もう許さない
急勾配な階段を一段ずつ、足を揃えて下りていく。階段の表面は三段目まで板が張られていて、以降はセメント状が剥き出しとなっていた。コンクリートの冷えた感触が渉の足裏を驚かせる。
六段ほど下りたとき、背後からギイイと甲高い音がした。振り返ると、収納口の光がシャットアウトされていく。ルイスが閉めたとしか考えられないが、茉結華にバレるよりはマシである、とポジティブに捉えるべきか。
明かりの一切がなくなると、途端に不安感が増した。渉は骨折の痛みを我慢しながら、肩からバスタオルがずり落ちないように端をきつく結んだ。真っ暗闇のなか、左手を壁に這わせながら、急な階段を慎重に下りていく。
響弥の家には中学の頃、何度か訪れたことがあった。と言っても渉は玄関先で彼が出てくるのを待っているか、招かれたとしても玄関までだったが。出かける先は大抵、カラオケかショッピングモールか渉の家。だから響弥の家がこんなに広いとは思わなかったし、知る由もないことだ。
(とにかく今は、あの人の言葉を信じて進むしかないよな……)
この先に千里が――いや、千里じゃなかったとしてもだ。その子を救い出せるのは自分しかいない。半ばルイスに騙されている気がしないでもないが、あの場で茉結華を呼ばれるほうが渉にとっては大問題である。
先の見えない階段を下りていくにつれて、冬場のような冷気が渉の身を襲った。全身が濡れているからか? しかし吐く息が白く見えている。意図的に室温が下げられているのだ――いったい何のために?
考える時間は与えられず、あっという間に足先の感覚がなくなった。右の鎖骨周りは酷く熱を帯びているのに、身体は寒さを訴えて小刻みに震える。
「っ、寒い……」
咄嗟に左手をバスタオルのなかに引っ込めると、氷のように冷え切った手が幾分か安まった。こたつのなかに手を入れたみたいな心地になって、悴んだ足をまた一歩下ろしたそのとき。
見えない視界がぐらついた。
足を踏み外したのだと理解するよりも先に、右のこめかみに硬い何かがぶつかる。衝撃は右半身に響き、渉の身体は宙へと投げ出されていた。左手で自身を庇う前に、後頭部と背中に痛みと衝撃とが走る。
「う……」
いつの間にか全身が冷たい床へと叩きつけられていて、渉は仰向けになったまま低く呻いた。右のこめかみから熱い汗が流れる。足を踏み外し、壁に肩と頭をぶつけたらしい。疲労と鈍痛が身体中を巡り、コンクリートの冷たさも痛みに変わる。まるで裸で雪の上に寝転がっているみたいだ。
渉は不規則な呼吸を整えようと冷たい空気を吸い込んだ。暗闇のなかで「ちー、ちゃん」と、呟いた自分の吐息だけが、白く薄っすらと見えた。それに呼応するかのように、茉結華が「渉くん」と――
聞こえたのは足先が向いている方向、階段上からだった。幻聴ではないその声に、渉の意識は一息に覚まされる。続いて聞こえたのは階段を下りてくる足音。床と一体化した自身の心音が耳にこだました。茉結華が、地下へと下りてくる。
(くそ……)
悪態を噛み砕き、這うようにして身体をひねり起こした。ルイスが茉結華に教えたのか、それとも消去法で残るはここだと判断したのか。まだろくに散策もできていないというのに、渉は警戒心を強めるしかなかった。
ふらつきながら立ち上がると、左足首に鋭い痛みを感じた。先ほど落ちたときに挫いたようだ。熱で視界がぐにゃぐにゃと揺れ、喉の奥は冷気にやられてヒリヒリと痛んだ。乾いた口内には血の味が広がっている。吐き気を催して、唾液を無理くり飲み込んだ。
渉は左足を引きずりながら壁伝いに奥へと進む。自分がどちらに向かっているかも見当がつかないが進むしかない。
照明のスイッチはないだろうかと手探りするも、指先に当たるのは冷え冷えとしたコンクリートの感触のみ。しかしあったとしても、明かりを点けることはできないだろう。そんなことをすれば、見つけてくださいと言っているようなものだ。
壁の隅まで辿り着き、方向転換した矢先、爪先にゴンッと硬い衝撃がぶつかった。何かと思って触れてみると、膝上まである箱型の機器のよう。
(冷房の室外機か……?)
さらに奥の壁には、消しゴムほどの小さな赤ランプが点灯していた。明かりは決して広範囲ではない。けれど渉は、そこに扉があることを悟る。
――あの奥にちーちゃんが、と思考を固めるより先に、
「渉くん、いるんでしょ? 返事して」
渉くん。
抑揚のない茉結華の声が響き渡った。渉は反射的に口元を押さえる。距離にして数メートル――あの暗闇のなかに、茉結華がいる。
「今返事をすれば怒らないからさ……ねえ、返事して、渉くん」
繰り返し言う茉結華の声色は、疲れ切っているように感じた。渉はランプを一瞥し、どうしようかと考える。
(あの奥に、ちーちゃんがいる……けど、今は)
すぐ近くに茉結華がいる以上、今扉に向かうのは危険過ぎる。彼を先に通して引き返してくるのを待つか、とにかくここはやり過ごしたほうがいい。
渉は室外機の横に立って身を預けた。一度座ってしまうと立ち上がるのが困難になると思い、片足重心で息を潜める。階段下に隠れていたときよりも遥かに速い速度で鼓動が動いていた。
(大丈夫だ。音さえ立てなければ、こんな暗闇で見つかるわけがない)
口を押さえる左手の隙間から白い吐息が漏れているが、これも近くで見なければわからない。大丈夫だ、わかりっこない。
「渉くん」
続けざまに聞こえる茉結華の声。髪の毛先から垂れるしずくの熱を感じながら、渉は息を殺し続けた。
身も心も震えて止まない真っ暗闇の視界のなか、
「もう許さない」
その一言、その低い声が、妙に大きく耳朶を打った。
それを最後に、辺りに静寂が訪れる。
(行ったか……? いや、まだ扉を開ける音は聞こえていない)
茉結華はまだ、この部屋のどこかにいる。だが不思議と気配は感じられず、声も物音も聞こえてこない。その静けさがかえって不気味に思えて――渉は茉結華の言葉を思い出した。
薄暗い部屋で課題を片付けていたときに放った、あの言葉だ。
『私はよく見えるよ』
――私はよく見える。
嘘だと思っていた言葉を頭のなかで復唱すると、脳にチクリと電流のようなものが走った。
茉結華は幼少期の頃、押入れによく閉じ込められていた。押入れのなかは真っ暗闇。
暗闇のなかで、つまらない本を長時間に渡って読まされた。ナイフの扱いを、そのなかで覚えた。
よく見える――文字通りの言葉であると理解したときには、もう遅い。
背後から伸びた誰かの黒い手が、渉の左手を捕まえた。
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