初登校

 翌朝、萩野と連絡がつかなくなった。

 ホームルーム後に渉が送った、『遅刻?』『風邪?』『大丈夫?』という三連投のメッセージは、昼休みになった今も既読が付かないまま。いつもならすぐに返信されるというのに。


 遅刻も欠席も担任に連絡を入れるのが基本だが、朝のホームルームの時点では不確定だったらしく、空席を目にしても担任の石橋いしばし先生は触れなかった。いつまで経っても登校してこないのを妙に思った渉は、移動教室の途中で先生に欠席を尋ねた。

 すると石橋は、「帰ったら連絡をくれるそうだ」と、驚きの一言を放ったのだ。


「家に帰ってないんですか?」


 思わず返した渉に、石橋先生は眉間のしわを濃くして、「携帯にも繋がらなくてな。学校に行っているものだと、親御さんは思っていた――らしい」と答えた。

 渉は、『大丈夫なんですかね』と聞きたい口を閉ざした。連絡を待つと言っている以上、石橋からこれ以上を得るのは打ち止めである。


 この件でほかに頼れる者がいるなら、クロネコこと橘芽亜凛だ。芽亜凛なら何か知っているかもしれないし、もしかしたら彼女の家にいる可能性もある。

 ただひとつ問題点を上げるとすれば、橘芽亜凛の連絡先を渉が知っていないという点だが。


「なあ渉、聞いてる?」


 昼食の焼きそばパンをこちらに傾けて――神永かみなが響弥が指摘する。

 売店で買ったふたつ入りのカツサンドを一個半食べた渉の手は机上で待機、目線は虚空を彷徨っていた。千里ちさとが火事で亡くなってから、凛の手作り弁当は食べていない。心身共に今ばかりは休んでくれと、渉のほうから頼んだからである。


「悪い、聞いてなかった」


 上の空だったことを白状すると、ひそめていた響弥の眉も幾分か和らいだ。


「最近A組の委員長と帰ってばっかなのはぁ、どういう風の吹き回しかって訊いてんのぉ」


 響弥は食べかけの焼きそばパンをむしゃりと頬張り、渉に意見を仰ぐ。渉は「あー……」と声にして頭を掻いた。聞き返すまでもなく、A組の委員長とは朝霧のことだ。

 別に響弥たちとは、今までも毎日一緒に下校していたわけじゃない。たった三日程度付き合わなかっただけで拗ねないでほしい――が、彼が言いたいのはそんなことではなくて、急に朝霧とつるみだしたのはどうしてかを聞きたいのだ。


「わふぁかかえりおれんきょーひへんろ?」

「食ってから話せ」


 朝霧に勉強を教えてもらってることは響弥に伝えてあるので、『まさか帰りも勉強してんの?』のとおり、放課後図書館やカフェに寄って過ごしているのだと勝手に想像と解釈をしてほしいものだ。実際は朝霧が誘ってくるから一緒に下校しているだけであって、特に勉強は関係ないけれど。


 響弥が口内の清掃に奮闘しているなか、渉のスマホがポケットのなかで短く震えた。薄地のスラックスから取り出して、見ると――噂をすれば影が差す、朝霧からメールが来ていた。

『一階の突き当たりにある空き教室に今すぐ来てくれ』


(空き教室?)


 そこは確か、追試験の際に使われていた場所のはず。


「悪い、ちょっと行ってくる」


 そう言って渉はカツサンドの残りを口に詰めこんだ。

 朝霧と平日休日を過ごすうちに忘れかけていたが、彼は今後命を狙われるかもしれない存在。渉が接触すれば大丈夫と芽亜凛は言っていたが、ならばできるだけそばにいたほうが効果的だろう。

 今すぐ、と送るくらい急な用事なのだ。何かあった後じゃ遅い。


「噂をすればかよぉ!」


 送り主が朝霧だと察した響弥は、ぐぬぬぬぬと握り拳と歯軋りを微震させる。自分のクラスに帰ってくれて構わないのだが、どうせ忠犬ハチ公のように待っているつもりであろう。

