闇からの奇襲に、渉は口から心臓が飛び出そうになった。口を塞いでいた左手はいとも容易く剥ぎ取られて後ろ手に回される。抵抗しようと仰け反った背中を強く押され、上半身は室外機の上に倒れた。


「く、うぅ!」


 低く唸りながら脚をばたつかせるも、膝と爪先が室外機に当たるばかりで蹴り上げることはできない。骨折をしている右肩に重心はかけられまいと姿勢をを浮かせれば、挫いた左足首がよりいっそう軋みをあげた。

 相手は渉の動きをさらに封じようと、両脚の間を割る。渉は顔を横にして息をした。


(落ち着け落ち着け落ち着け。こんなところで捕まってたまるか。こんなところで……)


 背中にかかる体重は左手を押さえ込むばかりで、右腕には触れてこない。骨折しているから動かせないとでも思っているのか? 冗談じゃない。

 渉は右手で握り拳を作った。骨の痛みを我慢してでも振るうしかない。


(くそ……っ)


 狙いを定めようと後ろを盗み見るも、そこにあるのは姿の見えない暗闇だけ。何もない場所から人の手が伸びて、自分を圧しようと企んでいる。茉結華の空いた右手はどうなっているのだろう。どうして殴りつけてこないんだ。

 渉は急に、おぞましい考えを生み出した。

 ――本当にそこに、茉結華はいるのか……?


 そんな、恐怖にも近い妄想がよぎったとき、渉の浮かせた肩の隙間に冷たい指の感触がスルリと入りこんだ。バスタオルのなかを潜って進む、見えない右手と指先。右の鎖骨に優しく触れると、腫れた箇所をぐんっ……と。


「あっ、ああぁぁああああ――――っ!」


 折れた鎖骨を押し潰され、渉は絶叫した。

 身体の一番触れられたくない部分を指の腹でこねくり回され、甲走った痛みに視界が真っ赤に染まる。逃れ出ようと本能が全身に指令を送るが、上体は天板とこすれただけでびくともしなかった。振るおうとしていた右腕はすっかり麻痺して動かない。

 ――痛いっ! 熱い! 痛い、痛い痛い痛いぃっ!

 狂った叫び声を上げながら、渉はがむしゃらに身をよじる。脚も肩も室外機にガンガンとぶつけ、乱れた呼吸と濁音混じりの悲鳴が喉を焼いた。


 だけど暗闇は許しちゃくれない。

 右半身の痛みに喘いでいると、今度はうなじに爪を立てられた。否、両手は使われているため、これは歯だ。渉は相手の吐息が首の後ろまで迫ったことを、うなじを噛まれるまで気づかなかった。食い込んだ歯が首の皮をギチギチと破る。


「う、あぁ、……い、たい……痛い、ぃ」


 渉はすすり泣くような上擦った声を上げた。半開きの唇から溢れた唾液が、頬と天板を濡らしていく。頭に血が上っているせいか、それとも熱のせいか、額がやけに熱く感じた。叫び疲れた喉は呼吸に合わせてひくついている。茉結華は何も答えない。

 吐きそうになって目を瞑ると、少しだけ痛みが遠ざかった気がした。もとい鎖骨から指は離され、うなじにまとわりついていた感触もなくなったのだけれど、鈍りきった感覚では痛みの差も感じ取れない。左腕はまだ掴まれたまま。


(なんで、何も、喋らないんだよ……。そこにいるなら、何か言えよ……)


 背後に潜む茉結華は依然として無言を貫いている。目に見えない、存在感が感じられない、寒さで麻痺した鼻孔では匂いだって嗅ぎ取れない。まるで暗闇そのものと戦っているみたいだった。

