さようならは聞こえない
よく見るとこの箱、上から見たときと横から見たときの底の高さが合わない。つまりこの箱は――「二重底かもね」
隣で朝霧が謎解きを凍結させる。
行儀悪く頬杖をつく彼は、憂いを帯びた瞳で渉を見つめた。きみはどう思う? と、意見を求めている目ではない。もう箱から興味が失せたみたいな、機嫌の悪さが滲んでいる。
渉は朝霧から目線を下ろし、「二重底……」とオウム返しした。その声を最後に、部屋中の気配が静まり返る。おそらくこの場にいる三人が同じことを考えているだろう。心底不快だ、と。
底の四隅に、渉は目を回した。時計回りに。反時計回りに。ぐるぐる、ぐるぐると。
それでも自然と絆創膏を見てしまうのは、これが萩野のものだという威烈さ故か。彼の笑った顔が頭に浮かんで、渉は強く目を閉じた。そのまま、暗闇のなかで十秒が過ぎただろうか。
「ピンセットってある?」
渉は光のなかに戻される。
「開けるの?」「開けるんですか?」と、渉と芽亜凛の上擦った声が重なった。提言者の朝霧は二人を見る。
「箸でもいいよ」
どうやら底を開けるつもりのようらしい。渉と芽亜凛の顔色が一気に暗くなる。
絆創膏は萩野のもので間違いはなく、すでに彼が危険な目に巻き込まれていることを示唆している。これ以上掘り下げる必要がどこにあると言うのか。
それに渉は、犯人のほうを考えるべきだと、いや、考えさせてほしいと思った。誰がこれをポストに入れたのか、どうしてこんな真似をするのか。――しかしその考えは、同時に萩野のことを諦める選択になる。
結局のところ、知るのが怖いだけなのだ。渉も、芽亜凛も。
「萩野のこと連れ戻すんだろ。だったらほら、開けてみようよ。まだ何があるかも不確定なのに、想像したって仕様がないよ。もしかしたら手紙でも入ってるかもしれないし、ね?」
朝霧は立ち上がって、芽亜凛に手を差し伸べる。朝霧は殺人犯の存在を知らないから、余計な恐怖に振り回されず冷静に整理ができるのだ。
「僕がやるから。さあ」
芽亜凛は電源の入った自動人形のようにピクリと反応し、人間らしい目の動きで部屋中を見渡した。冷蔵庫横の収納棚へと向かった彼女は、目当てのものを手に入れて、とんぼ返りで席へと戻る。
テーブルに置かれたのは救急箱だった。
「ご自由に、どうぞ」
芽亜凛は、救急箱のなかから銀色のピンセットを取り出して、朝霧に差し出す。朝霧はその間にゴム手袋を抜き取って片手に嵌めた。
ピンセットを受け取って「押さえてて」と、朝霧はどちらかに指示を出す。渉は打たれたように呼応して、箱の四つ角を親指と人差し指で固定した。芽亜凛はやはり一歩下がるのであった。
内側の壁との隙間にピンセットを挿し込み、朝霧は外科医にでもなれそうな慎重な手つきで、底を持ち上げる。
日の目を浴びようと隅から現れゆくのは、箱いっぱいに詰め込まれた、綿。
「……!」
その上に陳列する、縦長の殻を見て、芽亜凛は口を手で覆った。
絆創膏と同じように赤茶色に汚れていて、薄紫色の繊維が裏側にこびりついているそれは――
絆創膏の乗った二重底を蓋の上に置いて、朝霧が言う。
「生爪だね」
横に五つ、縦に四つ。両手両足を含めた、計二十枚の生爪が、綿の上で雁首揃えてこちらを睨みつけていた。
四隅を押さえていた渉は、朝霧の言葉で身を引かせる。ピンセットで外す間ずっと我慢していたが、もう限界だった。
「は、っ……萩野、の……? そんな、わけ……」
声も、吐き出す息さえも震える。信じたくない現実が眼下に広がっている。胃から酸っぱいものがこみ上げて、渉は唾を飲んだ。
「ただの家出じゃないってことか。誘拐か、殺人か」
