青春の汗

「うわ、一位の奴また記録更新してんじゃん」


 待ちに待った月曜の昼休み。昼食を取る萩野の真ん前で、向葉がスマホとにらめっこしていた。記録更新というのは以前も話していたアプリゲームのことだろう。

 好きな人の有無を訊かれたのが、ちょうど一週間前だったか。今の状態なら、『いるよ』と胸を張って答えられる気がした。


「ASだろ、そいつ強いよなー」


 向葉の斜め後ろからクラスメートが割り込む。萩野はやってないが、テレビCMも流れている人気のアプリゲームだったはずだ。


(……ASか)


 萩野は飲み終わった牛乳パックを潰して立ち上がった。


「俺は倒すよ」

「ん? 何を?」


 昼食の片付けに用いたビニール袋の口を縛り、


朝霧修ASをだよ」


 萩野の投げた袋は、ゴミ箱にシュートされた。


    * * *


 部活動が終了した今、着替えを済ませた部員もいれば、体操着やバスケットパンツのまま帰宅をする三年生――四月朔日わたぬぎ先輩など――もちらほら見て取れるだろう。

 今日のシュート率は十本中十本だった。あくまで自由練習時に入った本数だが、パーフェクト。なかなかの好成績である。

 部員たちを見送っている最中に、廊下から黄色い声が上がった。今しがた帰っていった女子バスケ部の声だろう。――来た、と萩野は武者震いした。

 出入り口から現れたのは、制服姿の朝霧修。やあ、というお決まりの挨拶はなく、体育館の隅に鞄を置いて萩野の前までやって来る。


「着替えないのか?」

「うん、このままでいいよ。それとも合わせたほうがいい?」


 万全で臨むならスポーツウェアに着替えるべきだろう。合わせると言うのなら萩野のほうだが、わざわざ縛りを課せている朝霧に揃える必要がどこにある。

 この『試合』は、朝霧にとっては『遊び』なのだ。


(舐めやがって……ったく)


「じゃあ……オールコートの1on1。点数はルール通り。勝利条件は十点先取」

「オーケー。先攻は?」

「そっちでいいよ」


 自分に有利な勝負を持ちかけておいて先攻まで取るのはさすがに気が引ける。たとえ相手がその気でなくても、萩野は真剣勝負がしたいのだ。


「アップだけしていい?」


 言いつつ朝霧は腕をクロスして身体をひねる。

 萩野は先刻まで身体を動かしていたためウォーミングアップは十分だが、朝霧は何をしていたのだろう。生徒会執行部の仕事、校内の見回り、それらを含めたルーティンワーク――どれも準備運動とは言えない。


「随分余裕そうだな」

「言い訳が嫌なだけだよ。それに負けるのも、嫌いだ」


 現役と元バスケ部では、やる前から勝敗が見えている。だが朝霧はそれを言い訳にしない。だからと言って、負けず嫌いな彼が最初から負けるつもりで臨むとも考えられない。

 勝ちたい萩野と、負けたくない朝霧。

 しかし必ず勝敗は生まれる。遠慮も手加減もせず、勝たせてもらおうじゃないか――と、萩野がボールを手にしたときだった。


「――あ、朝霧!」


 体育館に闖入した、渉の声。萩野と朝霧は同時にそちらへ顔を向ける。


「望月くん、どうしたの?」

「体育館にいるって聞いて探して来たんだよ。一緒に帰るって……」


 もしや、先ほど朝霧と入れ違った四月朔日先輩から聞いたのか。駆け寄った渉は萩野に気づいて目を見張る。


「萩野と、えっ、なんか話してたところ?」


 萩野が伝えていないように、渉は朝霧からも何も聞かされていないようだ。放課後誰もいない体育館に、最近自分とよく関わる二人が目の前に揃っている。事情を知らない渉からすれば偶然と思えない不思議な光景だろう。