 放心状態の渉の腰に、暗闇から手が伸びる。曲線を確かめるように這うその手は徐々に下へと向かい、太腿を緩く撫で上げた。手のひらの生温かさに渉はぶるりと身を震わせる。


 これ以上何をしようというのか。薄っすら浮かんだ疑念と共に、渉はこの状況に既視感を覚えた。

 大蛇が這うような手の感触、指遣い、爪先の間や骨ばったところまで隅々洗われた――茉結華との入浴。

 ――ああ、これは確かに茉結華の手だ。だけど、なぜ何も話さない。

 思考が恐怖と寂寥を呼び寄せる。太腿を撫でる手はバスタオルの端でぴたりと止まり、今度は耳殻に息がかかった。そして、



 慈しむような囁き声に、ビクリと渉の肩が弾んだ。暗順応で開いていた瞳孔が、さらに大きく広がる。

 その声は、その呼び方は――


「渉」

「っ――!」


 喉奥を空気でひゅっと鳴らし、渉は無意識に呼吸を止めた。心臓の鼓動が地響きみたいに聞こえて。

 目の前に、闇色の髪をした親友が現れた。

 ドッ――ドッ――ドッ――ドッ――

 警報が鳴っている。駄目だ、聞くな、これ以上、彼の言葉を聞いちゃいけない。頭では理解しても、渉は自分で耳を塞ぐことができない。

 親友はふわりと微笑んだ。


「渉、会いたかったよ」

「あ――あ、あ…………ああぁ」


 ――響弥。

 一度侵入を許してしまった声はすんなりと心の奥まで這入っていく。張りつめていた感情がくしゃりと崩れ、ぐずぐずになって溶けていく。

 ――響弥。響弥。響弥……。俺の、ただひとりの、親友。

 ずっと会いたくて、謝りたかった。気づいてやれなくて、ごめん――って。


「は……あ、ぅ……う、うぅ」


 言いたい。響弥に、ごめんって謝りたい。けれど、

 速まる鼓動に合わせて、渉は冷たい空気を何度も吸い込む。身体の震えを治めようと、右手をぎゅっと握る。悴んだ手は指先まで感覚がなかった。

 歯が噛み合わない、うまく息が吐けない、言葉が出てこない。――きっと、寒さのせいだ。


「渉?」


 目の前の親友が不安そうに瞼を上下する。

 ――早く言わなきゃ……早く、ごめんって、響弥に……。

 いくら思考しても身体は追いつかず、渉の口から漏れたのは通常より遥かに速い呼吸音。運動した後の犬みたいな息遣い。

 目の焦点が合わなくなり、視界が二重にも三重にもなる。丸めた手に、力が入らなくなる。


「はあっ――あ、あ――あぁ」

「渉」


 落ち着いて。そう言って暗闇は、渉の背中を撫でた。その感覚は酷く曖昧で、もう身体のどこを触られているのか渉にはわからない。全身が凍ててしまっている。

 渉は唇の端から流れっぱなしの唾液を飲み込んだ。吸う息ばかりが増え、喉を一方的につまらせる。


「……う、」


 霞がかった視界が灰色になる。「渉?」と、呼ぶ声が遠くに聞こえた。こういうとき、どうすればいいんだっけと、渉は呻きながら考えた。


(深呼吸……。そうだ、深呼吸、しないと)


 吸って、吐いて……吸って、吐く。


(違う。そうじゃ、なくて)


