ようやく出番だね

 テストはつまらないと茉結華は思う。

 腕試しと楽しそうに豪語する者もいれば、テスト期間中は早帰りだからって好く者もいる。トップ争いに精を出す者もいれば、泰然自若と一位を維持する者もいるだろう。彼らのことを否定するつもりはないし、そんな世界に茉結華は興味がない。茉結華には茉結華だけの、見るべき世界があったからだ。


 茉結華にとってテストとは、問題を解く以外にも頭を使う作業だった。それは配点の計算である。

 藤ヶ咲ふじがさき北高校の赤点基準は平均点の半分だ。教科担任によっては事前に赤点ラインを――今回は六十点です、などと――指定してくることもあるが、基本的には五十点以上を確保しておけば補習を受けることはない。

 誰にも期待されないよう、補習対象にもならぬよう、配点を計算しながら受ける。茉結華はこれを退屈しのぎ、ゲーム感覚で調整している。平々凡々を装うためには必要なことだった。


 だが困ったことに、今回は余裕がない。最近になってずどんと蓄積した疲労がまだ消化できていないのか、非職の頭でペンを走らせることになった。いつものように手を抜けば間違いなく五十点には達しないだろう。

 藤北のテストは勉強をしなくても上位に入れるなんて甘いことはないのだ。気を抜けば一気に突き離されるし、余裕綽々と配点計算なんてできなくなる。今がそれだ。


 この土日で、茉結華がテスト勉強の代わりにしていたことと言えば、ゲームである。比喩ではない――正真正銘の据置型ゲーム機で、渉と遊んでいた。

 土曜日の一件を経てすぐに、茉結華は渉を隠し部屋へと移した。

 一番はじめに防音室から移したあのときの理由は、見張り役のルイスを思ってのこと。看守をその都度変更するのと同じようなものである。茉結華は渉がルイスの行動を読みはじめるだろうと懸念して、早いうちに隠し部屋の準備を完了させたのだ。


 そして先日の、首絞めの件。やはり渉とルイスをひとつの場所に留めるのは危険なことだと思わされた。

 それを踏まえると、あのときの判断は正しかったと言えよう。花丸満点大正解。じゃなきゃもっと早い段階で、ルイスの首が絞まることになっていた。


 渉は相変わらず記憶が前後しているのか、反抗的な意思を見せない。二日間どこか上の空で、何もない壁を見つめていた。話しかけると、一拍遅れで返事が返ってくる。茉結華がゲーム機を持ち込んだのもその延長線だ。

 渉は拘束された指で不器用にゲーム機を触っていた。茉結華との対戦に勝っても負けても、一度も笑うことはなかった。何か大切なことを思い出したくて、でも思い出せず悶々としている顔。


 もし本当に、ここで二ヶ月を共にしたら、渉はあんなふうになってしまうのだろうか。笑わない、けれど大人しくて素直な――あれじゃ牙を抜かれた虎だ。

 このぺらっぺらの紙切れと同じ。つまらない。


 そして訪れた七月一日。藤ヶ咲北高校期末テスト当日。

 茉結華は愛用のシャーペンを回しながら、埋め終わった答案用紙をチェックする。六十点……いや七十点だろうか。たまには本気で解いて、二年C組担任の東崎とうざき先生に褒められるのも悪くないかもしれない。

