まだ見ぬ底
玄関の扉は歪にへこんで内側に倒されており、窓ガラスは割れ、カーテンは引き裂かれ、壁には無数に刻まれた傷があり、床にはペンキを塗りたくったような血痕が奥へ奥へと続いていた。
なんてことはなく、萩野家の外観はごく普通の、古めの平屋だった。
渉と朝霧を抜いて先頭に立った芽亜凛が、カメラのないインターホンを押す。音が小さいのか、壊れているのか、呼び出しの手応えは感じられず、返事も返ってこない。
まもなくして。
ドアの磨りガラスに、小さな影がひとつ現れた。両手で扉を開けたのは、オーバーサイズのTシャツを着た女の子。おそらく萩野の妹に当たる。
妹は、芽亜凛、朝霧、渉、地面の順に視線を移らせ、「お兄ちゃんは、どこですか」と呟いた。芽亜凛は腰を屈めて、彼女と目の高さを合わせる。
「拓哉お兄ちゃんは、家に帰ってないの?」
聞き取れるようにゆっくり尋ねると、妹はしかめっ面でこくんと顎を引いた。
「いつから帰ってないかわかる?」
「昨日、学校に行ってから、会ってないです」
辿々しくも敬語で返す妹は、長男に似て整った顔をしている。小学校低学年らしからぬ礼儀の正しさは、親の躾から成るものか、それとも幼子特有の人見知りから来ているのか。身振りからして、おそらく後者のように見える。
彼女以外に家の者はいないのか、なかから人が出てくる気配はない。両親は仕事中。中学生だという次男は部活中と思われる。
「お兄ちゃんが行きそうな場所って、わかる?」
妹はもじもじと両手の指を組み、「ラーメンの、バイト」と、突き出したアヒル口から精一杯の情報を流した。
「わかった。ありがとう」
言葉に反して、心は冷え切ったままだった。
あっ……と伸ばした、妹のちっぽけな手に気づかないで、芽亜凛は早々と踵を返す。引き止めて、少女は何を紡ぎたかったのだろう。
お兄ちゃん、帰ってくるよね?
そう言いたげにぎゅっと手のひらを丸める妹に、居た堪れなくなった渉が歩み寄る。傘を差したまましゃがんで、目線を合わせる。
「ちゃんと連れ戻すよ。待っててね」
渉の言葉に、妹は一瞬開いた口をつぐんだ。
何も発さなかった少女は、瞳に希望を宿して応えていた。
* * *
帰りに、例のバイト先にも寄ったが、萩野に会うことはできなかった。言うまでもない。月曜日の昨日はバイトも休みだったため、萩野が店に寄るとは考えにくいのだ。念のためにと足を運んだが、収穫はゼロ。
それでも、何かわかったら家に電話するね、と店主が口頭で約束してくれた。だから、無駄足だったとは思いたくない。
バイト先を出て解散を申し出る手前、
「僕らの話も聞く?」と、朝霧は集会の継続を提案した。
どこまで付いてくる気なのだろうと芽亜凛は訝しんだが、自分で言い出すくらいなのだ、朝霧修は何かを知っている。放課後萩野と一緒だったという渉にも、まだ詳しく訊けていない。
誘導されるのは癪だが、再びバスに揺られて帰路を共にした。現在、芽亜凛の住むアパートには、三人が揃っている。
「適当にかけてください」
芽亜凛は冷蔵庫からペットボトルを取り出す。聴取するのだから、お茶くらいは出してやる。
不登校を決意したときは、萩野以外上げるつもりなかったのに。グラスにとぽとぽと注がれる烏龍茶を見ながら、芽亜凛は思い出に耽った。
萩野、ネコメ、渉、そして朝霧。この一週間で随分と人が巡った。
そう、まだ一週間。たったの一週間。
この一週間で、千里とその家族が死に、そして、また一人。
初動の絶望の果てに、思いがけない出会いがあった。成功したことも、いくつかあった。
でも、代わりに萩野拓哉が犠牲となってしまったら――すべて、無駄じゃないか。
ここらが潮時だろう。二人が帰ったら、そのときは……。
「昨日の放課後、萩野くんの最後は、どんな様子でしたか」
カーペットに座る渉と朝霧の前にお茶を運び、芽亜凛も座椅子に着く。
渉は会釈して「特に変わった様子はなかったな」それからううーんと唸って「……どっちかと言えば喜んでたような」
「喜んでた? 何に?」
「……それは……」
渉は続けるのをためらって、朝霧をちら見する。釣られて芽亜凛が見ると、朝霧は表情を変えずに補足した。
「男同士の勝負に勝って、喜び半分切なさ半分ってとこかな」
「あなたもそこにいたんですか」
「いたらまずかった?」
「……いえ。でも」芽亜凛はスッと目を細めて「萩野くんを惑わす人間としては、適任かと」
思えば金曜日から、萩野の様子はおかしかった。どこか上の空だったり、急に朝霧のことを犯人と疑ったり。前日までは、彼を守ることに精を出していたのに。
朝霧は含みのある笑みを漏らし、「その枠は僕じゃないよ」と意味ありげに口ずさむ。――ならほかに誰がいると言うのか。
萩野は朝霧のことで悩んでいた。犯人と疑ってしまうほどに。ほかに悩みの種があるとしたら、それはいったい――?