「きょ――や」


 いつもはできないことが、

 今だけ――今だけだから、だから、

 渉は、彼にそれを求めた。


「……たす、けて」


 その瞬間、茉結華の右手が迷いなく伸びて、渉の口元を包み込んだ。

 手のひらに、唇に、互いの温度が混ざり合う。しなやかな指の間にじわりと唾液が流れ込む。

 あまりに一瞬の出来事に、渉は何をされているのか理解できなかった。だが口元を塞がれても嫌な気はせず、むしろその手のひらの柔さと温もりに安心感を覚える。

 そしてまた、汚してしまったと思った。あのときみたいに。


 気づくと渉の呼吸は平常なリズムに戻っていた。茉結華の手のひらに空気を吸う量を制限され、自然と息が吐けるようになっていた。

 渉が落ち着いたのを見届けて、茉結華が手を離したそのとき、世界がパッと白くなる。突然フラッシュを焚かれたみたいに目の前がチカチカと瞬き、渉は反射的に目を瞑った。

 瞼の裏が赤く透けて見えて、明かりが点いたのだと認識する前にゆっくりと瞳を開ける。視界に入ったのはセメント色をした床。


「茉結華?」


 その向かいから、昨夜聞いたばかりの知らない男の声がした。

 階段の下から三段目のところに、誰かが立っている。着ているのはスーツだろうか、足元しか見えないが、それでもかなり体格がいいとわかる。


「こんなところで何してるんだ?」

「……お仕置き」


 茉結華はため息を混ぜて、不貞腐れたみたいに答えた。


「いいところだったのに、邪魔しないでよ、タジロー」


 そう言うと、茉結華は続けざまに吐息を降らす。


(……タジロー……?)


 渉は茉結華から聞いたあだ名を思い返す。確か、茉結華の父親――?


「そこは寒いだろう、上で遊びなさい。土産にケーキもあるぞ」

「わかったよ」


 渋い声で言って、男は軽い足取りで階段を上っていった。階段の壁に照明のスイッチがあったのか、地下の明かりを点けたのは彼のようだ。


「さてと」


 姿勢を正した茉結華は渉の左手をようやく離すと、二の腕を掴んで引っ張り起こした。そのまま床めがけてぶんと放る。

 べしゃりと地べたに倒れ込んだ渉は放心したまま上体を起こし、自身の両脚を目にした。左の足首は捻挫でぷっくりと腫れ、膝からは血が垂れている。紺色だったバスタオルは砂埃でまだら模様になっていた。


「寒いね、渉くん」


 その声に顔を上げると、そこにはいつもと変わらない、半袖半パン姿の茉結華が。自分と同じように白い息を吐き、頬と鼻は悴んで真っ赤になっている。

 茉結華はずずずと鼻をすすると、「えへへ」と笑いながら両腕を擦った。手足に目立った傷はないが、顔色と同じく赤くなっている。

 渉は辺りを見渡した。広いように思えた地下室は、意外とこぢんまりしている。壁沿いには室外機が四台と、隅には古い空箱が積まれていた。背後には奥へと続く扉があり、この部屋自体は簡素なものだった。


(……響弥は……?)


 問おうとした矢先、茉結華の片頬が吊り上がる。


「なぁに、渉くん。私のこと響弥だと思ったの? 呼び捨てにされてドキドキしちゃったの? 嬉しくて、過呼吸起こしちゃったの?」


 渉は重たい瞼をぱちぱちと瞬かせた。ぽかんと開いた口は塞がらない。もう、塞いでくれる者はいない。

 茉結華はニマニマと笑いながら、響弥と同じ声帯で口にする。


「『渉』なんてさ、別に響弥に限った話でもないし、いずれ凛ちゃんだってそう呼ぶでしょ? それとも『パパ』が先かな。なら別に、私が呼んでもいいじゃん」

「……響弥は――」

「渉くん」


 渉の言葉を遮り、茉結華は白い息を吐く。


「謝らなくてもいいよ。地下に入ったことも逃げ出したことも、私を騙したことも。渉くんにはする権利があるからね。それについてはもう怒ってない。けどさぁ、返事くらいしてよ。私、無視されるの嫌いなんだよ? 渉くんも嫌でしょ、無視されるの」


 凡人以上に夜目が利く茉結華にとって、相手が暗闇に逃げ込んだ時点でかくれんぼにもならない。茉結華には最初から最後まで、何もかもが見えていた。渉が地下に入ったところで、負けは決まっていた。