この惨状を目にしてもなお、朝霧は驚くほど動じない。萩野が自作自演で送りつけてきたという線は、二層目を見て除外されたらしい。
朝霧は手袋を外した手で指を差す。
「これを見る限り、考えられるのはふたつ。やった奴はきみらを探るために萩野拓哉を拷問し、後天的に住所を知った。二、以前からきみを知っていたストーカーの犯行で、萩野はここに通っていたから狙われた。二だと萩野のストーカーという線もあって――」
「待てよ」
渉はいきり立ち、「萩野萩野って……」と朝霧の言葉を遮った。
「まだ、萩野って決まったわけじゃないだろ。普通、そこは、否定するだろ……」
語尾に向かうに連れて勢いがなくなる。思っていることとは違う言葉が躍り出て、渉は口にしながら当惑した。
――違う。こんなことが言いたいんじゃない。
これがきっと萩野のものだとは渉も理解しているし、朝霧の言うようにそう決めつけて考えるのが、犯人への近道だと思う。
でも、朝霧はこれを見て、何とも思わないのか。どうして平然と、淡々としていられるのか。
それが渉には、まったく、理解できなかった。
「……ふつう?」
朝霧は機械的に顔を上げた。黒曜石の瞳が静かに渉を見つめる。
渉はついさっき口にした言葉を思い出し、「ああ……」と唇をもごつかせた。――そんなことも、口走ったっけ。
「普通、だろ……?」
別段、おかしなことを言った気はない。悲痛なものを目の当たりにしたとき、信じたくないって思うのが普通だろう。現実逃避したくなるのが、普通だろう――
「きみに『普通』を説かれるなんてね」
朝霧は立ち上がって、渉を見下ろした。口元を緩める彼の瞳は笑っていない。どうやら渉は無意識に、朝霧の地雷を踏み抜いてしまったようだ。
「萩野拓哉は無事だって、そう言えば満足? きみが萩野の妹に言ったみたいに、気休めで」
「っ! はあ……?」
顔がカッと熱くなるのがわかった。
「それ……今言うことか? 俺は本当に、萩野なら大丈夫だって――」
「根拠のない自信で、人を傷付けてたら世話ないよ。優しさは、凶器にもなるんだ」
「っ……、…………」
正論が胸に刺さって流れ込む。
ここに来るまでに出会った、萩野の妹。渉は、彼女の不安を和らげてやりたかった。家で、一人ぼっちで、兄の帰りを待っていたあの子のことを、励ましてあげたかった。それだけなのに。
――無責任なことを言ったと、後悔した。
守れない約束を交わしたことを今、後悔している。
渉は肩を落とし、握り拳を解いた。それを合図に、朝霧の声色がまろやかになる。
「誰のものでも状況は変わらないね。口より頭をひねろうか」
「うん……」と返事をする渉の視界のその端で、ぐらりと。
ふらついた芽亜凛の身体を、朝霧が咄嗟に抱き留めた。芽亜凛のただでさえ白い顔はさらに色を失い、唇と睫毛は細かに揺れている。
憔悴しているのは渉だけじゃない。どころか、渉よりも――
恐怖と混乱で、芽亜凛の心はとっくのとうに満身創痍なのだ。
「橘……」
「警察に言おう。僕らができるのはここまでだ」
望月くん、と朝霧が通報を促す。渉は弾かれたようにポケットをまさぐって、慌てて取り出したスマホが手汗で滑り落ちそうになる。
「ん、平気?」
支えの手をどけた芽亜凛に朝霧が尋ねる。一人で立っていられないほど彼女の脚は震えていて、朝霧は心配そうに両手を空中で待機させている。それを横目で見ながら、渉は緊急通報をタップした。
芽亜凛は覚束ない足取りで暖簾をくぐり、玄関に通じる廊下に消えた。
そして、渉の指が一一〇番を押し終えたとき――ギィィ……ガシャン、と。扉の開閉する音が聞こえ、渉は目を丸くした。
「え……、え?」
視線で朝霧に助けを求めるが、彼は腕組みをして廊下を見据えている。
