おれ、わたし、は……
あの日のことを、彼が、茉結華が、忘れたことはない。
一週間しか生きられないという蝉が絶えずバトンを繋ぎ、煩わしく合唱を奏でていた七年前の夏。彼らがまだ十歳のときのこと。
「わたるくん早く早くー!」
絵の具で濃淡をつけたような青空の下、蝉の合唱に少女の声が乱入した。夏祭りに向かう子供たちを思い出させるハイトーンで軽々しい響きだった。
少女に呼ばれたもう一人はざりざりと摺り足で地を駆ける。
「りん、どこまで行くんだよ」
「すぐそこー!
二人は、当時からすでに寂れていた坂折公園を目指していた。車通りも少ないこの場所は、近所の住人が犬の散歩をしに通り掛かる程度のひと気のなさを確立している。
街路樹から見え隠れする目的地に、渉は「うげ」と呻くような声を上げた。
「ここ汚えじゃん」
「でもさっきの公園より人少ないよ?」
「少ないっつーかいなくね?」
「テニスし放題だね!」
「なわとび持ってきたのに」
「それは夏休みの宿題。あとでやろう」
「おれがテニス苦手なの知ってるくせにさぁ」
「へたくそーって言われてたねぇ」
「ゆりねえがスパルタすぎるんだ」
「だからわたしが、おねえちゃんに代わって教えてあげます!」
年相応の教えたがりな少女は「えへへ」と朗らかに笑う。
渉はやれやれと肩を落とし、少女から借りたラケットケースがずり落ちる前に姿勢を正した。そして公園内を見て、気づいた。
「あれ……誰かいる」
「え?」
公衆トイレの脇に設けられた木陰のベンチに腰掛ける、ただひとりの姿。
上は淡色のTシャツ、下はグレーのスウェット。頭には黒のキャップ帽を被っているその子供は、身に着けているものは何もかもがぶかぶかで、丸めた背中がくたびれた衣類に拍車をかけていた。
少女は「ほんとだぁ」と気の抜けた声を上げる。
「ねえわたるくん、せっかくだし誘ってみる?」
「ラケットふたつしかないだろ」
「あ……そっか、むずかしいね」
そう言いながら、入り口脇のベンチにラケットケースを下ろした。渉もつられて、同じようにラケットを取り出す。
軟式のテニスボールをふにふにと摘みながら、「行くよー」
少女が遠ざかるので、渉はラケットを両手で構えた。ぱこんっと気持ちのいい音を立てながら少女がサーブをする。飛んできたボールに狙いを定めて、渉はラケットを振った。ボールは大きく右にずれ、「ああー!」という叫び声の後、
「まだまだだよわたるくーん!」
少女の声がさらに遠ざかる。
軟式のボールは低空を弾み、さながらA地点からB地点へ移動する点Pのように、ベンチに腰掛けるその子の元へと転がった。ボールは爪先にぽよんと当たって静止する。
それと同時に、追ってきた少女の歩がゆるゆると止まった。B地点のその子の、日に焼けていない蒼白な肌と、墨汁色をしたキャップ帽の頂点を一頻り眺めてから、やがてぽつりぽつりと歩み出す。
少女は足元にしゃがんでボールを拾った。顔を上げると、淀んだ瞳と目が合った。
「……」
少女は目を瞬かせた。Bの瞼も上下に開閉する。その細い輪郭にはいくつもの擦り傷と、青痣と――歪に腫れた片頬には、小さな顔を覆い尽くさんばかりの湿布が貼られていた。
何よりも目を引いたのは、砂糖のようにきらきらと輝く、白い髪だった。
「えへへ、こんにちは!」
少女はパアッと笑顔を咲かせて口にした。白髪の子供にはそれが、目の前で打ち上げられた花火のように見えた。
ビクッと小さく肩が跳ね、顎が奥へと引かれる。目の前の花火はぱちぱちと弾けて消えない。
「ねえひとり? 一緒に遊ばない?」
そんなふうに言われてしまい、目を四方八方に泳がせた。首まで伸びた白い髪が挙動に合わせて揺れ動き、周りの色を反射させる。
少女は「えっと……」と困り気味に頬を掻き、その手でスッと指さした。
「それ、転んじゃったの?」
人差し指が向いた先にあるのは、野暮ったいTシャツの袖から見え隠れする肘の擦り傷。
少女が指摘すると、白髪はもう片方の手で肘を覆った。手の甲には青紫色の痣があった。
「おーいー、りーんー」
そうこうしているうちに間延びした渉が後ろからやってくる。
「わたるくん、ばんそうこうある?」
「あ? あるわけないだろ」
「ううーん、そっかぁ……」
振り向いた少女は悩ましそうに言って、視線をベンチに戻した。
「ねえ、おうちの人はどこ? ひとりでいるの? それともまさか、迷子?」
「なありん……もういいだろ」
答えない白髪の代わりに渉が制止にかかるが、「よくないよ」と少女はぴしゃり。
「ほんとに迷子だったらどうするの?」
「ど、どうするって言われても」
「おうちの人探してあげないと。それか交番だね!」
「まだわかんないんだろ……?」
「むぅー。そういうこと言わないのー!」
「……」
渉は不明瞭な言葉をもごもごと巡らせるが、結局返答に困って唇を引いた。渉はとっくに呆れ返っているが、少女は膨れっ面になっている。いつその頬がひゅぅっとしぼんで、また花火を上げるかわかったもんじゃない――
