一人で逃げるつもりなのかな
渉の意識が戻ったのは、今から二十四時間前のこと。
ぼんやりと瞼を開けると、白い光が目に染みた。正確には、それは光ではなくて湯煙だったが、タイル状の壁が反射していてまるで朝日のようだった。
肌寒さを感じて首を下に向けると、何ひとつまとっていない自分の脚が目に入る。膝の擦り傷には血が滲み、腿やふくらはぎだけでなく身体のあちこちに打撲痕が見られた。何より筋肉が衰えたような気がして、渉はこれが本当に自分の脚かと疑問を抱いた。
次に寝ぼけ眼で目にしたのは、もくもくと湯気を立てる浴槽。首を動かすたびに髪の毛先からはしずくが落ち、おまけに上半身は泡だらけ。渉はようやく状況を理解した。
(風呂……?)
渉は風呂場で一人、丸いバスチェアに座っていた。入浴中に目が覚めてしまったのか、しかし起きたときに生じるあの強烈な吐き気はない。
(あれから、気を失っていたのか……。薬品は、使われていないのか……?)
意識がはっきりしてくると、筋肉が裂けるような痛みが背中に走った。だらりとぶら下がった右腕は、麻酔を打たれたみたいに感覚がない。指先しか動かせないことに気づいた。真っ赤になった誰かの頭部が脳裏に浮かんだ。
口のなかに酸っぱいものがこみ上げたとき、茉結華の声が耳へと這入る。そちらへ目を向けると、閉め切られた扉の向こうに――黒い影がふたつ。
ひとりは茉結華だろう、もう一方は?
第一候補にルイスが挙がったが、相手の体格は彼より大きく見える。それに若い声ではなく、どちらかと言えば渋めの声。会話の内容は聞き取れないが、二人の話し声は明るい。
渉の入浴を投げ出して立ち話をするほど急用だったということか。とにかく今、茉結華は表で話し込んでいる。正面から出ることはできないが、何かやれることはないかと考えた。
浴槽側にある唯一の窓は、磨りガラスから格子が透けて見えていて、外に出るのは無理である。あの向こうに自由があるのだと思うと感慨深いものを感じた。
(何か、できること……何か……)
茉結華が帰ってくる前に仕掛けておけるようなもの。
渉は首をきょろきょろと動かし、ボトル置き場に目を留めた。いくつもあるボトルのなかに、渉が普段家で使っている種類のシャンプーとボディソープがあった。
再度扉に目をやる。茉結華はまだ、立ち話に夢中のようだ。
渉はシャンプーの容器を左手で取って、音を立てないよう注意しつつキャップを開けた。ボトルを逆さまにして、中身をすべて身体に振りかける。空になった容器は蓋を締めて元へと戻し、身体についたシャンプーは泡に混ぜて塗りたくった。
茉結華が空のボトルに気づけば、もしかすると逃げ出せる隙になるかもしれない。渉専用のシャンプーとして分けているのなら、ほかに使う人物はいないだろう。つまり今が駄目でも、明日必ずチャンスは訪れる――
瞳を閉じて待っていると、浴室のドアがガチャリと開いた。心臓の鼓動はこれ以上ないほどうるさい。「じゃあ後でね」と言った茉結華の声が聞こえ、人の気配が近付いてくる。
「あれ?」と茉結華は言った。寝たふりを続ける渉に緊張が走る。
「どこまで洗ったっけ、足だっけ」
茉結華はそう言うと、ボディソープを泡立てて、渉の腿から下を洗いはじめた。上半身が泡だらけだったのは、上から下へと洗っているからだった。
ふわふわとした泡の感触と、茉結華の丁寧な指使いが渉の身に嫌悪感を与える。思わず呻き声を漏らすと「痛かった?」と訊かれた。もちろん渉が答えるはずもなく、茉結華もひとり言を呟いたに過ぎない。
他人に身体を洗われるのが、こんなに苦痛だったなんて。以前茉結華が言っていた、『しないほうが渉くんは苦しいよ』の意味が今わかった。確かにこれは最悪な気分である。強制的に眠らされたほうがだいぶいい。
身体を洗い流した後、傷に湯が染みないように膝を曲げて浴槽に入れられた。髪はもう洗い終わっていたらしく、乾燥の時短のためか、頭にタオルを巻かれる。身体が十分温まったところで抱え上げられて、そのまま浴室の外に出た。