渉は電話が繋がる前にスマホを耳から離し、「出てった……?」と、赤い受話器のアイコンを押した。
「出てったね」
淑やかに言うだけで動こうとしない朝霧に、渉はムッと唇を引き、彼を追い越して玄関先へと向かった。
まず目に入ったのは、遠くからでもよく目立つ芽亜凛の赤い傘。傘は渉たちのものと並んで傘立てに収められたままだったが、――ローファーがなくなっている。
「どこに行ったんだろう。警察かな?」
「傘も持たずにか……?」
後ろに立った朝霧に思ったとおりの疑問を吹っかける。追いかけるべきなんだろうけれど、一人になりたい気持ちが彼女にあったとしたら――水を差してしまわないだろうか。それでも、傘くらい渡したほうがいいのかもしれないが。
そのとき、カンカンカンカン、と。
今まで気にしてこなかったが、さっきも鳴っていたこの音。
認識した渉の頭のなかで、火花が散った。
「……ぬかも……ない」
「ん?」と聞き返した朝霧の胸ぐらを、渉は振り向き様に掴んだ。
「死ぬかもしれない! あいつ、死ぬ気なんだ!」
――萩野が前に、言っていた。
『えーっとな、今から会わせたいのは、橘芽亜凛っていう転校生の子で。彼女、時を越えてきたらしいんだ』
『…………ぁ、は? えっ?』
『んー、死んでも死ねないみたいな。死ぬと時間が戻るっていうチカラを持っていて……。うん、そのチカラで、犯人からみんなを救おうとしてるんだ。すごい話だろ?』
萩野は自分のことを語るみたいに、嬉しそうに、誇らしげに、記憶のなかでニッと微笑んだ。
「ここで一番近い踏切は?」
「バスで通った坂道先の」
朝霧が言い終わる前に渉は駆け出していた。踵を踏みながら靴を履き、傘を引き抜いて部屋を飛び出す。
スマホで地図を見たいところだが、確認している暇はない。音を頼りにひた走った。高低差があるだけで、踏切の場所はそう遠くないはずだ。
ガタンガタンと電車の通過する音がする。腹の底に悪寒が走ったが、電車が通り過ぎてもなお、警報機の音は止んでいない。行き交う量が多くて、おそらくあと数分間は開かないタイプの踏切だ。
アパート先の角を曲がると、急勾配の坂道が行く手を阻んだ。音はこの先から鳴っている。頼む、早とちりであってくれと、渉は心臓破りに挑戦する。
(何が、死んだら
――まだ萩野が死んだって、決まったわけじゃないのに、ふざけんな。
(勝手に一人でいこうとするんじゃねえよ。勝手に決めて、振り回すだけ振り回して、駄目だったらハイおしまいって、そんなの勝手すぎるだろ)
――全部一人で抱え込むなよ。
(俺はオカルトなんて信じない。でもな、お前のことは、信じてやってもいいって、そう思ってたんだぞ)
「――!」
上り坂の先に、橘芽亜凛は立っていた。
雨に打たれ、新品の制服に大きな染みを作って、空を見上げて立っていた。
何してんだよと心のなかで叫んだが、安堵が浸透するよりも早く唇の端が引きつる。
彼女のいる場所は、遮断機の向こう側。
線路の、上だ。
「ばっ……馬っ鹿野郎――!」
――いつだって、お前はそうだ。瞬きひとつ、許しちゃくれない。
――教室でも、図書室でも。
渉は、傘を放り捨てた。
警報が鳴り響く。
大股で、全速力で、坂道を駆け抜ける。
警報が鳴り響く。
彼女に向けて、手を伸ばす。
警報が鳴り響く。
空気を掴み、
警報が鳴り響く。
警報が鳴り響く。
警報が鳴り響く。
警報が
「望月くん!」
遮断機を飛び越えようとした渉の襟首を、
朝霧が後ろから引っ掴み、
目の前を電車が通り過ぎて、
芽亜凛の身体が、
バ
ラ
バ
ラ
に
飛
び
散
っ
て
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