誘い

「やあ」


 武道場に現れた朝霧修は、柔和な笑顔で渉に手を振っていた。


(やあ、じゃねえよ)


 渉は「……どうも」と消極的に目礼し、ちりちりと焦げつく感情を抑えこむ。


(こいつ、帰り際に来やがって……)


 凛目当てで来たに決まっている、と渉は胸中で敵意を剥き出しにした。ぐるると唸る犬のように、もしくは毛を逆立てて威嚇する猫のように。

 朝霧は渉の隣にいる彼女に、涼しい顔で目を向ける。


「そっちのきみは橘さんだね。どうも、A組の朝霧修です」

「どうも」


 芽亜凛は練習場を向いたまま、唇だけ動かす。


(……男子に冷たいのは誰に対してもか)


 朝霧は芽亜凛の隣に腰を下ろして、「噂は聞いてるよ、頭もいいんだってね」と話しかける。男子に挟まれても芽亜凛は微動だにせず、柔道部の稽古を見つめていた。


「その怪我は柔道で?」

「いえ。体育で、跳び箱で怪我したんです」

「そう。きみみたいなか弱そうな子はやらないか。痕が残らないといいね」


 か弱そうな子。渉がその台詞にデジャヴを感じていると、


「――やってた頃はありましたよ」


 芽亜凛はぽつり、呟いた。


「へえ、そうなの?」

「ええ、でもやっぱり合わなかったみたいで、サポートに回ったほうが性に合ってるみたい」


 まさか柔道経験者だったとは、意外だ。中学の頃にやっていたのだろうか。だとしたら、あのときの彼女の動きに説明がつく。絞め技も、逮捕術も……。

 凛は知っているのだろうか、芽亜凛が柔道経験者であることを。

 彼女を挟んだ視線の先で、朝霧と目がかち合う。


「ごめんね、放って話進めちゃって」

「え……いや全然」

「望月くんはどうしてここに?」


 ――そりゃこっちの台詞だ。とは口にせず、


「凛の付き添いだよ。俺、帰宅部だから」

「そういえばそうだったね。また会えて嬉しいよ」

「……知ってるの?」


 思い出したような朝霧の口ぶりに渉は違和感を覚えた。彼に帰宅部だと教えた覚えはないが。


「二年生のクラスと名前、所属する部活動は把握済みだよ。同じ学年の生徒としては当然のことさ」


 さらりと言って、朝霧はくすりと微笑んだ。


(こ、こいつ……)


