第九話

俺のこと、殺そうとした

 首元が窮屈に感じた。

 背中に伝わる柔らかな布の感触と、頭のなかを埋め尽くすほどの眠気。

 そして、それ以上の息苦しさ。


 首元に貼られている湿布とは別物だ。詰襟のホックが閉められているふうでもない。自発的に、能動的に蠢く何か。この圧迫感と違和感は突如としてやってきたらしい。まったく、睡眠妨害もいいところだ。

 血管ではなく気道を塞いでくるこの感じは――手か? 生温かくて少し湿っていて、不器用に密着してくる。しかし、いったい誰の……。


 意識が遠のく前に集中する。

 手のサイズは大きいな、関節が骨張っていて、細長い指が安易に想像できる。しなやかだが、指の腹がざらついている。

 あいつの手じゃないな。

 それならこれは、この手は――


    * * *


 ドタンバタン。

 何かが倒れるような物音がして、茉結華まゆかはパチリと目を覚ました。幸い、外し忘れたコンタクトレンズが眼球の裏側に行くこともなく、すぐにピントが合う。

 視界の先にはわたるがいた。床に膝を付けて、背中を丸めて何かを見ている。血走った眼で、両腕を下に伸ばしている。茉結華はそれだけで異常事態だと気づいたが、寝起きで理解が追いつかない。

 渉の腕にはもう一人分の手が添えられていた。

 彼の下には苦しげに爪を立て、泡を吹いているルイスの姿が。


「な――何……やってんのっ!」


 脊髄反射のごとく茉結華は飛び起きる。その声にも渉は微動だにしない。馬乗りでルイスを睨み続け、一心不乱に首を絞める。あるいは、聞こえていない、か。

 引き剥がそうとし、茉結華は渉を後ろから羽交い締めにした。渉は暴れることなくされるがまま、勢い余った茉結華と一緒に尻餅をつく。


「ゲホッゲホッ」


 解放されたルイスは喉を押さえて激しく咳き込んだ。真っ赤になった首元には渉の指の跡が白くくっきりと残っている。赤縁眼鏡の奥には涙が溜まっていた。


(何があったの……)


 視界に対する驚愕が大きすぎて尋ねる気になれない。まずはルイスに向けて心配を口にするべきか――

 困惑する茉結華に呼応するように渉が喉を唸らせる。


「…………した」

「え?」

「俺のこと、殺そうとした」


 ゴクリ。唾を飲んだのは茉結華だった。

 ――殺そうとした? ルイスさんが、渉くんを?

 茉結華がそちらを見やると、視線を結んだルイスが緩慢に首を振った。


「ち、違う。首の冷却シートを替えようとしたんだ。そうしたら、急に彼が……」

「どうして替えようとしたの?」


 茉結華はあくまで落ち着いた声色で鋭く訊き返す。


「……茉結華の負担を少しでも減らせればいいと思って」

「嘘だ」


 渉はルイスの言葉を遮り、


「嘘をつくな」


 繰り返す渉は激情に任せて怒り狂うこともなく、ただ、殺気に満ちている。全身の毛が逆立つような空気を放っている。だ。


「と、とりあえず二人とも落ち着いてよ……。ルイスさん、渉くんのことは私がやるから大丈夫だよ」


 ルイスの瞳がさざなみのように揺れた。傷付いたのか、それでも茉結華は『ありがとうね』とは言わなかった。

 ルイスのご機嫌取りのためだけに言ってやる筋合いはない。褒めるべきことではない。

 ――こんな状況、まったくありがたくない。

 腕のなかでは渉が力むのを感じた。お前の世話になってたまるか、という反抗心だろうか。しかし暴れるような真似はせず、すっぽりと両脚の間に収まっている。


「そうだね……勝手な真似をした僕が悪かったよ」


 ルイスはずれ落ちた眼鏡を直し、ふらふらと立ち上がると、遠回りに横を通り過ぎ、ぱたりと部屋を出ていった。

 その背中を見届けて、茉結華はため息をついた。


(参ったなあ)


 彼と渉を天秤にかけた際、『茉結華』ならルイスを選ばなくてはいけない。それが仲間内というものであり、立場上そうなることは必然だ。渉は仲間でもなければ友達でもないのだから、いくら放っておいても構わない。それは茉結華が考慮するべきことではない、と――嫌というほど念じてきたことじゃないか。大丈夫、ブレはない。


 自分にとって痛手なのはルイスの信頼を失うことである。特に渉のことで、これ以上喪失するのは以ての外だ。

 じゃあ、なぜ――

 なぜ早急に殺さない?

 ルイスはそう訴えているのだ。早くそいつを殺してくれ。きみに彼を殺す覚悟は本当にあるのか、と。


 はあ……。茉結華がもう一度嘆息すると、渉の力も抜けていった。首ががくんと後ろに倒れ、茉結華の肩に乗る。その意外な反応に茉結華は目をしばたたかせ、羽交い締めしていた腕をそっと下ろし、渉の胸の前に組んだ。

 渉は目を閉じて無言で身体を委ねてくる。大きなペットに甘えられているような気がしないでもない。お前も大変だな、と励ましているのか。――それは都合のよすぎる解釈か。


(首の後ろ……噛んだはずなのに痛くないのかな)