全然、知れていない。
――萩野くんのこと、知ろうとさえしなかった。
彼は何度も、親交を深めようとしていたのに、そのすべてを断った。
芽亜凛の言動に疑念も見せないで尽くし、協力し、自殺さえ止めてくれた彼のことを、便利な駒として扱ったのだ。
(ごめんなさい、萩野くん……)
元より彼は学級委員の相方として、対象と近い存在。狙われる可能性は、最初から大いにあった。
それでも、気づかれなければ大丈夫。徹底すれば、彼のことは守れると、芽亜凛は信じ切っていた。
――どこで、バレた。どこまでバレている。
渉や、朝霧との接点は――? いや……。二人の話を聞く限り、まさか今回は、早まった真似による失踪――?
自発的な失踪なら、まだ光がある。
そのときだ。予定外の知らせを、玄関ポストが奏でたのは。
芽亜凛は瞼をこじ開けて、廊下に視線を送る。今の音は、何だ?
「どうした? 郵便だろ?」
芽亜凛の意図を察したのか、渉が在り来りな予想を口にする。
「……郵便物が届くのはいつも昼過ぎです」
回覧板ならインターホンが鳴る。ここの住民は手渡しを心がけているのだ。
通販の利用もしていない。今日このタイミングで届けられる荷物に、芽亜凛は覚えがない。
暖簾をくぐって廊下を進み、玄関扉を凝視した。荷物はポストの口に嵌め込まれているらしく、物体の影は見えない。
ドアスコープから、外を覗いた。見えるのはあいにくの雨景色。大丈夫だ、外に人はいない。
芽亜凛はポストの前でしゃがんだ。カンカンカンカン、と遠くのほうで警報機が鳴っている。雨のなかでもよく響くそれが、不安定な鼓動を加速させる。
恐る恐ると伸ばした指で、ロックを外し、ポストを開けた。外から斜めに突き刺さっていたのは、厚みがポストの口ぎりぎり程度の薄い箱。引き抜いて、その軽さに手が震える。
箱は飾りも何もない無地のものだった。裏も表も側面にも、ラベルはどこにも見当たらない。空き箱のような軽さだけれど、左右に揺らせばカラカラと音がする。
――あの人からの、おくりものだ。
二の腕に鳥肌がざわめき立つ。胃がきりりと痛んだ。芽亜凛は表情を歪ませて、「萩野くん……」と中身の正体を言い当てた。
リビングに戻り、二人に届け物を披露する。
「ラベルはないです。迷惑な、話ですね」
二人は顔を向けるだけで、しばらく無言を貫いていたが、「開けてみなよ」と。
朝霧に言われて、芽亜凛の瞬きが増加する。
(開けたくない……)
素直に『嫌』だと、そう思った。
怖い。
中身がわからないからではない。わかってしまうから怖いのだ。
萩野に通じる何かがある。遺留品か、あるいは部品か。その想像力が、恐怖を駆り立てる。
「俺がやろうか?」
そう言って渉は立ち上がり、片手を伸ばした。ごつごつした男の子の手が、救いの手として頼もしく見えた。
芽亜凛は控えめに頷き、箱を託して一歩だけ下がる。恐怖が手から遠退き、束の間の安らぎが胸に落ちた。
渉は箱の軽さに眉をひそめつつ後退した。朝霧の待つテーブルに持っていき、後先構わず蓋を開ける。箱の中身は蓋を持つ手で遮られ、芽亜凛からは見えない。どれどれと覗き込む朝霧の表情は微動だにせず、その様子が今は、芽亜凛の心を落ち着かせた。
「ど――どうですか……?」
「絆創膏だね」
(絆創膏?)
顔を上げた朝霧と目が合う。
「使用済みで汚れてるから、見ないほうがいいよ。悪質ないたずらだね」
「……絆創膏、だけ、ですか」
「うん。無造作に入れられてる」
――絆創膏。
芽亜凛が最後に会った萩野は怪我なんてしていなかったため、どうにも結びつかない。
被害者を証明する上で、確実なものを用意するのが、あの人の悪趣味な手法である。誰の目にも留められず、記憶にないものを送ってくるとは思えない。――だからこれは、失踪とは関係ないもの?
何にしろ、使用済みの絆創膏を入れるなんて正気の沙汰じゃない。やはり送りつけてきたのは、あの人だ。
ため息を抑えて、芽亜凛ははたと気づいた。
「望月さん……?」
渉の横顔が、白みがかっている。
大きく目を見開き、眼球を揺らしている。
朝霧と静かに見守るなか、「ぉ……おれ……俺、これ……」渉はぱくぱくと唇を動かした。
「萩野に……あげた、絆創膏」
懺悔するみたいに芽亜凛を見て、渉はカチカチと歯を鳴らす。
「俺が、萩野にあげたんだ……! 萩野の指に、巻いた、絆創膏なんだ」
芽亜凛は奥歯を噛み締めた。
――絆創膏なんて、いくらでもあるじゃない。
そう半ば疑心を向けながら、意を決して箱のなかを覗き込み、そして――
芽亜凛の考えは打ち砕かれた。
中心から左下にずれた位置に、赤紫色の薄っぺらいリングが鎮座していた。よく見ると、表面の色は青々としている。変色して見えるのは、裏表に付着した赤茶色い汚れのせいだろう。
肌の色を無視した、青色の絆創膏。だから渉は、自分が渡したものだと確信を持ったのだ。物珍しい種類だったから――それ以外なら、よく見るものとして処分できたのに。
「ねえ、この箱さ」
先ほどから箱の側面を眺めていた朝霧修。
テーブルに頬杖をつけば、前髪が一房目にかかる。
「まだ、下があるんじゃない?」
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