優等生は優しくない
カウンター横でコップ二杯目の水を飲み終えたとき、厨房から出てきた店長が「どうしたの拓哉くん。八辛食べたみたいな顔してるよ」と店内ジョークを披露した。悲しいかな、ジョークではなくそのとおりである。
水を飲むのに必死な萩野に代わって朝霧が答えた。
「少し喉に詰まらせてしまったみたいで……。お店の担々麺すごくおいしかったです」
「あっれー、もしかして八辛頼んだ子? すごいねーきみ、イケメンだねー」
店長は朝霧を指差して言うと、わっはっはと豪快に笑いながら厨房の奥へと消えていった。その背中に朝霧は軽く頭を下げてから萩野を振り返る。
「大丈夫? 萩野って辛いの駄目だったんだ」
駄目じゃない。というのは強がりではなく、友達と集まって競う分には我慢強いほうだと自分では思っている。
(お前が強すぎるんだよ)
しかしあそこで動いていなければ、渉が辛味の餌食になっていた。身を挺して彼を守れたとしてよしとしよう。
席で飲んだのを合わせれば四杯目となる水を飲み干し、萩野はふう、と息を吐いた。
「店長の前で嘘をつくなよ」
嘘つき、と。辛味の過ぎた口から出たのは自分でも驚くほど辛辣な返しで。言葉は萩野自身に跳ね返る。
朝霧はくすりと笑って身を屈めると、耳元で低く囁いた。
「フォローしてやったんだ。感謝しろ」
目を見開き、萩野はその顔を見た。張り詰める自分の目が泳いでいるのがわかる。首筋をひんやりとした空気が撫で、喉仏はゴクリと上下した。
(……今の)
――本当に、朝霧の声だったか?
まるで静かな海に落ちた雷だった。普段の彼とは違う、別の何か。
聞き間違いだと言われれば、素直に受け入れてしまう。そう感じるほど今の朝霧修の声色は狂気じみていて、普段の彼に似つかわしくなかった。
しかし朝霧は、何ら変わらない、いつもどおりの穏やかな笑みを浮かべている。
萩野はぶるぶると首を左右に振り、カウンターにポットを置いて朝霧の腕を掴むと、店の奥へと引っ張った。渉の席からは見えない位置まで連れて行き手を離す。
「どういう、つもりだ」
「何が?」
朝霧の声は手前どおり軽やかだ。先ほど感じた異変はやはり気のせいだったのか。
萩野は胸の前で腕を組み、人差し指で苛立たしげに叩いた。
「わざわざ望月を連れて来たことだよ。俺に見せつけたいのか?」
意地の悪いことを言っている自覚はある。けれど、指摘せずにはいられなかったのだ。
朝霧はぱちぱちと瞬きをし、「そうだよ」と満面の笑みを見せた。そして萩野の指が止まったのを合図に、
「バイトで苦労してる萩野に、少しでも癒やしをと思ってね。どう? 休日に望月くんを見られた感想は」
自身の顎に手をやり、朝霧は飄々とかわしてみせる。まるで萩野の動向を探り、駆け引きを楽しんでいるようだ。
「……お前がいるせいで気が散って仕方ないよ」
ため息混じりに漏れた冗談のような本音である。
長身でスタイルもよくて身なりもいい朝霧はただでさえ目立つ。店長も上機嫌だったようにパートの人たちにも「今入ってきた子背高くない?」「可愛い顔してるよね」と好まれていたのを萩野は耳にしている。
朝霧は「えーっ」と間延びした。
「望月くんだけならいいってこと?」
「そうだよ」
わざと同じように返してやると、朝霧は肩をよじって不敵に笑った。
「なあ萩野、さっさと告白してスッキリしてみない? 協力するよ。さっきも席に呼んであげて――」
それ以上口にする前に胸ぐらを掴んで強引に引き寄せた。――何がスッキリだ。何が協力する、だ。
「ふざけるのも大概にしろ……!」
「何怒ってるんだよ」
目を丸くした朝霧が萩野を真正面から見つめる。
――本気で言っているのか? 本気で、俺が怒っている理由がわからないのか? だとしたら呆れたものだ。ここまで人の気持ちがわからない奴とは思わなかった。
それともわざと、とぼけているのか。
「あのな、バイト先にまでお前といるところを見せつけられる俺の気になってみろ。みなまで言わせるなよ」
「…………ああ、」
なるほど、と朝霧は声を落とした。
「萩野は、僕と一緒にいるのが気に食わないんだ」
「だからそうだって――」
「なら神永くんや百井さんなら? 同行者が彼らなら萩野は、相変わらず仲がいいな、で終わらせるんじゃないかな」
脳の奥で何かが弾けた。それは欠けていたパズルのピースがぱちんと嵌ったときに得るような、爽快感に似た何かだった。
――そうか。俺は、望月一人ならいいんじゃなくて、朝霧だから嫌なのか。
「これでも、親切のつもりだったんだよ。協力すると言ったのは本心だし、萩野のことは応援してる。……まさか嫌がられるなんて、思ってもみなかったな」
朝霧は寂しそうに笑った。彼の瞳に映る自分の姿を認識する前に、萩野は目を逸らした。今自分は、どんな顔をしているのだろう。どれほど醜い姿を晒しているのだろう。
萩野は朝霧の胸からゆるりと手を離し、「ごめん」と声にした。朝霧は乱れた襟元を直すと、「それで、萩野は僕が嫌いってこと?」と今度は真面目そうに問う。
「い、いやっ……そういう、わけじゃない」
好きか嫌いかと問われれば、朝霧のことは好きだし、尊敬している。バスケ部時代は憧れたこともあったし、天才天才と言われている彼が実はものすごく努力家なのも知っている。
しかし、あんなに努力し合ったバスケ部を辞めたことは、裏切り行為でもあった。連絡先を断られたときから気づくべきだったのだ。仲間だと思っていたのは、萩野だけだった、と。
「じゃあ望月くんを取られるのが怖いとか」
バチッと思考を絶たれて、萩野は瞳をしばたたかせる。
「……は? 取られる?」
「僕に、望月くんを」
そう片笑みで言う朝霧は、人差し指を自分に向けた後に親指を後ろへと向ける。
――こいつはいったい、何を言ってるんだ?