「今から1on1をするんだ。十点先取したほうが勝ちのね。ちょっとしたじゃれ合いだよ」


 ゆるりと説明する朝霧の言葉を渉はふむふむと頷いて聞いている。自分の写真が懸かった勝負だとは夢にも思っていないだろう。


「望月は、どっちを応援したい?」

「えっ」


 突然投げ掛けられた選択に、渉は素早く反応した。「どっち……?」と眉をひそめて萩野と朝霧を交互に見る。それぞれが抱く執念にも、熱のこもった視線の意味にも、彼は気づかない。

 萩野は「どっち」と復唱した。


「う、ううーん……クラスがかかってるなら萩野だけど、同じ帰宅部としては朝霧に勝ってほしい……かな」


 どちらも応援したい、どちらも傷付けたくない。月並みだが渉らしい答えだ。

 しかし、クラス対抗でない今、有力なのは後者である。そう萩野は、自虐的に解釈する。

 ――俺のこと、応援してくれないんだ。


「望月くんは上で見ててよ」

「いいの?」

「望月なら、歓迎だよ」


 渉は萩野を見て「うん」と大きく首肯した。


「じゃあ……二人共、怪我しないようにな」


 そう言って渉はステージ横の扉を抜けて二階のギャラリーに回り込む。萩野と朝霧は、センターラインに並んで向き合った。

 萩野は朝霧にボールをパスし、「朝霧がボールをついたらスタート」

 朝霧はボールの感覚を指で確かめて、「勝てば消去ほしゅ、負ければ告白かくめい

 ――臨むところだ。


「それじゃ、行くよ」


 タン、とボールのバウンドした音を合図に1on1ははじまった。朝霧のドリブルでボールは右に左にと弾む。


(勝つ……勝つ……絶対に、俺が勝つ――!)


 伸ばした手をすり抜けて、朝霧は左足を軸にロールターンをし、萩野を抜いた。彼の放ったボールは綺麗な弧を描いてゴールに吸い込まれていく。

 早々に決まった、スリーポイントシュート。振り向いて微笑む朝霧。萩野の脳が、甘い感慨に満たされる。


 ――久々に、朝霧とバスケをしている。

 同じ体育館、同じコート上での1on1。することは、もう二度とないだろうと思っていた朝霧とのバスケ。

 オフェンスに回った萩野のボールをいとも容易く取った朝霧が走りながらレイアップシュートする。早くも〇対五。


『――萩野くん』

 去年の今頃は、まだ朝霧に呼び捨てにされていなかった。

 誰に対しても親切で、誰に対しても平等に接する優等生は、先輩以外の呼び方さえもみな等しく、くん付け。

 唯一、呼び捨てに変わったのが萩野だった。

 変化の理由もその意味もわからない。本人も意図していないかもしれない。

 だが当時の萩野は、自分だけ特別扱いされている。自分はちゃんと、朝霧と肩を並べられている。そんなふうに捉えることで、承認欲求を満たしていたように思う。


 萩野のレイアップシュートが決まり、二対五になった。


『萩野!』

 ――自分のパスしたボールが朝霧にシュートされるのは、自分でゴールに打つよりも遥かに心地よかった。

 だって朝霧のシュートは、外れないから。あいつに回せば確実に決めてくれる。いつしか部内ではそう囁かれ、一年生の間ではすっかり憧れの的となっていた。

 ――今思えば他人に任せているだけの臆病者だ。


 朝霧から取ったボールで続けざまにシュートが決まる。これで四対五。


(負けない。絶対に、負けない)


