第八話

まだ家のなかだ

 一時停止されたゲーム画面に目を向けたとき、風呂場から茉結華まゆかの悲鳴が聞こえてきた。大声で、渉のことを呼んでいる。

 ルイスは何事かと振り返った。ゆっくりと開いたリビングの引き戸から姿を見せた茉結華は、


「ルイスさん……わたるくんが――」


 渉くんがいなくなったと、茉結華は朧げな表情で見つめる。両目は据わっていた。


 ルイスがシャンプーの詰め替えを茉結華に渡したとき、彼は上機嫌に笑っていた。望月もちづき渉の世話をするのが楽しくて仕方ないのだ。

 茉結華は、渉との間に起こる小さな問題に一喜一憂し、それを誰にも話さず自分のなかに溜め込む。

 渉に怪我をさせられたときも、トワから体調が悪いらしいと聞いたときも、茉結華はみなまで話さなかった。ルイスがどんなに追及しても、「違う違う、吐いちゃったのは渉くんで、私じゃないから。でもトワちゃんには内緒ね」と茉結華は平気ぶるばかりだった。


 そして今日。捨てたと聞かされた制服がリビングに干されているのをルイスが指摘したとき、茉結華は「また別のだよ。ちょっと汚しちゃってね」と妖しげに笑っていた。その詳細は伏せられていたが、ルイスはまた渉が面倒をかけたのかと、憤りを覚えた。

 本当に、迷惑な奴だ。


 茉結華がわけを話す間に、ルイスはノートパソコンをテーブルに持ってくる。


「私がリビングにいる隙に、浴槽からいなくなってて――まだ一分も経ってないはずだけど……」


 ルイスはノートパソコンで、玄関の防犯カメラを確認した。出入りすれば人感センサーのライトでわかるはずだが、照明がついた形跡はなく、人影も記録されていない。


「大丈夫、まだ家のなかだ」


 ルイスが落ち着いた声で言うと、茉結華の表情に安堵が加わった。

 茉結華を安心させたくて冷静を装うが、ルイスの心臓は今にも爆発しそうである。渉が逃げ出すことで困るのはルイスも同じ。心からの平静ではない。


「渉くんのことだから、窓からでも逃げ出すつもりだ……。ルイスさん、どうしよう……」


 茉結華の声色は頼りないが、目つきは鋭くぎらつき、廊下の三方向を頻りに気にしている。ルイスもノートパソコンを抱えて廊下に出た。

 直線と曲がり角を含めても、この短時間で風呂場から玄関まで移動できたとは思えない。


「脱衣所の窓は小さいし、大きさ的にも無理だよ。向かうとすれば茉結華の部屋か、二階か。一階に隠れるとすればトイレか……」


 ルイスが言うと、茉結華は玄関前のトイレを勢いよく開けて肩を落とした。それから玄関と防音室も窺うが、どこももぬけの殻である。


「玄関周りじゃなさそうだね。となると……」


 茉結華はルイスが言い終える前に「二階!?」と言って、階段を駆け上がる。ルイスの口から「あ」と声が漏れた。

 二階から逃げ出そうだなんてたいした考えだが、あの少年ならやりかねないらしい。確か鎖骨が折れていると聞いたが――


 ルイスが茉結華のために今できることは何か、彼のために考える。少なくともふたりで二階に行くのは良策じゃない。そちらは茉結華に任せて、自分はこの場に留まるべきだ。

 正直、渉のことで茉結華に助けを求められたのは、心から嬉しかった。茉結華はひとりで抱え込んでしまうから……ストレスの捌け口になれたなら嬉しい。それに最後は自分を頼ってくれると、ルイスは信じていた。


 ノートパソコンに目を向ける。家の監視カメラは地下室と防音室のみ。防音室のカメラは取り外すのを怠っているだけだが、映像を確認しても渉の姿は映ってなかった。

 となると、残るは二階か洗面所周辺にまだ潜んでいる可能性。茉結華の部屋に向かったとは距離的にも考えにくいし、一度風呂場を調べ直すべきか。


 それにしても、かなり計画的な脱走である。茉結華はいつも麻酔性の芳香を嗅がせていたし、耐性がついてきたというよりは、単純に息を止めていたと考えるべきか。

 加えて渉は、シャンプーが空なのを知っていた。こうなることを予測していたのか。何にせよ今日逃げ出す気でいたのだろう。茉結華が焦るのも無理はない。


 頭を働かせつつ廊下を進み、洗面所の引き戸に手をかけた。視界の隅に黒いものが映ったのはそのときだった。

 ルイスはハッと目を見開き、恐る恐る顔を向ける。


 階段下の影に潜むようにしてあったのは、紺色のバスタオルの塊。周りの空き箱を盾にして、目を凝らさないとわからないほど静かに呼吸している。ルイスは唾を飲み込んだ。

 ――見つけた。

 渉は、頭からバスタオルを被り、洗面所を出てすぐの階段下――収納スペースにうずくまっていた。堂々と置物になって、そこにいた。


(完全に茉結華の見落としだ……)


 相当頭に血が上っていたのだろう。ポーカーフェイスを努めていたようだが、酷く動揺していた。じゃなきゃ茉結華は気づけたはずだ。

 ――危なかった。

 ルイスがスルーしていたら、渉はさらに移動していた。誰もいない廊下を突っ切って、そのまま玄関に飛び込んでいたかもしれない。

 こんな子供一人に踊らされて、振り回されて、翻弄されて……。茉結華は一生懸命頑張っているのに、裏切ってばかりの渉に腹が立つ。


 茉結華はこの機会に渉を殺すだろうか。殺さないにしても、何らかの制裁は与えるだろう。しかしこのまま見つかってしまうのは弱い。

 もっと茉結華の怒りに触れるよう、渉にはかくれんぼを続けてもらわなければ。

 二階から茉結華が下りてくる気配はない。ルイスは、わざとらしく咳払いをした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る