茉結華がシャンプー容器に触れることはなかった。
風呂から出るとすぐさま身体を拭かれ、服を着せられ、スキンケアまで施される。傷や痣には――いつもそうしているのだろうか――おそらくだが軟膏が塗りつけられた。そうして、髪を温風で乾かされている間に、渉は本当に眠ってしまった。
茉結華に叩き起こされたときにはもう朝だった。右肩の痛みは昨夜よりも酷く、折れているのは鎖骨であると知らされる。
渉の体調を窺って、こうして起こしに来たのだろうか。浴室で一度目を覚ましていることを茉結華は知らないのだから、彼にとって渉は今までずっと気を失い続けていたことになる。
それを心配して、無理やり起こしに来たのではないか――そんな考えは、あっさり打ち砕かれた。
校門前で遺体となって発見された。茉結華はそのことを伝えるために、朝早くから来たのである。渉のことを思ってなどいない。ただ二人の死を、嘲笑いに来ただけだった。
二人は死んだのではない、殺されたのだ。ほかの誰でもない――隣で渉の肩を抱き、くつくつと笑っている――茉結華によって。
つい昨日話していた彼が死んだ。送り出した女の子が死んだ。
――一番の親友が人殺しになった。
そう頭のなかで何度も思考したけれど、心は追いついてくれなかった。夢と現実の狭間がぐちゃぐちゃになって溶けていくみたいだった。息を吸って吐くたびに、涙がこぼれ落ちて止まらない。一瞬でも傲慢な自意識を抱いたことが情けなかった。
「……渉くん?」
気づけば茉結華は渉を見て、首を傾げていた。渉はその顔を見られず、言葉もなくうつむく。
――俺がもっとうまく振る舞っていれば。あのときあの子を一人で行かせなければ。朝霧のことを……ちゃんと守ってやれていれば。
――
自責の念に搦め捕られた渉の耳元で、それは違うよと朝霧が言った。あなたのせいじゃないよと小坂が呟いた。その声に小さく反応し、顔を上げて見た二人の姿は血にまみれていた。
茉結華が部屋を去った後、渉は便器に向かって吐いた。身体のなかでは別の生き物が暴れ回り、内側から作り変えようと内壁を抉ってくる。吐瀉物には血が混ざっていた。胃も心も空っぽだ。
胃液と血液の浮かぶ封水に映った自分が無表情でぼやく。
「殺される前に死ぬのが、一番いいのかな」
そうすれば誰にも迷惑はかけないし、あいつのためになるんじゃないか。あいつもそれを、望んでいるんじゃないか。
『渉くんは誰かに殺されるよりも、一人で勝手に死ぬほうが合ってるもん』
いつか茉結華が言っていたあの言葉は、そういう意味だったのか。早く、勝手に死んでよって、茉結華は望んでいる――
「死んだら私が悲しむよ?」
「――!」
はっきりと聞こえた
また、幻聴。――けれど、幼馴染の懐かしい声に、渉はどこか救われた気がした。
「……そうだな、まだ死ねないよな」
渉は熱のこもった吐息をこぼし、虚空に向けて呟いた。
ここで死んだら、殺された二人に顔向けできない。事件の真相を伝えることができない。死んだら凛ちゃんに会わせてあげる? 死んで会えるわけないだろうが。
後ろ手に回った腕を前に持ってきて、洗面所のコップで水を一杯口にする。右肩を動かすたびに突き抜けるような痛みが全身を襲ったが、頭のなかはすっきりとし、心のなかのわだかまりは焼却されていた。
今度はこっちがぐちゃぐちゃにする番だ。あいつが笑っていられるのも今のうちだ。
* * *
慢心は身を滅ぼす。
茉結華を油断させるには、自分が弱くて動けない状態であると認識させる必要があった。自由の利かない人間が他者に求めるものは、食事、入浴、排泄――このうち茉結華が携わっていないのは最後のひとつだ。それすらも自分でできなくなった、と思わせるのが渉の狙いだった。
だからこそあんな形で制服を汚したわけだが、渉は茉結華の緩みきった口元を目にして、何度か嘲笑を殺した。演技するのも、人を騙すのも、得意ではない。今に見てろ、その一心で表情を隠し続ける。
