武道場へ

 午後の授業と掃除、ホームルーム。すべての活動が終了するまで、渉は番犬さながら凛の周りに目を光らせた。彼女に近づこうとする、主に朝霧修のことを。

 人の恋路を邪魔するつもりはない。そもそも自分は、凛に思いを伝えられていないのだから、そんな資格はないとさえ思っている……が、それはそれ。これはこれだ。気になって仕方がないというのが、渉の正直な気持ちである。

 だが予想に反して、朝霧は現れなかった。凛のそばにいた人物といえば、芽亜凛くらいのものである。二人とも朝霧と接触したようには見えない。


「凛、今日は部活?」


 放課後。渉は鞄を持って、凛の席に向かった。凛は帰り支度する手を止めて、顔を上げる。


「うん。渉くんは、便利屋?」

「いや、付いてく」

「え?」


 運動のできる帰宅部として、渉は今日もバスケ部の練習に誘われたが、用事があると言って断った。便利屋と称して頼ってくれるのは嬉しいが、今日は凛のそばにいたい。


「久々に凛の柔道見たくなった。たまにはいいだろ?」

「それは構わないけど……」


 凛の柔道が見たいというのは本心だ。朝霧のことを把握したいという気持ちも。

 仮にもし、朝霧が凛に告白、もしくはデートに誘う気だったら……そのときは――


(そのときは……どうしよう)


 気持ちばかりが先走る。でも何もしないのは嫌だ。


「じゃ、芽亜凛ちゃん、行こっか」


 カタンと音を立てて凛が席を立ち、渉は意識を引き戻す。渉は「え?」と聞き返した。

 凛の隣で同じく帰り支度をしていた芽亜凛の上目遣いと、視線が交差する。


「あれ、渉くん知らなかったっけ? 芽亜凛ちゃん、柔道部に入ったんだよ」

「……」


(知るわけないだろ)


 そう言い返したかったが心のなかに留めておく。


「それってマネージャーとか?」


 渉がジョークのつもりで言うと、凛は「うん」とあっさり頷いた。


(え……?)


 ――マネージャー?

 心の声を顔に出さぬよう我慢して、渉は眉宇を和らげる。


「あー、へえ。マネージャーか。ふうん、そう。いいんじゃない」

「えっ何その反応。てかそりゃマネージャーでしょ、芽亜凛ちゃんに力技は似合わないって」


 凛はけらけらと笑い飛ばし「わ、私の立場がなくなっちゃいそうだし!」と付け足した。渉は目を逸らしつつ「そうだな……」と冷や汗を背中に流す。


(凛は知らないんだ)


 渉が一度、芽亜凛から絞め技を食らっていることも。笠部に見事な『逮捕術』をやってみせたことも。凛はその瞬間を見ていない。

 凛にとって芽亜凛は、


「柔道部には前から興味があって……覗いたときに凛もいたことだし、入ってみようかなって」


 そう言った芽亜凛は、ころころと変わる渉の顔色をじっと観察していた。凛は「ねー!」と声高らかに同意して、


「本当偶然、私としてはめちゃめちゃ嬉しいんだけどね。女子、私だけだから」


 芽亜凛は凛に微笑んで席を立つ。笑っているときの彼女の雰囲気は柔らかく、渉とは目を合わせようとしない。まるで、凛以外に注ぐ笑顔などないみたいに。

 これでまた、凛といられる時間と環境が減ったと、渉は静かに悟った。


「響弥くんはいいの? 待ってるんじゃない?」


 凛に言われて、一瞬顔が強張る。伝えれば、響弥は喜んで飛んでくるはずだ。昼休みのときのように、空気を読まずに割りこんでくれるだろう。けれど、

 渉は、芽亜凛の顔を盗み見た。芽亜凛は、冷たい瞳で渉を射抜く。

 凛には決して見せない鋭い眼差しだった。これ以上邪魔者を増やすなと、暗に言っているように見えた。


「いや、響弥ならカラオケ行く。平気だろ」


 心地の悪さを感じさせぬよう、なるべく声色を保って言葉にする。凛は意外そうな顔をしたが、それ以上の追及はなく、「うん、じゃ行こっか」と教室を出る。

 渉は二人の後ろを付いて、武道場に向かった。背中は冷や汗ですでにびっしょりだった。


    * * *


 藤北の武道場は、剣道部と柔道部が半分ずつ使用しても余る程度の広さを誇っている。

 柔道部はウォーミングアップを終えて、三年生は打ちこみ、一年生は受け身、凛たち二年生は乱取りの練習をしていた。


「らああああああっ!」


 凛は自分よりも大きな男子を相手に背負投を決めて、「バテてんじゃない! もう一丁!」と奮い立たせる。

 相手の男子、同じクラスの白峰しらみねたからは空笑いして起き上がり、再び乱取りにかかった。E組にはもう一人、小林こばやし広人ひろとという柔道部員がいるが、女子部員は凛ただ一人だ。

 渉は武道場の隅で見学していた。室内は上履き厳禁のため、靴下のままあぐらをかく。


「何度見ても恐ろしいなあ……」


 稽古に励む凛を見て苦笑する。

 幼い頃から凛の柔道を間近で見てきた。技を食らったことも何度もある。


(凛が前に出なくてもいいように、俺が守れたらな、なんて……)


 小柄な体躯で男をばったばったとなぎ倒す幼馴染を見ていると、当時からのそんな思いが蘇る。本人に言ったら怒られるだろうけれど……。

 渉は、ひたひたと近づく足音に意識を向けた。橘芽亜凛だ。

 いつも黒タイツを履いている彼女は、今は裸足で柔道部のマネージャーを務めている。男なら誰もが目を奪われるだろう、スカートの下から伸びる白く長い脚には、まだ湿布が貼られていた。

 先日の体育で怪我をした左腿だ。彼女の細い脚に痛々しく映えている。目に毒だと、渉は皮肉めいた。


「何かは考えました?」

「……え」


 不意に芽亜凛の声が頭上から降ってきて、渉はそろりと首をもたげた。

 ばちりと、芽亜凛の大きな瞳と視線が合う。まるでメデューサを前にしたかのように、渉は自然と固唾を呑んだ。

 まさか、話しかけられた?


「その様子だと何も、か」


 芽亜凛は抑揚なく呟いて、渉の隣に腰を下ろした。花のような果実のような、甘い香りがふわりと鼻先をくすぐって、渉は転校生との距離に戸惑った。近い……。

 あぐらをかくのをやめて姿勢を正そうかと逡巡したが、そのままでいることにする。彼女の前では堂々としていたかった。


「えっと、対策って何の」


 周囲の目を気にしつつ尋ねた、そのとき。


「あれ、望月くん?」


 聞き覚えのある声が、するりと優雅に侵入した。

 昼休みぶりの、彼の声。渉の鼓動が、どくんと大きく波を打つ。

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