掻い潜る視線

 帰りのホームルームが終了し、今日も一緒に帰れないことを響弥たちのグループトークに伝えて、渉はA組に顔を出した。渉に気づいた朝霧はひらひらと手を振り、椅子から立ち上がる。

 それまで朝霧の周辺で顔を綻ばせていた男子三名は、渉を見てすぐさま解散していく。内部抗争こそ起こさないが、彼らは他クラスの生徒に厳しい。それが朝霧に会いに行くようになって抱いた、A組生徒への印象だ。


「さあ、行こうか」

「もう行くの? 目立たない?」


 朝霧は渉の耳元に手のひらを立てて近づけると、「人に紛れたほうが目立たないよ」と内緒話みたいに囁いた。

 雨の日の部活は室内で行われるため、完全に人の目を避けるのは難しい。それならはじめから流れに合わせたほうが自然だ。


 なるほど、と納得した渉は朝霧と並んでA組を出た。時折すれ違いざまに「朝霧くんバイバーイ」と、男子だったり女子だったりに声をかけられる。正直言って、この空気には慣れない。

 彼らにとって渉は、朝霧と一緒にいるモブに過ぎず、本来なら認識すらされない存在。少し目が合っただけで途端に冷ややかに凝視――ガン飛ばされるので、できるだけ顔を伏せて会釈している。朝霧が主役なら、渉はせいぜいステーキ横のブロッコリーなのだ。


「昼休みに教室に現れた彼女、転校生って噂がガセネタとして広まってるよ」

「ガセネタ?」


 うん、とスマホを片手に朝霧は微笑む。

 それは、真実をガセネタという情報で塗り潰した奴がいるということ。いったいどんな顔をしているのやらと、渉は隣の優等生を見上げて思った。


「朝霧は聞かないの? あの子とどういう関係なんだって」


 階段を下りている最中、渉は朝霧に身の内の疑問を投げつける。無闇に探られないのは気楽だし、訊かれても困るけれど。でもそのときは、芽亜凛の事情だけ隠して正直に答えるだろう。

 朝霧は風のように笑った。


「きみにも踏み込まれたくない領域があるだろ」

「だから聞かない?」

「うん。たとえ萩野を通じて密会し、彼女の指示で僕に近付いたとしても、僕はきみを問いたださないよ」

「……………………」


 図星を指されて、黙り込んだ。傷付いた素振りもなく淡々と告げる朝霧に反して、渉の胸の奥にはズンと重りが沈む。

 ――朝霧は気づいていたのだ。知ってて、気づいていないフリをしていた。


(どうしよう……)


 何か返さないと、と思っても、言葉は喉に詰まって出てこない。沈黙を維持したまま、一階の踊り場に着いてしまった。

 心中頭を抱える渉の横で、朝霧は口元に手をやり、肩を震わせる。渉はその横顔を見ることができず、「お、怒ってる……?」と弱々しく呟いた。たとえ不純な動機だとしても、朝霧には嫌われたくない――

 だが、その瞬間、「くくくっ」と。 

 渉が恐る恐る見上げた彼は、いたずらっ子の笑みを湛えていた。


「他人の指示とはいえ、僕とこうしているのはきみの意志だろ。僕はその意志を尊重するよ」


 渉はぱちぱちと瞬きを繰り返す。


「俺、お前に隠してたんだぞ? その……ショックとか、腹が立つとか、ないの?」


 身振り手振りで論じる渉を流し見て、朝霧は廊下の先に顔を戻す。


「――いいよ、。僕も薄々気づいてて、きみに言わなかった。お互い様ってことで」


 だからそんなに怯えないでほしいな。朝霧はそう言って、萎んだ笑みを渉に向ける。

 渉は噛みしめるように首肯して、保健室の前で立ち止まった。廊下の先々に生徒の姿は見えるが、周囲に人はいない。早く合流して外に出よう――

 しかし、朝霧は保健室前を通り過ぎた。慌てた渉が「待っ」と言ったところで、彼は半身でくるりと振り返る。


「裏から回ろう。彼女もそうしているかもしれない」


 人差し指を宙で回しながら、朝霧はさらなる思慮深さを披露した。

 正攻法なら三人揃って廊下を渡り、昇降口に向かうことになるが――先に生徒玄関で靴を替え、外から保健室に入り、そのまま裏から出たほうが人目につかない。確かに言えている。


「やっぱお前、怖い」


 ――頭の回転が速すぎて。

 日頃から人目を避けるすべを身に着けているのか。外でも学校でも人の目を引く朝霧ならあり得ることだ。渉はそんなふうに考えたことはないけれど。


「怖くない怖くない」


 朝霧は子守唄のように唱えた。こんな茶目っ気を発揮するのは自分の前だけであってほしいと、渉は切に願った。




 保健室裏口。タイルの隅には、綺麗に並べられた一足のローファーが。テカテカと黒光りするそれはまるで新品のようで、傷ひとつない。窓のカーテンは、環境光のすべてを遮断するみたいに隙間なく閉められている。どうやら朝霧の予想は正しかったようだ。