 渉は、悪いな、と片手でジェスチャーをして席を立った。


 今日はいつにも増して、人の声や気配から成るざわつきが廊下にこだましていると感じた。昨夜から雨天続きだからだろうか。いまだ窓の外は、シャワーのごとく雨が視界を遮っている。環境音が大きい分、人の話し声が膨らむのも必然的で。

 けれどやはり、今日はどうにも人が廊下に出すぎているように感じられる。特に、A組方面。朝霧の連絡と関係しているのだろうか。


 渉は人混みを避けて、手前の階段から空き教室へ向かった。一階に下りて廊下を曲がって、一番奥まで進んで、扉の前で歩を止める。


(ここだよな……)


 見える範囲に人の姿がないことを確認し、空き教室の扉を開けた。


 朝霧はいなかった。というか、誰もいない。急な用事に対する不安と、呼び出された期待とが同時に裏切られた。

 とりあえずなかに入って扉を閉め、黒板前で教室を一望する。「うぅむ」と、誰に対してでもない唸り声を喉から漏らして、渉はスマホのトーク画面をチェックした。

『来たけど、どこにいるの?』

 そうフリック入力をして送信しかけた手前、前扉がガラリと音を立てて開いた。


「やあ」

「え……っ」


 立っていたのは、こちらに手を振る朝霧修と――


「た、橘……?」


 制服姿の橘芽亜凛を、はじめて目にした瞬間だった。


    * * *


 下校後は家で報告を、来れないときは事前に連絡してください。そう萩野には伝えてあった。

 なのに昨夜は電話もなく、芽亜凛がいくら待っても彼は訪ねてこなかった。

 メールの交換はしていないため、頼れるのは携帯での通話のみ。しかし受話器から聞こえてくるのはお決まりの自動音声。得体の知れない胸騒ぎが着実に根を伸ばしていた。


 翌日――つまり今日の午後、芽亜凛は学校を訪れることを決意。しわのない下ろし立ての制服をまとって、大雨のなか、ほとんど手ぶらの状態で登校する。

 校舎には開放廊下から直接這入った。普段から近道として使う生徒も多い、外と通じている廊下である。持ってきた上履きに履き替え、雨水で濡れたローファーは適当に空いているシューズロッカーへと託した。自分が来た痕跡は残したくなかったけれど、外靴を入れるビニール袋を持ってこなかったため致し方ない。


 向かったのは二年A組の教室。午後から登校してきた一生徒という先入観にカモフラージュされて、およそ教師に見られても止められることはなかった。大体の教師が全校生徒を覚えていないのだ。

 それよりも敏感なのは生徒のほう。

「見慣れない女子がいる」「あんな子うちにいたっけ?」「どこの子だ?」「後輩とか?」

 A組までの短い道のりで聞いたのは、ひそひそと卑しく群れる生徒の声々。

 しかし周囲から向けられる意識に、今さら芽亜凛が気にするはずもなく、こちらに立ち向かおうとする勇者も現れはしない。


 芽亜凛は前方の扉から入り、席で書記をしていた朝霧修の元に突き進んだ。


「望月さんは一緒じゃないんですか」


 むろん、芽亜凛がA組に来たのは渉に会うためである。どうせC組かE組にいるであろう――を避けるついでとも言えるが、単純に朝霧と過ごしているだろうと思ったからだ。


 作業に夢中のように見えた朝霧は静かに動きを停止させ、ゆっくりと顔を上げる。そして、


「ああ、そういうこと」


 すべてを納得した様子で携帯を取り出した。

 ――彼に知られてまずいことはないが、顔だけで悟られるのは、話が早いようで複雑な心境を共にする。まあ彼は教師と違って、この学校のすべての人間を把握しているようなので、脳にデータのない芽亜凛を一目見て転校生だと悟るのは容易なことかもしれない。


