私のことも思い出してよ
一人を一体に変えたところで、茉結華は浴室に向かった。まずは着替えと、身体に付着したあれやこれやを洗い落とさなくてはならない。
帰ってきて一回と、地下後の一回。短時間のうちに計二回のシャワーを浴びることになったが、汚れを落とす手間なら惜しまない。臭いものに蓋をするように、渉に気づかれないために。
着替えを済ませたらリビングへと戻る。茉結華は市販薬の入った袋を漁った。割れて痛む脚に、早く手当をくだしたい。その一心で湿布を求めてみるが、それらしきものはなかった。
昨日渉の手当に使った湿布、あれが最後だったのか。ゴミ袋に目をやると、使い切って空になったパウチ袋が捨てられていた。
冷却シートで代用しようか、それとも上から包帯を巻こうか。しかし仰々しい見た目にはしたくない。
痛いのは嫌いだ。傷が残るのも嫌いだ。だから、早く治りますように。そう願って、茉結華は軟膏を傷口に塗りたくった。
渉の元に戻る頃には、午後一時を回っていた。
茉結華は自室のクローゼットを開けて、隠し扉の暗証番号を打ち込み、
「ただいまぁ」
警戒心低めに言いながら部屋に入った。リビングから持ってきたコンビニ袋の音に反応し、部屋の隅にいた渉が顔を上げる。尻尾を振って駆けつけてくれたりはしない。
「何してたんだ?」
「え、浮気なんてしてないよ」
用意していた回答を差し出すと、渉の目が据わった。テスト当日でこんなに帰りが遅いなんておかしい、と今にも言い出しそうである。
そう、渉には今日から期末テストだと事前に伝えておいた。帰宅時間にも関わるし、今日がいつなのか渉には把握しておいてほしかったからである。
渉が「テス――」と言い出したとき、茉結華ははぐらかすようにコンビニ袋を掲げた。
「お腹空いたでしょ、夕飯と兼ねていい?」
渉は口をつぐんで、一度間を取って頷いた。
素直でよろしい。茉結華はにこりと微笑んで「今日のご飯は焼肉弁当」と提示し、渉の正面に座った。
「骨折の痛みは?」
「……麻痺してる」
つまりまだ麻酔が効いている、と。茉結華は「そう」とぶっきらぼうに返事した。
渉の熱は土日のうちに下がっている。彼が重傷を負った後に訪れる束の間の平穏は、
――あの頃は腹の底を隠して探り合いしてたっけ。
茉結華の首を掻き切る瞬間を、渉は虎視眈々と狙い続け、茉結華は警戒心を強めてカウンターを用意する――それがふたりの日常だった。
でも今は、ドラマティックな展開も期待できそうにない。今の渉にはきっと嫌がらせも通用しないだろう。頭を撫でようが顎をくすぐろうが唇にキスしようが、すべて受け入れられてしまう。根拠はないが、そんな気がする。実行は、――キス以外ならしてもいいかな。
茉結華は渉をちらりと見た。渉の視線は手前のコンビニ袋を抜けたさらに奥、あぐらをかいた茉結華の脚へと注がれていた。
「……それ」
「うん?」
「それ、なに?」
――あ、バレちゃった?
渉は、弁当を取り出す茉結華のふくらはぎを指摘した。目線の先には、葡萄色をした咬創がある。
さて、どう誤魔化そうか。思案する前に茉結華は「んふふ」と奇妙な笑い声を漏らした。
「なぁに、心配してくれるの?」
そう茶化せば、渉は不安と焦燥絡む瞳で上目遣いする。少なくとも心配している顔つきではなかった。どちらかと言えば、疑っている。
歯型はどこから見ても人間のものだし、少し小さい。人物像は子供か女の子であると容易く想像できるだろう。よし、ここは正直に答えようと茉結華は思った。
「犬に噛みつかれただけだよ。キャンキャンうるさい雌犬にね」
そんなふうに言えば、渉の片眉がぴくりと反応を示した。――雌犬はまずかったか。せめて子犬にするべきだったか。茉結華は秒で警戒心を強める。
しかし、渉の唇は訝しげに開いただけで反論は出てこず、口呼吸をしただけで閉ざされてしまった。そして茉結華の顔から視線を外し、また噛み跡とにらめっこをはじめる。――言いたいことがあれば言えばいいのに、なぜ諦めてしまう?
(……つまんないな)
――らしくないというか、反論しない渉くんは、渉くんじゃないや。
主観的な思考をして唇を尖らせたが、渉は見てくれない。茉結華は物寂しさを感じて、『何か言ってよ』と、つい本音を漏らしかけたが、言葉は外気に触れる前に飲み込まれる。
渉の反抗を仰ぐのは今じゃなくてもいい。明日か明後日には、嫌でも怒りを買うことになるのだから。――いや、それも黙っておくのもありか?
茉結華は人知れずため息をつくと、弁当と箸と鎮痛剤と、水の入ったペットボトルを二本置いて立ち上がった。
「それじゃ、ゆっくり食べててね。私はもうひと働きしてくるからさ」
まだ準備は整っていない。言ってしまえば、これからが準備の本番だ。期末テストだからと言って、見す見す休校明けにした学校に制裁を加えるために――
茉結華はうんと背伸びした。本当はもうしばらく寛いでいたいが、骨の折れる作業が待っているのだ、早く向かわなくては。
背中を向けると、後ろで渉が動いた。その気配に茉結華の本能は呼び起こされるがままに反応する。
咄嗟に振り向くと、左頬を衝撃にぶたれた。視界が大きく揺れて、茉結華は倒れまいと両脚を広げる。
「っ……!?」
――は? なに、殴られた?