 青春の向こう側に、赤くゆらめく手が見えた。――誰の? 俺の? 違う……あれは、火だ。家一軒、いや、体育館まるごと焼き尽くす、

 嫉妬の炎。

 一年生でダントツだった朝霧と並んでいた――張り合っていた――それは萩野ではなく、新堂しんどう明樹はるきだった。

 圧倒的なシュート率を誇る朝霧修。長身を活かして食らいつく新堂明樹。萩野拓哉は、三番手だった。

 それでもその場所に留まり続けたのは、朝霧に認められたと思い込んでしまった馬鹿な自分がいたから。


 隙を突いた朝霧のスリーポイントシュートが入った。四対八。

 萩野は輪郭に伝う汗を拭った。朝霧の額にも汗が滲んで見える。八辛担々麺を食べたときには見ることができなかったのに。


『萩野には、教えといてやるよ』

 夏が終わりを告げる頃、朝霧がバスケ部を去った日に残したのは、絶望感。失望感。それに伴う、喪失感。

『――バスケよりも面白いものを見つけたから』

 萩野が理由を尋ねたとき、朝霧は夕焼け空に手を重ねて恍惚な笑みを浮かべた。雲を掴むように不確かで、けれど狙いを定める確かな瞳。それは欲望か、はたまた執着か。


 ――バスケより面白いものって何だよ。朝霧を変えたのは何なんだよ。

 悔しかった。今まで半端な努力しかしてこなかった自分自身が酷くやるせなかった。

 その後新堂が幽霊部員になったのは、張り合える相手がいなくなったから。つまりそう、『つまらなくなった』からだ。


(何が「つまらない」だ。二人して……どいつも、こいつも……)


 ――輝けるのは過去じゃない。今を真面目に取り組んでいる者のほうが偉いに決まっている!


 スリーポイントラインから打った萩野のシュートが決まる。点数は七対八。そろそろ互いの体力も削れてきた頃だ。

 何とか抑え込んでシュートを決めたけれど、朝霧はツーポイントで勝利してしまう。一発逆転するには、スリーポイントシュートを狙うしか萩野に選択肢はない。

 それに萩野はディフェンス側。まずは朝霧からボールを奪わなければ、勝利の道はない。


「取らせないよ」


 睨み合い、牽制し合い、しかしゴールまでの距離はじりじりと詰められている。

 ドクドク、ドクドクと、血流が身体中を激しく巡る。いつの間にかボールで抉れたらしい薬指の表面がじくじくと痛んだ。

 このまま朝霧に抜かれてしまったら、萩野は負ける。

 ――動けない。どうしたらいい……どうしたら、前に、


「止まるな! 萩野おおおお!」

「っ――!」


 萩野の正面――朝霧の後方から、両手をメガホンのようにして叫ぶ、渉の姿が視界に映った。その瞬間、血流が、電流へと切り替わる。

 萩野は左手でボールを奪い取り、スリーポイントライン目掛けて突っ走った。全力疾走でドリブルする萩野のスピードに朝霧は追いつけない。

 ラインからのジャンプシュート。

 手から離れたバスケットボールは、渉の真下に位置するリングに当たり、一周――二周して、

 ――――ゴールに入った。


「……やった」そう言ったのは自分だろうか、それとも渉だろうか。

 萩野拓哉は雄叫びを上げてガッツポーズした。


「っしゃあああああっ!」


 ギャラリーで興奮したように手を叩き跳ねている渉に、萩野は拳を掲げた。渉はニッとはにかんで親指を突き出してみせる。

 得点は十対八。

 ――勝った。

 ――勝ったんだ。一年から憧れていた朝霧に、バスケではじめて勝利した。

 この勝負、萩野の勝ちだ。


「ははっ……アシストされちゃったなあ」


 顎に滴る汗を拭い、息を切らす朝霧は負けてもなお笑顔だった。


「朝霧――約束、守ってもらうからな」

「わかってるよ」


 朝霧は鞄からタオルを取り出すついでに、スマホを片手にする。

「これでいいだろ?」と振り向いたその画面には、削除しましたという文字が。

 彼は極度の負けず嫌い故に、負けを惜しんでズルをすることもしない。勝ちも負けも好きも嫌いも、正面から受け止めて消化できるのは立派なことだと思う。

「望月!」約束どおりの削除を見届けた萩野は、ステージ横の扉から出てきた渉を呼び止めた。


「ありがとな。俺……あの応援がなかったら、きっと負けてた。だから、ありがとう」


 渉は謙虚に首を振り、照れっぽく鼻を掻いた。

 あのとき渉が声をかけていなければ、目の前に現れなかったら、萩野はプレッシャーに押し潰されて負けていた。

 立ち止まるな。留まるな。そう教えてくれた渉に、最大級の感謝を。そして――


「俺、望月のことが好きだ」


 好きなんだ。

 そう告げる萩野の声は、爽やかな体育館に響いていた。

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