 素早く親指で操作したかと思えば「どこがいい?」と、朝霧はスマホ画面を見せてきた。映っているのは簡易なメモ。

『ここでいいなら口で返事を。別がいいなら二回瞬きを。おすすめは一階突き当たりの空き教室だけど』


「どうする?」と朝霧はにこやかな笑みを浮かべる。「…………」彼の抜け目のなさに肌が粟立つなか、芽亜凛は二度瞬きをした。

 教室中、そして廊下からもひと気と視線は集まる一方。朝霧の配慮は先の先まで見通しており、それを素直にありがたいと思えないのは彼の思考が行き過ぎているせいだろうか。言葉を介さずとも理解できてしまう自分も憎いが。


「オーケー。じゃあ行こうか」

「あなたも来るんですか」

「執行部として案内するよ」


 渉にメッセージを送り終えた朝霧は腰を上げる。隠すようなことではない、と周囲にアピールするかのごとく、最後の言葉は周りにも聞こえる声量だった。




「学校、来たんだ……」


 先に空き教室にいた渉は驚いたように肩をすくめる。芽亜凛は後ろ手に扉と鍵を閉めた。

 教室で唯一、内側から鍵をかけられる場所がここ――一階突き当たりの空き教室である。それを知っていて朝霧もここを選択したのだ。


「萩野くんと連絡が取れないんです」


 芽亜凛は単刀直入に口火を切った。渉は表情を曇らせて、ぎくしゃくと頷く。


「ああ……それは俺も」

「昨日の帰り、萩野くんはうちに来ませんでした。何か心当たりはありますか」


 渉は左右に首を動かす。


「放課後体育館まで一緒だったけど、それからは……」


 また幽霊部員を補うために駆り出されていたのだろう。それなら一緒に下校すればいいのに、と芽亜凛は思った。


「てっきり、きみの家にいるのかと……」

「私の家であってもなくても、泊まりなら親に連絡が行くはずです。ないんでしょう、どうせ」

「らしいね……」


 ――うんざりするほど、代わり映えしない手法。

 問題は、いつどこで萩野の消息が途絶えたのかだ。


「放課後、萩野くんの家に寄ってみようと思います。一緒に来てくれますか?」

「おぉ……、もちろん!」


 渉は強く了解する。渉なら訊かなくても付いてきそうだが、こういうときの彼は少し控えめに尋ねると力になってくれやすい。輪のなかで頼られると嬉しそうにするのだ。


「住所はこちらで調べておきます。私は保健室で時間を潰すので、ホームルームが終わったら来てください」

「わかった」


 職員室に行くのは気が乗らないが、石橋に訊けば教えてくれるだろう。あの先生なら、みなまで言わずともわかってくれるはずだ。


「――それなら僕が案内しようか?」


 朝霧が隣から提案する。


「萩野の住所も家までの道筋も知ってる。先生に余計な詮索をされるより合理的じゃないかな」


 怪しまれるのを覚悟に二人で向かうか、知られない代わりに三人で向かうか。

 できれば朝霧には付いてきてほしくない。朝霧でなくてもだ。ヒミツを共有する人間は少ないに越したことはない。


 それに、芽亜凛の知っている朝霧修という人物は、常人にはない思考の持ち主だ。頭のよさとはまた別の、本質的な問題である。いつ足元を掬われるかわかったものじゃない――

 いや、知った気でいるだけで、本当は何ひとつ彼のことは知らない。を費やして、彼のことを探ってみるのもありかもしれない。

 でも彼の懐に入り込むのは自分ではない。その役は――私じゃない。


「ではお願いします。くれぐれも、ここにいる三人以外には明かさないように」


 特に望月さんは、と念を押して、芽亜凛は二人と別れた。無理をしてでも悟られないよう努めてもらいたい。すべて、今さらだけど。

 言い出しっぺの朝霧に心配はいらないだろう。どうせ断っても付いてきそうな雰囲気があったし、それなら任せたほうがいい。


 芽亜凛は放課後までの時間を保健室で過ごした。もう萩野拓哉は、この世にはいないかもしれないと思いながら。

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