 だから茉結華は『出ておいで』と嘘を言うのではなく、敢えて『返事をして』と訊いたのだ。渉のことを、試すために。

 遅かれ早かれ、気づいたところでゲームオーバー。茉結華の性質を忘れていた渉のミスだ。


「わかればいいよ。私もそれ以上責めたりしないから」


 茉結華は一歩踏み出した。そして、渉は座ったままじりと後退する。

「渉くん?」と茉結華は笑みを薄くし尋ねた。


「……俺は、戻らない。絶対に、戻らない」

「何言ってるの、そんな格好で。ここは寒いよ」


 そう言って苦笑し、また一歩渉に近付く。

 渉はなおも後退した。


「あの部屋にいるよりマシだ」

「そんなことない。私だって寒い」

「お前といるよりマシなんだよ……!」


 ぎらついた目で渉は吠える。身体は怯えた子犬のようにぶるぶると震わせているのに、茉結華を見つめる顔つきは狂犬みたいだ。

 茉結華はムッと唇を歪めて、しかし諭すような言葉を紡ぐ。


「言っとくけど、その先は鍵がかかってて進めないよ。どのみち上に戻るしかないと思うけど」

「だったら、俺を置いて、ひとりで勝手に行けばいいだろ!」


 それ以上近付くなと言わんばかりに、振った左腕が空を切る。


「もう、放っといてくれよ……! どうせ、俺の言葉は……お前には届かないんだから!」


 ドンッと背中がドアにぶつかった。渉は息を切らせて、ドア越しの冷気に身を預ける。

 どうせ伝わらない。どうせ届かない。心のなかまでじわじわと冷えていく。


「そんなの今にはじまったことじゃないでしょ? 渉くんってば、まだお泊り会だと思ってるんだ、聞いて呆れるよ」


 茉結華は目の前でしゃがみ込んだ。突き飛ばそうと反射的に上げた渉の左手を、茉結華はパシッと片手で掴み取る。そのまま壁に押し付けて、たおやかに目を細めた。


「血と汗でベタベタだね。私が本物の人殺しになって、怖くなっちゃった? それってどれくらい怖い? オシッコ漏れちゃうくらい?」

「っ……怖くなんて、」

「知ってるよ。渉くん、本当は私のこと大好きだもんね。好感度百なんだもんね。だから、私が人を殺しても――渉くんは嫌いになんかなれない」


 渉はカッと目の奥が熱くなるのを感じて視線を下げた。否定の言葉が出てこなくて、腕だけで抵抗してみるも、茉結華に掴まれていてはろくに動けない。ほくそ笑んだ茉結華の吐息が額に当たった。

 茉結華は、汗と唾液まみれの渉の頬に手をやり、顎まで指を伝わせて上に持ち上げる。


「優しくて愚かな渉くん。知ってた? 渉くんが目を逸らすのは、図星のときなの。知らなかったでしょ、私が知ってるってこと」

「っ…………」


 満足気に、にこりと茉結華は微笑む。

 渉は泣くのをこらえるみたいに唇を結んだ。歯が口内でカチカチと音を立てる。涙の代わりに額から伝った汗が目に染みて瞳を閉じると、茉結華の親指がつっと目尻を撫でた。震えていた左手がゆるゆると力を失い、落ちていく。


「帰ろう? 風邪引いちゃう」


 茉結華は渉を抱き上げようと左肩に手を回した。――――渉は後ろを振り返る。


「……今」


 背後の扉の向こうから、誰かの声が聞こえた。茉結華でも自分の声でもない、


「助けてって……女の子の声が――っ」


 渉がその先を言う前に、喉元に茉結華の手刀が打たれる。かふっ……と短い息を吐き、うなだれた渉の身体を茉結華は抱き止めた。


「いないよ」


 誰もいない。耳元で呟いた茉結華の声はノイズがかかったようにしわがれていた。呼吸困難で痙攣し続ける渉の身体を抱えて、茉結華は階段を上っていく。

 少女の声はもう届かない。

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