 やればできるじゃないか、次もこの調子で頑張れよ。東崎はそんな褒め方をするだろう。でもテストで頑張るのは御免なので、六十点前後を期待する。


 答案用紙とにらめっこするのにも飽きて頬杖をつき、窓の外に目をやった。校門前に設置された献花台がここからでもよく見える。それに、マスコミと、警察関係者の姿も。

 今朝の報道番組でも、校門前死体遺棄事件という真っ赤なテロップが画面右上に表示されていた。週明けしてもこの賑わいよう。

 掲示板によれば、ルイスの言っていたとおり、保護者会で『呪い人』の話題を出した親がいるらしい。テレビでオカルトを取り扱うところも増えてきている。

 やはりこの手のネタは話題性があるようで――世間様のお声は猟奇殺人と学校の呪いで二分されているみたいだ。


 窓の外を眺めるなか、茉結華は自分の姿が反射しているのに気づいた。跳ね返った黒髪。両耳に付けられた控えめなイヤーカフ。温厚そうな双眸が、こちらを見つめていた。

 ここは二年C組の神永響弥の席。

 ――ああ、そうだ。

 今は『茉結華』ではないのだった。


    * * *


「ようやく出番だね。死ぬ前に、何か言いたいことはある?」


 初夏の真っ昼間だと言うのに、地下室は冷えた闇に包まれている。

 三科目三時限のテスト初日は、午後十一時半に終了した。早急に帰宅して、シャワーを浴びて、はいただいま。愛しの茉結華ちゃんですよぉ――なんてね。

 時計の短針が真上を指す頃。茉結華は両手に革手袋を嵌めて厚着のコートをまとい、さらに上からビニールコートを羽織り、大事に保管しておいた傘を手にして彼女と対面した。

 地下室で、今じゃ一人ぼっちとなった少女――松葉千里にそれを言うと「……人殺し」と、お決まりのように返される。


「またそれ?」


 いい加減聞き飽きちゃったよ。茉結華が意地悪く言うと、千里は汚れた毛布に身体を丸めた。

 頑丈な足枷と鎖が、重たい金属音を立てる。監禁されて約一ヶ月の身は、頭の天辺から足の爪先まで汚れきっていた。むしろ毛布のほうが綺麗かもしれない。

 千里を見ていると時折無性に、渉を同じ目に遭わせてやりたいと感じる。トイレ付きの部屋で過ごせて、毎日風呂にも入っている渉は贅沢だ。そしてそれ以上を求めるのはわがままで、欲深で――茉結華は渉のそういったところが気に入っているのだけれど――故意的に汚したくなるのだ。


 誰かを殺す前に、茉結華はいつも同じ質問をする。死を前にした人間が何を求め、願い、誰を想って死んでいくのか……知りたい、でもなくて……探究心? 興味? ただ構ってほしくて問うときもある。

 ある男は息子を口汚く罵った。またある男は、殺人鬼ではなく人間と話すことを望んだ。

 最期くらい、『茉結華』を見てくれてもいいのに、許しを乞う者はいなかった。


 床に落ちているカビたパンを見て「減量中?」と問えば、千里は鼻息を荒くし、怒気をあらわにした。茉結華は「おお、怖い怖い」と言って口角を吊り上げる。

 別に煽るために地下に来たのではないので、からかうのはやめにするが――かと言って昼食を渡しに来たのでもない。これから殺す相手に、最後の昼餐など不必要だ。


「ねえ、ちーちゃん。ちーちゃんは凛ちゃんの親友だけど、凛ちゃんはちーちゃんの親友かな」


 突拍子もなく、茉結華は口火を切る。手持ち無沙汰で千里の傘をぐるんぐるんと回すと、鋭く尖った先端が円を描いて歯車を作った。それを、千里の側頭部に近付けてやる。


「こんなとき真っ先に駆けつけてくれるのが親友でしょ? だったら凛ちゃんはちーちゃんの親友じゃないね」


 傘が空を切る音を耳にしながら、千里は怯えるでもなく、威嚇するように唸った。一ヶ月もこんな環境で粗暴に扱われ続ければ、少女たりとも多少のことでは動揺しない。精神が擦り切れる、もとい皮肉にも強くなったようだ。