 さすが『一位の男』と褒めるべきなのか。そんな、当たり前のように言われても。渉は、住む世界の違いと薄気味悪さを明確に感じて、そんな自分に嫌悪した。


 時間は過ぎ、部活動は終わりを迎える。

 芽亜凛は柔道部に「お疲れ様」と順に声をかけてタオルを渡していった。男子連中は鼻の下を伸ばし、唯一の女子部員である凛もにこにこと微笑んでいる。

 解散の挨拶をしてこの日の活動は終了。部員は更衣室へ寄ったり、柔道着のまま帰ったりとまちまちだ。


「いやあ、女の子がいるっていいね。華になるね!」

「凛も女の子でしょ」


 凛と芽亜凛は冗談を交えて笑い合っている。凛の着替えが終わるまで待つつもりだった渉は、すっかり油断しきり、


「百井さん!」


 そう言って二人のもとに行く朝霧に一歩遅れを取った。反射的に立ち上がり、慌てて彼の後を追う。


「あれ、朝霧くん? 珍しいね、どうしたの」


 凛は朝霧を見て、すぐに誰なのか気づく。渉は名前すら知らなかったが、凛は委員長同士で交流があるのだ。


「待ってたんだ、百井さんのこと……ずっと」

「なっ――」


 堂々と放たれた口説き文句に渉は狼狽し、凛は不思議そうに首を傾げる。

 芽亜凛は口元に手を寄せて、「もしかして……お邪魔だったりします?」と訊いた。状況を理解していないのは凛だけのようだ。


「えっ、なんで、どういうこと……」

「離れてるね」


 戸惑う凛に短く告げて、芽亜凛は壁際に離れていく。

 ――すれ違いざま、彼女と視線を交わした。その瞳は酷く冷たく、『早くお前も来い』と言っているようだった。

 渉は歯を食いしばり、芽亜凛に続いて距離を取る。彼女はちゃっかり、二人のやり取りが見える位置に立っていた。


「どうなっても知りませんよ」


 芽亜凛は渉にだけ聞こえるように呟いた。何を思っての言葉なのだろう、渉にはわからない。クラスの連中と同じように、からかっているだけなのか。


「別に、俺にはどうにも……」


 そう、渉にはどうにもできないことだ。

 しんみりと自虐したそのとき、ふ――と。視界の隅で傍らの少女が、笑みをこぼしたように見えた。

 渉は弾かれたように芽亜凛を見た。彼女は無表情に、凛たちを見つめている。


(気のせい、か……?)


 無性に気持ち悪いものを感じて、渉は視線を戻した。

 チケットだろうか、朝霧は長方形の紙切れを凛に渡している。受け取った凛は目を見張って驚いているようだった。やはりデートの誘いか……。

 だが、少し様子がおかしい。凛はチケットを指さして朝霧に何か提案し、彼は困ったように肩をすくめた。やがて二人はこちらを振り向き、凛は手招きしはじめる。

 渉は疑問符を浮かべた。その横で「あ」とだけ声を漏らした芽亜凛は、二人のもとへ歩いていく。何がなんだかわからぬまま、しかし一人でいるわけにもいかず、渉は後ろを付いていった。


「芽亜凛ちゃん見て! 朝霧くんも、行こうって! もしかして流行ってるのかなあ」


 凛は意外にもテンションが高く、きゃっきゃと嬉しそうにはしゃいでいた。朝霧から貰ったのは予想どおりチケットのようだ。


「でね、どうせならみんなで行かないかなーって。チケットも四枚あることだし……。渉くん、来る?」


 そう言われても。渉の思考はまだまだ置いてけぼりだった。返事なんてできるはずもなく、隣で芽亜凛がチケットを差し出す。ありがたく受け取って目を通した。


「遊園地……?」

「うん。まさか!」


 びっくりだよ、と凛は照れくさそうに笑った。

 チケットは近場の遊園地のものだ。凛の都合を考慮してか、翌週の日曜日が指定されている。これなら予定を空けることも容易く、気にするのは天気くらいになるだろう。


 だが、何だって――? 朝霧と芽亜凛は今日、偶然遊園地のチケットを持ってきていて、偶然同じ人――凛を誘った。それが偶然同じ場所、同じ日を指定したチケットだったと……?


「……橘さんは、いつ誘ったの?」


 渉が恐る恐る訊くと、芽亜凛は記憶を探るように天を仰ぎ、


「五限目が終わった後だから、私のほうが先手だったわね」


 凛を見て、ふわりと笑う。

 昼休みに朝霧がチケットを渡せていたら、この状況は生まれなかったのか。しかしそうじゃなくても四つのチケットは揃っていたような……渉はそんなことを直感した。


「僕は四人でも構わないよ。望月くんがいいならね」


 朝霧は伏し目がちに渉を窺う。デートの誘いがまさか友人同行になってしまうとは、彼も予想外だっただろう。朝霧の気持ちを汲むなら行かないほうが正しいのか……けれども女子二人と男子一人というのもどうなのだろう。朝霧のことをよく知らない渉には悟り切れない。

 凛はデートとは思っておらず、ただ純粋に渉を誘っている。一番謎めいているのが芽亜凛だ。男子には相変わらず無表情で、何を考えているのかさっぱり読めない。


『何か対策は考えました?』


 彼女はこうなることを予知していたのだろうか。朝霧が凛を遊園地に誘うと知っていて……それを危惧して予防線を張った? それとも本当に偶然か。

 運か策略か。どちらにせよ、この状況を作ってくれたのは芽亜凛だ。何もできなかった渉にとって、好都合なのは言うまでもない。


「わかったよ、行く。行けばいいんだろ……!」


 渉は泥舟に乗る覚悟で、遊園地の誘いを受け入れた。

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