 扉に手をかける直前、鍵がかかっていることに渉は気づいた。ドンドンドンドンと扉をノックすると、ひらりと揺れたカーテンの隙間から細く白い指が覗く。あまりの色白さに、幽霊を信じていない渉でも、ビクリと肩で反応してしまった。――後ろで朝霧が鼻で笑ったけれどスルーしてやる。


 渉が驚いている間に鍵は外れており、朝霧が音を潜めて扉を開けた。二人は靴を脱いで裏口に上がる。


「こそ泥みたいですね」


 椅子に座り、来客用スリッパを履いた足を組んでいる芽亜凛が、素直な感想を漏らした。注意深いという意味の褒め言葉として受け取って、渉は「おう」と低い声で挨拶する。

 保健室内は芽亜凛以外に誰もいなかった。怪我人や病人以外の面倒は見ない主義なのか、保健教諭は職員室かよそに出かけているらしい。照明くらい点けておけばいいのに、と思ったが、誰もいなくなった後に芽亜凛が消したのかもしれない。

 芽亜凛は渉の手元――雨粒が伝っている傘に目をやった。


「そう、雨天時は徒歩でしたね。自転車じゃなくてよかったです」

「姿を晦ますには最適な天候だね」


 はっきり言いすぎだろ、と渉は心のなかで突っ込みを入れ、脇に立てかけられた赤色の傘を見た。バスや電車を利用する生徒も多く、芽亜凛も自転車は使っていないようだ。


(雨の日は徒歩通学なんて教えた覚えないんだけどな……)


 なんで知ってるんだ、と訊いたところで、彼女は渉の苦手なエスパー少女。自分の知らないところで自分のことを知られていようと、ルーツは知らぬが仏。まあ、萩野から聞いた可能性もあるけれど。

 芽亜凛は上靴の入った袋を肩に掛けて、椅子から腰を上げる。


「では案内をお願いします」

「任せて」


 前述のとおり裏口から保健室を出る朝霧。渉と芽亜凛も彼に続いて学校を後にする。

 この天候と傘で判別できないせいもあり、朝霧目当てで話しかけてくる帰宅部はいなかった。晴れの日は校門を抜けるまで定期的に出没するため、今日に限って大雨だったのは都合がいいと言える。

 遠くで鳴っている雷に身をすくませながら、渉は、もう自己紹介は済ませたのだろうかと、傘越しの朝霧を覗き見るのだった。




 バスのほうが早いから。

 ということで、三人は近場よりひとつ先のバス停から乗車することになった。いくらなんでも警戒しすぎだろうと渉は思ったが、芽亜凛は朝霧の提案に口を挟まない。

 そもそも朝霧はどこまで察しているのだろう。渉と萩野が芽亜凛と通じていたことはすぐに悟られてしまったが、みなを殺人鬼から守るために行動しているとまでは知らないはずだ。さすがに、そこまで予想できているとは思えない。

 ちなみに萩野は自転車通学をしている。駐輪場で挨拶することがあるので間違いないことだ。


「僕の顔に何か付いてる?」


 じーっと横顔を拝む渉を、朝霧は前の座席を向いたまま指摘する。

 渉はハッと我に返り、「いや、ほんと何も聞かないんだなっと思ってさ」と目を伏せる。交わると射抜かれそうな眼差しや、すらりと高く通った鼻筋。思わずなぞりたくなるシャープな輪郭と、滑らかそうな肌の色――に、見惚れていたなんてことは決してない。


「彼女が学校関係者を避けているのは伝わる。だからそのように協力してるだけだよ」


 口角を上げる朝霧は、渉と通路を挟んだ向かいにいる芽亜凛に顔を向けた。よく見えるようにと渉は自然に身体を引く。

「きみとの連絡手段がないから学校に来たんだろう?」と、朝霧は渉と芽亜凛を交互に見て声を落とした。


「通じているのに連絡先は渡してなくて、普段は萩野を通じてやり取りしていた。繋がれる人間を少数に絞るのは用心深い証拠だ。そして萩野と連絡がつかなくなり、その理由を確かめに今こうして動いている――ってとこかな」


 そう渉に目を留めて、朝霧は満足気に確認を仰ぐ。

 渉と芽亜凛が連絡先を交換していないことも、萩野を間に挟んでいたことも当たっている。そして彼女が用心深いことも、大正解だ。

 発達した脳に頼った思考力だけでなく、朝霧は相手のこともよく見ている。その洞察力に渉は感服した。


「お前……高校生探偵になれるよ」

「ありがと。でも縮むのはごめんだよ」


 次で降りるよ、と言うので、反対側の芽亜凛にも伝える。芽亜凛は素っ気なく目で頷き、無言を貫いていた。萩野のことを考えているのだろうか、その瞳からは何の感情も読めない。


 降車して、朝霧の隣に渉が並び、その後ろに芽亜凛が続いた。たまにすれ違う通行人と水たまりを避けながら歩道を進んでいく。

 朝霧が「あそこ」と指差した萩野の家は、バス停を降りて徒歩五分圏内にある平屋だった。

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