 白い吐息が口から漏れ、噛み合わない歯を震わしながら千里は言う。


「凛ちゃん、なら……必ず、助けにきてくれる……」

「ふーん、そうかな」


 敢えて否定はせず、茉結華は曖昧な返事をする。言ったところでこちらの言葉など信じないだろう。――信じているのは百井凛のことのみか。

 闇のなかでふたつの瞳がぎらぎらと光り、茉結華を捉え続けた。


 松葉千里は少し変わっている、と茉結華は思う。明るくて活発的で、誰とでもすぐ仲良くなれる、コミュニケーション能力に長けた少女。これだけ聞くと図太さが感じられる。

 けれど彼女はその逆のタイプだ。危うくなれば、心にシャッターを下ろして立ち入らせない。本心を明かさない。自分を見せない。心を偽る者と抑制する者がいるなら、彼女は隠す者だ。そしてそのバランスが千里はうまく取れている。彼女が本心を見せるのは凛に対してだけか――


「……この前の、物音は……やっぱり、凛ちゃんだったんだ」


 茉結華が返事を曖昧にしたことを、千里は誤魔化していると解釈したらしく、まったく的外れなことを言ってくれる。


「凛ちゃんが、わたしを、助けに……」

「ふふっ」


 つい、茉結華は鼻で笑っていた。

 ――自分を助けてくれる人はすべて『凛ちゃん』か。本当、羨ましいくらいお気楽な脳みそだ。


「幸せものだね、ちーちゃんは。だけど残念。もう忘れてると思うよ」


 そもそも人が違うし、と思ったがそれは口に出さない。


「結局友情なんてその程度のものなんだよ」

「……きみだって、同じでしょ」


 空を切る傘がピタリと止まった。

 千里は茉結華のことを『響弥』とは呼ばない。以前その名前を口にしたとき茉結華にこっ酷く殴られたからだ。以来『きみ』とか『あなた』と呼ぶようになった。

 茉結華は黙って言葉の先を促す。


「その理屈だと……渉くんは、きみの親友じゃない。きみに気づかない、駆けつけない……渉くんは、親友じゃない」

「そうだよ。渉くんは私の親友じゃない」


 わかりきってることだよと、茉結華はけろりと答えた。渉との友情を馬鹿にされて茉結華が怒るとでも思ったのか。友情なんて、はなからないというのに。

 千里は渉が監禁されていることを知らない。今も極普通に学校生活を送っていると認識している。少なくとも、渉は千里のことを心配していたのに。

 このズレた認識を知っているのは茉結華だけだ。可笑しくて、残酷で、あまりにも滑稽である。


「……本当は、気づいてほしかったんでしょ……渉くんじゃなくて、凛ちゃんに」


 まるで知ったような口を利く千里に、茉結華は眉根を寄せた。特に、最後の一言。

 ――凛ちゃんに? どうして? いや、だけど……。

 考えて、けれど心がずんと重くなるのを感じ、茉結華は思考を停止させる。代わりに傘の先端を壁に突き立てて下に擦ると、鼓膜が痒くなるような酷い音が地下に響いた。


「なにそれ。なんで凛ちゃんが出てくるわけ。どうしてそう思うの?」

「教えない」


 千里は掠れた声で、しかし即座に反応した。


……


 次に音を立てたのは茉結華の歯噛みだった。

 ――それが最期の言葉?

 茉結華は「あっそ」と言い嘆息すると、千里の腹部を横蹴りした。軽量化の進む少女の体躯は激しく揺れながら壁にぶつかる。


 ――私のほうが凛ちゃんと早く出会ったのに。

 茉結華は、吐き気に堪え兼ねて咳き込む千里に追撃しようと、一歩踏み出した。

 ――憎い。

 瞬間、飛び起きた千里が茉結華のふくらはぎに食らいつく。


「っ……ぐ!」


 スウェット越しに走った鋭い痛みに茉結華は思わず呻き声を上げる。噛まれた脚で千里の腹を蹴り上げるが、少女は食いついて離れない。体力はなくなっても、顎の力は健在か。


「犬が!」


 茉結華は勢い任せに罵ると、握りしめた傘の先端部分を、少女目掛けて振り下ろすのだった。

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