人はいない、というのが大きな穴である。

 ――警察はもう少し防犯カメラを増やしておくべきだったね。


 ここまで誰一人としてすれ違わなかったのは、幸運か予定の範疇か。目立たないようにと徒歩で来たのだから褒めてほしい。目撃者がいたとしても黙らせるだけだが。

 物騒なことを考えているうちに松葉家の側面が見えてきた。周囲をぐるりと一周して、明かりがついているのはリビングと玄関だけと知る。表に停まっている車は二台。夫婦揃ってリビングにいるのか、それとも片方はお早い就寝か。

 家の敷地内にお邪魔して、茉結華は千里の部屋がある二階の窓を見上げた。


「…………?」


 なぜか、窓が開いている。網戸越しに揺れるレースカーテンが映えて見えた。ピーターパンか季節外れのサンタクロースでも招いているのか。はたまた娘が窓から帰ってくるとでも思っているのか。――あの過保護な両親が考えることならありえなくはない。

 茉結華は、どの家にも必ずある雨樋を前にした。革手袋でも登りやすそうな縦樋だ。靴は擦れて跡が残ることがあるので、両手のみで登りきる。


 さすがに疲労感を覚えた茉結華は、隣のベランダに片足を掛けて千里の部屋を覗き込んだ。窓のすぐ下にあるベッドでは、赤ら顔の男がパンツ一丁で眠っていた。

 腹の肉をパンツに乗せて、豪快ないびきをかいている。ベッドの前には折り畳み式のテーブルがあり、氷の入ったグラスと中身が半分になったウイスキーとが置いてあった。千里のベッドで眠っているのは紛れもない、千里の父親である。

 グラスのなかに残る氷と同じ熱量で男を見ながら茉結華は靴を脱ぎ、ためらいなく網戸を開けた。リュックサックに靴をしまって、お邪魔しまーす。心中で呟き、窓枠をくぐる。


 茉結華はベッドを飛び越えて、音もなく床に着地した。ちらりと後方を振り返ると、顎に涎を垂らして泥のように眠る千里父の顔が確認できた。目元には乾ききった涙の跡が、瞼をこじ開けるのが大変そうなほど広範囲にできている。

 起きる気配はなさそうなので、茉結華は目的を果たすことに集中した。


 目当ての物は勉強机の上にあった。千里が使用している学生鞄とスマートフォンだ。

 平になった鞄の上に、スマホがセットで置かれている。鞄の中身が空っぽなのは、捜査された時に一度抜かれたためだろう。なかに入っていたはずの教科書類は脇に積まれて置いてある。


 茉結華はスマホを手に取った。警察も素直に回収しておけばいいものを、過保護な両親が断ったのだろう。娘本人、もしくは娘を保護してくれた優しい人が連絡してくれる――とでも思っているのか?

 茉結華の革手袋はスマートフォンに対応しているので外す必要はない。ホームボタンを押して画面上部を確認すると、やはりGPSマークが付いていた。警察がオンにしたのか、両親が付けたのか、それとも普段から

 鍵マークをタップすると、出てきたのはパスワード入力だった。


(ふむ……)


 確か千里は――スマホを取り出したとき、小ぶりに指を動かしていた。タップ数は多くはない。もし自分の誕生日を安直に設定しているとすれば『〇六二四』になるが、フリックの動きからしてもっと近い数字だろう。連なる数字を適当に設定している渉のような者もいるが、そんな動きでもなかったはず。例えば――

 茉結華は思いつきで『〇八〇九』と打ち込んだ。ロックが解除されて、アプリ画面に移動する。ビンゴ。茉結華の口角は自然と上がった。


(親友の誕生日を設定してるなんて、愛が深いなあ、ちーちゃん)


 ――ちょっと重すぎる気もするけど。

 ワイファイとGPSをオフにして電源を切ると、ぺちゃんこの学生鞄と一緒にリュックサックに詰め込んだ。入れ替えるようにして靴を取り出す。もうここに用はない。


 出入り口のほうを振り向いたとき、ベッドの上から「……ちさ……と」と、小太りの男が腹話術をはじめた。


「……愛しているよ……千里……」

「…………」


 男は寝言で愛を語りながら胸の表面をがりがりと掻いている。真っ赤な線を作る爪の間には黒い垢が溜まっていた。脂が酸化したような臭いと肥えた汗の臭いが、風に乗って茉結華の鼻を刺激する。

 その顔面に唾を吐きたくなったが、盗品以外をそのままにして、茉結華は這入ってきた場所から足早に退散した。行きと同じように手だけで雨樋を伝い下りて、迎えの車へと急ぐ。


 娘の鞄とスマホがいつ消えたのか、警察との間で問題視されるだろう。けれど父親のほうは泥酔しているようだし、記憶にも残らないはずだ。明日起きてすぐに気づけるかどうかも怪しい。

 母親の自己管理もどうなっていることやら。しっかり者という肩書きなんて、娘の失踪ともなれば容易く崩れる。期待の値、諦めない心――高ければ高いほど、強ければ強いほど、崩れたときの衝撃は大きいのだ。

 茉結華は母親という存在は知らないけれど、崩れる痛みは知っている。


(助けに来てくれる、か)


 親のことは早々に追っ払って、娘の言葉を思い返した。

 最期まで親友に助けを求め、信じていた、少女の望み。


「叶えてあげるよ」


 ――のよしみでね。

 空を見上げると、欠けた月が自分と同じように笑っていた。月は好きだ。星と違ってすぐに見つけられるし、昼間でも目視することができるから。明日にはもっと痩せた姿になっているだろう。寂しい新月は明後日か。


(渉くん、押入れから出してあげないとな)


 茉結華は帰路をスキップで行く。帰りの街灯にはコウモリだけが羽ばたいていた。

 蛾はコウモリの超音波を嫌がる性質があるんだっけ、最初から仲良くなんてできなかったんだね。そんなよそ事を思いながら、茉結華は落ちた蛾の片羽を踏み潰す。飛んでいるコウモリは、その半身を捕食していた。


 さてと、必要なカードは揃った。

 ――愛しの『凛ちゃん』は、どんな顔をするだろうね。

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