熱い鈍痛がじんわりと頬に広がる。揺らいだ平衡感覚を無理やり戻して渉を見ると、彼は目を見開いて茉結華を凝視していた。――なんだその顔は、驚いているのはこちらだというのに。
その喉元がゴクリと上下して、二発目が飛んでくる。茉結華は渉の攻撃を避けずに待って、拳を正面から受け止めた。
右のこめかみに当たった打撃は、先ほどよりも軽かった。
――不意打ちなんてずるいよ。殴るなんて酷いよ。ちーちゃんのことがそんなに大切? 今さら行ったってもう手遅れなのに、あの子は渉くんに期待なんてしてないのに。
だけど今は、それよりも、
「……渉くん」
茉結華は眼球だけをギュルンと動かし、宙を彷徨う渉の腕を掴んで引き寄せる。つんのめる渉の肩を抱いて、耳元で囁いた。
「どうして手加減したの?」
囁いて、みぞおちに拳を打ち込んだ。
短い呼吸音のあと、渉はくの字になって膝を折るが、茉結華はそれを許さない。床に着く前に今度は膝蹴りを食らわせる。
斜めに倒れた渉は全身で喘いだ。茉結華に掴まれたままの腕以外が、床に吸い付けられるようにして伸びている。茉結華は乾いた唇を舌で潤し、渉の腕を離して馬乗りになった。
「悪い子相手には、本気で殴らないと駄目、でしょ?」
無感情そうに諭して、渉の前髪を掴む。無理やり顔を向けさせると、渉は歯を食いしばってギロリと睨んだ。
そうだ――この顔だ。茉結華が望んでいたのは、渉のこの表情である。
ルイスを屈服させていた、土曜日の朝を思い出させるこの目。睨み殺すようなこの目つき――
そんな渉が、今は茉結華によって蹂躙されている。それがたまらなく気持ちよくて、茉結華は高揚感で背筋を震わせると、「あは」と笑い声を読んで、もう片方の手で渉の首を絞めた。
「生意気」
でも、そこがいい。
きつく絞め上げてから離すと、渉は激しく咳き込んだ後、やはり変わらぬ目つきで茉結華を睨んだ。
(おかえり。私の渉くん)
――やっぱり私は、こっちのほうがいい。
ただひとつ残念なのは、もうキスができないということだ。舌噛み切られそうだし。顎も、手を噛まれそうなので撫でられないだろう。
「何か思い出したの? それとも記憶操作から演技だった? あんな下手くそな不意打ち、計画してたとは思えないんだけど」
茉結華は悠然と言いながら、前髪から手を離してグーパーグーパーと動かす。久々だ、この感じ。
「殴るのって自分も痛いよね。私、痛いのは嫌いなんだよ」
渉くんは好き? 尋ねて、左頬を二回殴った。
「うっ、うぅ」
「やられたらやり返さないと。そうでしょ?」
おとぎ話を口ずさむみたいに言って右頬を殴ると、小指の側面が前歯に擦れて皮がめくれた。茉結華は気にせず暴力をふるい続ける。
「殴らせないでよ」
終いにそう告げると、渉の瞳に狼狽が浮かんだ。たちまちのうちに眉尻は下がり、瞳が子猫のように潤み出す。不要な責任を感じて後悔している目だ。
――渉くんって、本当に愚かだ。
悔いるくらいなら、相手が立てなくなるくらい本気で殴れよ。加減なんてするなよ。情けなんてかけるなよ! 私のことも……、
「私のことも思い出してよ」
茉結華は握り拳を、渉の耳の横めがけて振り下ろした。衝撃は硬い畳に吸収されず、茉結華の拳に跳ね返る。ざらざらと冷たい感触に皮膚が傷つく。
目線を畳から移すと、渉がまっすぐ見つめていた。
頬はぼこぼこに腫れており、化粧なら派手すぎる色に染まっている。唇は切れて、唾液混じりの赤色が滲んでいる。顔中血だらけになりながら、憐れみの目を向けている。
茉結華は唾を飲み込んだ。思考が途切れ、なぜ今渉を見下ろしているのかわからなくなった。
どうして渉が血だらけになっている? どうして拳が痛む? どうしてこんなにも、胸が痛む?
――
「……鼻血、出てる」
茉結華は、渉の鼻から伝った一線に舌を伸ばした。べろりと舐めると「っ、あ」と、渉は息苦しそうに枯れた声を漏らす。
「や、やめ……」
肘を突き出して抵抗する腕を押さえつけて、茉結華は丁寧に舌を這わせる。口のなかに自分以外の血の味が広がった。顎にかかる渉の吐息の熱さに脳が痺れていく。
――そういえば渉はA型だっけ。自分はAB型だから、渉の血を摂取しても問題ないな。
そうして、もぞもぞと身じろぎする渉のことを、彼はしばらく味わい続けた。
* * *
釘付けになっていた。
人間の歯型。人間の歯型。そればかりが頭のなかをぐるぐる巡る。あいつに、それも文字通り噛み付く人間が、自分以外にいるのだろうかと。
自分以外、だれか、なにか、わすれていて――
ともだち、おんなのこ――
そのとき、耳元で声がした。
『助けて……』
彼女は言った。地下で確かに聞いた言葉。なのに――どうして忘れていたんだろうな。
いや、忘れていたのはそっちじゃなくて、ルイスの言葉だったんだ。この家のどこかに、囚われたもう一人がいる。そう聞いていたのに、地下で女の子の声を聞いたはずなのに。
――忘れていた。でも、思い出した。
そうして、気づいたら拳を振り上げていた。振り向いたあいつに、親友の面影が重なった。本当に、どうしてだろうな。
どうして手加減しちゃったんだろう。
考えても、この押入れから出られそうにない。
ああ、また、失敗した。
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