可哀想な素振りを見せても、茉結華は抱きついたりはしてこなかった。鎖骨が折れているからだろうか、べたべたされないのは気が楽だ。
新しく渡された制服は傷と匂いですぐに響弥のものとわかった。何だかとても悪いことをしているようで良心が痛んだが、渉の決心は変わらない。――もしも叶うのなら、黒髪の親友に会いたいと思った。
午前中、部屋に一人でいる間も、渉は入浴時のシミュレーションをする。ハンカチで薬品を嗅がされる際に、息を止めること。腹部を動かして、呼吸のふりをすること。
前々から練習していたことだが、いつ実行しようかと悩んでいたことである。まさか骨折するとは思ってなかったため、正直今のコンディションは最悪だ。もっと早くに実行していればよかったと後悔の念もある。しかし昨夜意識を失ったから、シャンプー容器に細工することができたのだ。深手は負ったけれど、逃げ出す糸口は掴んだ。
夕飯時、壁にもたれて眠ったふりをしていると、茉結華が部屋へとやってきた。予行練習だと思い、試しに薄目を開けて窺ってみるも、茉結華は気づいてはなさそうである。これはいけるんじゃないかと、自信に繋がった。
息を止め続ける時間は一分から二分を想定する。ハンカチを外されたら、焦らずゆっくりと呼吸を再開すること。昨夜の容器が空のままであれば、茉結華は詰替えを行うはずだ。目覚めるタイミングは茉結華が浴室を出たときである。問題はそれからどうするかだが、これは茉結華の動向を探るしかない。詰替えを行なっている間は容器に集中するだろうし、あの茉結華であっても隙は生まれるはず。ぶっつけ本番、臨機応変に、当たって砕けろだ。
夜になり、作戦は決行された。
眠ったふりをするという第一関門を突破して、渉は意識のあるまま浴室へと運ばれた。浴室までの距離はそう長くは感じられず――大抵は一階だろう――同じ階であることは明らかだった。
首に掛け湯をされたとき、あまりの冷たさに驚いてしまった。別段、風呂の温度が低いのではない。自分の身体が妙に熱いのだ。理由は骨折による熱だとわかっていたけれど、つい反応してしまったことはまずかったか。しぶとく寝たふりを続けていると「すぐ終わるからね」という茉結華の呟きが聞こえた。湿った手で耳を覆われて髪を濡らされたときは拷問かと思った。
茉結華の丁寧な作業に苛つきながら、渉はそのときを待つ。
シャンプーボトルは空のままであった。詰替え用を取りに行くとき、浴槽に入れられたのは想定外だったが――ツイてる。渉はそう思い、瞳を開けた。
茉結華がルイスを呼びながらどこかに行ったことも想定外である。詰替えは洗面所の棚から出してくるだろうと予想していたので、ルイスの元へ向かったのは嬉しいハプニングだ。
渉は熱と身体の痛みに耐えながら浴槽から這い出た。浴室のドアをそろりと開けて、この上ない緊張感のなか、バスタオルを肩から羽織る。着替えは持っていこうにも荷物になりそうだったので、まとうのはタオル一枚が限界だった。
洗面所の戸を開けると、目の前に広がったのは長い廊下。手前と突き当たりに曲がり角があり、どちらも左へと続いている。洗面所を出て右手には、二階へと続く階段があるが、渉の目指す先は玄関だ。
階段横の部屋は明かりが点いており、ドアの隙間から光が漏れていた。その部屋から茉結華とルイスの声が聞こえている。たぶんリビングだろうと思った。
手前の角を覗いてまず飛び込んできたのは、壁の一部に立てつけられたベニヤ板。その奥には扉が見える。何だこれとは思ったが、しかしこちらは行き止まり。リビングを通り過ぎて、突き当たりを左に向かうしかない。
(あっつい……)
拘束されていないにも関わらず、渉の足元は覚束ないものだ。顔を伝うしずくは汗なのか水滴なのか、渉はふらつきながら呼吸を整えた。
(くそ、もたもたしている場合じゃ……)
そう思ったとき、茉結華の声がテレビのボリュームを上げるみたいに鮮明になった。リビングの扉がすぐ目の前で開いて、渉は焦る。
――茉結華が出てくる。早くどこかに隠れなくては!