「……たすけて」
目元を覆う白髪の向こうから紡ぎ出されたのは蚊の鳴くような声だった。幼馴染二人の言い争いが過熱していたら、蝉の声に負けて死んでいた声。
「たすけて?」
「…………」
少女が聞くと、キャップ帽がこくりと頷いた。渉は後ろで額の汗を拭っていた。
「わかった、約束する。わたしが必ずたすける!」
そう言うと再び『えへへ』と笑う。――花火が上がった。
「お名前はなんていうの? わたしはね、
難しい字なんだよねぇと凛は言う。
互いに見た目でしか年齢の判断ができない子供。子供が子供相手に説明しても理解は得られない。
「あなたは?」
改まった調子で凛が問う。
夏の風に吹かれて白い髪が揺れる。
「おれ、わたし、は……」
その先を言う前に「マユカ――!」と、大人の男の呼び声が向けられた。
渉と凛は振り返る。公園の入口で、知らない男が手招きしていた。
二人がそちらを見ている隙に、白髪は横を通り過ぎて駆けていく。途中足がもつれて転びそうになりながらも、小さな背中は遠ざかっていった。
「おとうさん、かな」と凛が率直な感想を述べる。「そうだろ」と渉が同意した。
「……ぎゃくたい、かな?」
「……さあ」
「女の子、だよね?」
「男だろ?」
「でも、名前が、女の子みたいだった」
「ふーん」
ようやく本当の意味で二人ぼっちとなった渉と凛は、坂折公園で日が暮れるまで遊んだ。
次の日、彼は坂折公園に向かった。
だけど、『凛ちゃん』は現れなかった。
次の日も、その次の日も、『凛ちゃん』は現れなかった。
凛ちゃん、百井凛。
その名前は、彼の胸の奥深くに沈み、麻薬のように溶けている。
それから三年後。
中学の入学式でクラス名簿を目にしたとき、彼は思わず声が漏れそうになった。一年一組の名簿にあった、『望月渉』という文字を見て。
――もちづき、わたる。
まさかと思い、他のクラスにも目を通す。そうして、彼は見つけた。
隣のクラス――一年二組に『百井凛』という名前があったのだ。
一年一組。奇しくもおんなじクラスで出席番号順に並べられた望月渉の席は、一番端の列にあった。渉の顔つきは幾分か男らしくなっていて、三年前の生意気な雰囲気はまるでない。誰とも話さず席に座って、両手をお行儀よく膝の上に置いていた。
「よろしくな」
彼が目の前まで来て言うと、望月渉は困惑したように首を左右に動かし、人差し指を自分のほうに向けた。無言で、『俺に言ってるの?』と訴えている。彼が頷くと、渉は不器用な笑みを浮かべた。
「ああ……、おう、よろしく」
彼はにんまり笑って前のめりになる。渉は驚いて身体を強張らせた。
「名前は? 俺、
「……望月渉」
「渉かあ。へへっ、よろしくー」
「よろしく、えっと……神永」
「響弥でいいよ、渉」
中学生になった彼らは運命に導かれるまま再会した。
体育館で入学式を終え、教室で担任の自己紹介含む軽い話を聞いて、生徒は下校となる。教室を出て廊下に佇む渉に、彼は一方的に話しかけた。
「誰か待ってんの? 男? 女? 好きな子?」
渉は隣でちょこまかと動く彼を一瞥して「幼馴染」とだけ言った。間もなく二組の教室から出てきた彼女に、渉は視線を送る。彼も、緊張しながらその様子を見ていた。
「渉くんもう友達できたの?」
「ハッ! この人彼氏!?」
「違う!」
百井凛の横には知らない女の子がいた。彼女の言葉に、幼馴染二人は声を揃えて否定してみせる。息ぴったりの二人を見て、少女はくすくすと笑った。
「
今思えば、幼馴染は片割れ同士、やがて親友となる人物を連れて相対していたのだ。
初対面の者は適当に自己紹介をはじめた。
「望月渉です」
「よろしくねぇ渉くん」
「いきなり下の名前で呼ぶんだ……」
「えっ駄目……!?」
「いや、別に」
「ふふーん。私のこともちーちゃんと呼んでくれていいからね!」
千里はニヒヒと綺麗な歯列を見せて笑い、彼に視線を移した。そっちの彼は自己紹介しないのかな? 千里は純粋にそう思っていただろう。
でも彼はそれに応えることも、答えることもなく、凛をまっすぐ見ていた。
視線に気づいて、今度は凛が彼に挨拶する。
「あ、はじめまして、百井凛です。渉くんとは幼馴染で――――」
それから先のことは耳に入らなかった。
あの日公園で見せてくれた笑顔とおんなじ無邪気さを携えて、『えへへ』と笑う彼女は、
もう、彼のことを覚えちゃいなかった。
――ねえ、凛ちゃん。
私たち、今でも待ってるよ。
凛ちゃんが助けてくれること。この舞台から下りていいんだよって言ってくれること。
凛ちゃんを信じて、ずーっとずっと待っている。
だから、ねえ。早く果たしてみせて。
凛ちゃんのために、私はずっと待っているのだから。
――私がこの世で一番嫌いなのはね、約束を破られることだよ。
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