 渉の横顔を見てそんなことを思っていると、不意に瞳が開いた。


「なんでまたこの部屋にいるんだ」

「……なんでって」


 言われても。

 あの秘密の監禁部屋のほうがよかったとでもいうのか。答えあぐねていると、じろりと渉が顔を向けた。茉結華は一瞥して答える。


「怪我の具合をタジローに見せてたんだよ。ここのほうが手当もしやすいしね」


 そう言って、そっぽを向いた。

 監禁者である自分がわざわざ手当をしている。すでに渉にバレていることだが、口にするのは少々気が滅入る。また殺す気がないと思われたくない。舐められたくない。


「どいつもこいつも、揃いも揃って犯罪者か」

「さあね。タジローは渉くんも尊敬する人物だと思うけど」

「馬鹿言うな」


 渉は吐息混じりにぼやいた。

 茉結華の父である『タジロー』は、眠っていた渉を軽く診察して仕事に戻っていった。覚えていないのだから、渉は顔も見てないだろう。

 茉結華はふふっと笑みをこぼす。

 ――なんだ、いつもの渉くんだ。


「今何時だろうね。もう少し寝てる?」


 抱き締める手に力を加えながら尋ねる。茉結華が揺りかごのように左右に揺れても、渉は「んんー」と思案する喉を鳴らすだけだった。麻酔が効いているらしく、身体に痛みはないらしい。いつもみたいに鬱陶しがってくれないのか、それはそれで心地いい。

 でもちょっぴりいたずらしたいな、ほっぺにチューしちゃおうかな。わずかな隙間に入りこんだ悪戯を転がしていると、渉の問いが別の角度からやってきた。


「ここに来て、どれだけ経ったっけ」

「もうすぐ二週間じゃない?」

「俺が脱走したのは……?」


 渉は瞳をまっすぐに向けて、茉結華を見つめ返した。


「昨日でしょ? 寝ぼけてるの?」

「……二ヶ月くらい、前に感じる」


 その言葉に、胸の奥がちりと焦げついた。

 ――二ヶ月前に感じる……?

 人間の脳はそんな単純に誤魔化しきれない。それは茉結華自身がよく知っていることだ。狂うに狂いきれていない自分自身が、一番よく知っている。

 ただし、頭をぶつけない限りは。


「ほら渉くん、しっかり」


 茉結華は渉の首を起こして後頭部に手をやった。拍子に、


「痛い……っ」


 渉は呻き声上げて茉結華の手を払った。その反応だけで十分、茉結華のなかでひとつの可能性が浮上する。


「渉くん地下室で頭ぶつけた? いやこれは例えじゃなくてね、マジでね」

「ああ……階段から、落ちたな」

「吐き気や頭痛は、ない?」

「……ない」


 渉は探るような目つきで首を振った。

 頭を強くぶつけると頭痛や、酷い場合は嘔吐を引き起こすことがある。記憶が飛ぶことも、前後することも。学校で頭をぶつけた生徒が必ず病院へ連れて行かれるのはこのためだ。どんなに些細な怪我でも、ぶつけどころが頭となれば話は大きく変わる。それくらい、脳へのダメージは慎重に扱わねばならない。

 記憶が前後しているとなれば、今の渉の平静な態度にも納得がいく。昨夜はあんなに反抗的で暴れ散らしていたのに、慣れ親しみすぎている。


(後頭部か……気づいていればタジローに診せたのに)


 骨折と捻挫ばかりに目が行っていた。少し触れただけでは腫れているかもわからないが、昨夜の時点でぶつけたことを知っていれば冷やすこともできたはず。


(大丈夫、かな)


 ふとした考えに茉結華の心臓はドクンと脈を打つ。

 ――大丈夫って何が?


「あのさ」


 呆けていると忽然、渉が口を開いた。布団の上であぐらをかいて、手錠の鎖を人差し指で遊ばせながら。


「お前って、誰かに――俺に――助けを求めたことあるの?」


 何を突然言い出したかと思えば、そんな、

 助け。人助け。

 助けて――

 紛れもなく茉結華自身が口にしたこと。炎天下、真夏の公園。走馬灯のようによぎったあの子の笑顔。

 茉結華の瞳孔が小さくなっていると、渉は人差し指を一時停止させて、「答えてくれないならいいよ」と言った。現実に引き戻されて茉結華は渉の顔を見た。


「話したところで、覚えてないでしょ」


 冷たく言い放った――答えたようなものだった。

 渉はそっか、と言い、


「そんな前から、信用されてなかったんだな」


 淡白に呟く渉の表情には自嘲がはらんでいた。

 不意に見せる弱々しい笑み。茉結華の苦手な表情だ。


「信用って……逃げ出したくせに。信用も何もないでしょ?」


 違う、そんなことが言いたいわけじゃないのに、泥のような言葉が溢れる。

 渉は、体感的には二ヶ月前らしい昨夜の出来事とそのとき放った言葉を思い出してこんな話をしているのだろう。別に、昔のことを覚えているわけではない。

『たすけて』

 渉のあれは、響弥きょうやに言った言葉だ。決して、この茉結華に対してじゃ、ない。

 だけど、俺はお前のことを信用している、だから助けを求めた――とでも言いたいのだろうか。仮に信用されたところで、『茉結華』の心は揺らがないというのに。


 沈黙の時間、茉結華の胸にぽっかりと開いて塞がることのない穴に、ひゅうひゅうと風が吹く。その冷たさに心と肌を許していると、渉がふらりと立ち上がった。挫いた足のことも忘れているのか、崩しかけた姿勢を茉結華は咄嗟に支える。


「……トイレ」

「あ、うん」


 防音室のトイレに向けて茉結華も一緒に歩を進める。ふたりを繋ぐ鎖が奏でる静かな音のなか、


「響弥に、会いたいな」


 風のように渉は言った。その意味を考える間もなく、「駄目だよ」

 茉結華は答える。


「響弥は、渉くんのこと、助けようとするからね」


 その事実が自分のなかでセーブになっていることを認めずに、他人事のようにうそぶく。

 絞首しようとした渉。急に大人しくなった渉。親友を求める渉。それが土曜日の朝に見た渉の姿だった。

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