身を翻し、渉が飛び込んだのは階段下の収納スペースだった。バスタオルを頭から被り、空き箱の影に息を潜める。どうか、どうか気づかれませんように――
人の気配は真横を通り過ぎていった。次の瞬間、
「渉くん!?」
茉結華の大きな声が洗面所のほうから聞こえ、渉は武者震いする。
――いつ出ればいい? いつ動けばいい? 茉結華が戻ってくる前に動くべきか、それとももう一度通り過ぎるのを待つべきか。
動けずにいると、再び洗面所の引き戸が開閉する音と、横を通り過ぎていく茉結華の気配を感じた。そして、どこかの戸を開く音。
「ルイスさん、渉くんがいなくなった」
そう言った茉結華の声は右後ろから聞こえてきた。リビングでルイスと話をしているようである。声のボリュームからして、扉は開けっ放しだろう。茉結華は鼠一匹逃さぬ勢いで廊下に目を光らせているのだ。
しばらくすると、ルイスの声も鮮明に聞こえるようになった。ふたりして廊下に出たのだ。
(見つかるのも時間の問題だな……)
茉結華は渉がトイレにいないのを知ると、階段を上って二階へ。となると、今一階にいるのはルイスのみ。彼が相手なら、片手が使えなくとも対処できそうな気もする。
(この隙に飛び出るか? いや、声を上げられたら面倒だな。いっそ人質にでも取って……)
物騒なことを考えていると、人の気配が近付いてきて、すぐ脇で止まった。何かを見ているのか、考え事をしているのか――動かない気配にそんな思考がちらついたとき、ルイスの咳払いが降ってきた。嘘だろ?
気づかれたのか、しかし確証は得られず、渉が息を潜めていると、ルイスは「友達」とだけ呟いた。やはりバレてしまっているみたいだ。誰が友達だよと不思議に思いつつ、渉はタオルから顔を覗かせる。
赤縁眼鏡を掛けて見下ろすルイスは、渉と目が合った後すぐに逸らして、
「友達を見捨てて、一人で逃げるつもりなのかな」
言葉の意味がわからず、渉は目を細めた。友達? 見捨てる……?
「もう一人、女の子がいるっていうのに」
「っ、ちーちゃん……?」
渉はハッと気がついた。凛の親友で、渉と同じように行方不明になっている少女、
ルイスは口を真一文字に結ぶ。目線は上げたまま、頷きもしなかったが、どこか肯定しているように見えた。
「教えてください……ちーちゃんは今、どこに……」
渉が言葉を続ける間に、ルイスは顔を下に向けた。意図的な動作に釣られて見ると、渉の足元には床下収納の取っ手が――
「こ、この下?」
ルイスはやはり答えずに、目線をぷいっと宙に向ける。彼はあくまで茉結華の味方だから、答えることができない、そういうことだろうか。
渉は収納口から足をどけ、取っ手を左手で掴んで引き上げた。ガコンッという鈍い音と共に収納口が開く。
なかに続いていたのは、暗闇へと伸びる長い階段。
(地下室があるなんて聞いてないぞ)
けれどこの先に、千里がいる。朝霧も、ここに閉じ込められていた――そう考えると辻褄が合う。
渉は意を決して、地下への一歩を踏み出した。
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