眠くなってきちゃった

 地下での一悶着の後、茉結華は気を失った渉を抱えて洗面所へ転がり込み、汚れたバスタオルを剥ぎ取って身体のあらゆるものを拭き取った。

 頭から爪先まで氷のように冷たくなった渉は、浅い呼吸を繰り返している。熱があるにも関わらず、あんな場所に濡れたまま、しかもタオル一枚でいたのだ。無謀過ぎるというものだろう。茉結華でさえ、いつもは厚着で向かうというのに。


 下着を着せて防音室へ連れていき、身体を毛布でくるんで消毒液と軟膏で手当する。出血しているこめかみにはガーゼを当てて、首には冷却シートを貼った。捻挫した足にはテーピングを、折れた鎖骨には局所麻酔薬を打つ。――打ち方は昨夜、渉の入浴中に帰ってきたタジローから会得していた。

 タジローは仕事柄、たまにしか帰ってこない。帰ってきても夜遅く、すぐに仕事に戻ってしまうのだ。最近は特に忙しいようだが、でも茉結華が頼み事をした日には必ず帰ってきてくれる――自慢の父親だ。


 服を着せて髪の毛を乾かし終える頃には、二十三時を回っていた。

 茉結華は自分の着替えも含めて一度洗面所へ行ったあと、リビングでご褒美のショートケーキを食べてから防音室へと戻った。タジローが言っていた土産のケーキである。

 防音室の扉を四回ノックすると、なかから鍵の開く音がしてルイスが顔を覗かせた。茉結華は「歯磨きしてきた」と言ってニッと笑う。寝る準備を済ませ、枕を自室から持ってきたところだ。

 頷いて席に戻ろうとするルイスを、「待ってルイスさん」と茉結華は呼び止める。


「動かないでね」


 茉結華はルイスの口元に付いていた生クリームを指で掬い取り、「はい」と言って見せた。彼も茉結華と同じように土産のケーキを防音室で食べていたのだ。

 捜索のさなかに一階へ戻った時、合流したルイスは「見てここ、濡れてない?」と地下への収納口を指摘した。なかの階段はわずかに濡れており、茉結華はルイスに玄関を任せてそのまま地下へ。

 そして渉を発見した。――迷子になったペットを見つけた飼い主ってこんな気持ちなのかな。渉くん、ここは入っちゃダメでしょ?


「あ、ありがとう」と頬を指で掻くルイスに、茉結華は「舐めないの?」と切り込む。


「えっ」

「だって私、歯磨きしちゃったし」


 クリームの付いた人差し指を突き出す茉結華に、その意味を悟ったルイスは余計に慌てた。

 茉結華はくすりと笑って、「冗談だよ。ティッシュちょうだい」と、本当はご褒美をあげるつもりだったけれど、反応がいじらしかったのでやめにする。

 ルイスは顔を真っ赤にし、テーブルからティッシュを三枚も取って茉結華に渡した。そのまま機器いじりへと戻っていく――怒っているというよりは恥ずかしがっているようなので取り繕う必要はないだろう。


 部屋の中央には、敷かれた布団の上で渉が眠っていた。朝まで起きることはないと思うが、ルイスには念のためスタンガンを持たせている。隠し部屋ではなくここで寝かせているのは、何かあったときにすぐ対処できるように、つまり念のためである。


(……今日は私も疲れちゃったな)


 茉結華がふわりとあくびをすると、モニターの隅からルイスが呼んだ。眠る前に話しておくほど重要な内容なのか、茉結華は眠たげな瞳を「んー?」と向ける。


「掲示板じゃお祓いするべきだって声が何件か上がってるよ。明日の保護者集会で言い出す親も出るんじゃないかな」


 断言はできないけど……と言うルイスの話しぶりは言葉に反して明るい。茉結華は「おおー」と感嘆の声を漏らした。


「小坂社長の訴えが効いたのかな。トワちゃんに連絡は?」

「うん、してある。いつでもいいように仕上げてるって」

「……そっか」


 呆気なかったな、と言いかけて茉結華は口をつぐんだ。

 ――お前は呪われている、汚えガキだ。殺して稼ぐか、売りして稼ぐか、どっちが自分に向いているか、汚いお前はわかってるだろう。それとも臓器まで売られたいか。

 そんな、あの男の言葉を思い出し、歯噛みする。


(わかってるよ。だけどねこれは、自分のためじゃない。凛ちゃんのため……凛ちゃんのせい)


 茉結華はしらないあのひとに答える。


「もうすぐ終わるね」


 そしてルイスに向き直ると、茉結華は改まった口調になった。


「私とタジローだけじゃ、こんなに大きく動けなかったろうし、ここまで短期間で進めたのもルイスさんのおかげなんだ」


 ありがとね、とどこか他人行儀な茉結華に対し、ルイスはレンズの奥の目を見開く。


「この感じはさ、遊園地のジェットコースターみたいなものなんだよ。並んでる時間はすごく長いのに、乗っちゃうとあっという間に終わる。その終わりが、もうすぐなんだ」


 茉結華は脇に抱えていた枕を胸の前でぎゅっと抱いた。例え話なんて、柄でもない。


「ごめんね、変な話しちゃったね」

「茉結華はひとりじゃないよ、僕がいる」


 ルイスは跳ねるように席を立ち、茉結華の両肩に手を添えた。


「終わるときだけじゃなくて、これから先は、僕が隣に並んでる」


 曇りなき眼が茉結華を射る。見つめ返すと、ルイスの表情も綻んで――だが、その続きを口にする手前、瞳に陰りが生じていく。


「それにまだ――終わってないこともある」


 そう視線を逸らすルイスの目が語る矛先は、茉結華の右後ろで眠り続けている、渉に向けてのものだった。

 茉結華は緩みかけた頬を引き締め、瞬きで頷く。


「そうだね。まあ、タジローがうまくやってくれると思うけどぉ……眠くなってきちゃった」


 再度ふわふわとあくびをし「もう寝るね」と呟いた。ルイスはまだ起きて作業をするのだろう、「おやすみ」と返して席へと戻っていく。

 ――ルイスさんって、ホント渉くんのこと嫌いだよね。

 むしろ好きなんじゃないかと疑ってしまうほどに、嫌悪感が溢れている。


 すでに渉の隣にはもうひとつ布団が敷いてあった。むろん、茉結華の分である。短時間ならともかく、朝まで畳の上で眠りたくはない。どうせルイスはほかの部屋で眠るので、茉結華は遠慮なく先に休むとしよう。

 すやすやと寝息を立てている渉の横で、茉結華は鎖の長い手錠をポケットから取り出した。渉の左手と自分の右手に輪っかを掛けて、本日二度目の繋ぎを生む。

 寝苦しいはずなのに――繋いでいたほうが安心するなんて、おかしな話だ。


 茉結華はごろんと横になり、右隣で眠る渉に顔を向けた。

 ――おやすみ、渉くん。

 心のなかで呟いて、瞳を閉じる。

 オレンジ色の豆電球に照らされるふたりを一瞥して、ルイスはディスプレイの影から人知れず奥歯を噛んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る