「ああ、取られるって、トモダチとしてという意味じゃないよ。僕と彼が、そういう関係になるってこと」
「……ありえない。お前となんて」
朝霧は、あははと声を上げて笑った。
「失礼だなあ萩野は」
「失礼なのは……あ、朝霧だろ」
「どうして?」
「れ、恋愛感情もないのに、そんな例え話するのは……」
ぷふっ。
朝霧は口元を隠し、背中を丸めて肩を震わせる。笑っているのか、その表情は見えない。
萩野は常識的なことを言ったつもりだった。気持ちもないのに関係は生まれない。好きという気持ちが確かでないのに、相手を無闇に振り回すのは失礼だ。
それに渉なら、相手が同性でも真剣に考えるはずだ。だから萩野も、足踏みをしている。
迷惑、かけたくないから。
「だ、第一、望月が好きなのは、
「相手が百井さんなら引き下がって、僕ならありえないの一言で貶すんだ。それって、男女差別じゃない?」
「違う……っ!」
反射的に声を荒げた。
「男とか女とか、そういうんじゃない……! 朝霧は、わかってない。好きな人に告白するのが、どれほど勇気のいることか!」
「勇気……ね」
口元を隠し続ける朝霧の両目はどこか上の空だ。もしかすると告白はされる側ばかりで、自らしたことはないのかもしれない。だが、自分を思う人たちを見ているのならなおさら――
「朝霧だって、好きな子がいたことあるだろ? なら、わかるだろ?」
表情、顔色、息遣い、声、身体の震え……。告白したことがないとしても、相手の様子から緊張感や覚悟は読み取れるはずだ。いや、そんな観察をしなくてもシチュエーションとか雰囲気とか、互いの気持ちと気持ちでわかり合えるものだと萩野は信じている。
萩野が訓戒を垂れるなか、朝霧ははっきりと目線を合わせ、くくっと含み笑いをした。何が可笑しいのか、ちっともわからない。
「まったく萩野は、僕が背中を押さないといつまで経っても駄目なんだから。諦めたらそこで試合終了だって、教わらなかったのかい――?」
言いながら朝霧はスマホを取り出すと、そこに映っている写真を見せた。画面に映っていたのは、保健室で眠る渉に顔を寄せている、萩野の姿だった。
「な……っ」
一瞬で顔全体を蹂躙した体温は下降するのも速かった。唇がわなわなと震え、声は喉元に引っかかって出てこない。たちまちのうちに舌が乾き切る。あれだけ水分を摂ったはずなのに。
萩野拓哉は戦慄した。寒い。身体が芯から冷えていくようだ。手足がガクガクと震えはじめる。鳥肌が総立ちする。
「キスしようとしてるみたいだね」
「っ……消せっ!」
一拍遅れで手を伸ばしスマホを奪い取ろうとするも、朝霧は萩野が踏み出すよりも速く後ろ手に回して「行儀悪いなあ」とステップを踏んだ。
「待てができないのなら、今ここで望月くんを呼ぼうか」
朝霧は萩野を見下ろし、にっこりと勝ち誇る。萩野は、伸ばした手を引っ込めて顔を覆った。
(俺は、朝霧の手のひらの上で、踊らされてたわけか……)
保健室で遭遇したあの時から、ずっと。
カーテンを開けた時スマホに目を落としていたのは、撮った写真を確認していたから。その後萩野に渉の写真を撮るよう勧めたのは、自分の盗撮をチャラにするため――
「自分の行動には責任を持たないと、だろ?」
お前だって、と言ってやりたかった。
朝霧のやっていることは、非に非をぶつけて、あいこにしているだけじゃないか。相手を雁字搦めにしているだけじゃないか……。解決でも、処理でもない。
萩野は下唇を噛んだ。
「……消す。だから……朝霧も、消してくれ」
頼む。と言った声は届いていただろうか。朝霧は、「萩野が望月くんの寝顔写真を持っていようと僕は困らないけど」と言って動じない。
「これだってただの寝顔写真だよ。そこに萩野が写り込んでいただけで――と言うのは、さすがに意地悪が過ぎるかな? 萩野、顔上げなよ。大丈夫。データはこれだけ。バックアップもしていない」
傷を癒やし慰めるような声で言われると、優しくされているような錯覚を覚えてしまう。惑わされるな。声の主は今自分を窮地のどん底に陥れている張本人だ。
「脅すのか、それで……」
目の前で証拠を掲げている時点で脅しに等しいのだが。萩野が震えながら訊くと、「さあ、どうかな」と言って朝霧はスマホをポケットにしまった。
萩野は、ふうーっ、と長めの息を吐き、
「わかった。告白してやる」
「してやるだなんて、それじゃまるで命令してるみたい――」
ただし、と声を大にして付け足した。
「俺との勝負に、勝てたら」
顔を覆っていた手をどけて朝霧を睨み上げる。
朝霧はゆっくりと首を傾けた。
「……勝負?」
「一対一の勝負。内容はこちらで決めさせてもらうし、俺が勝ったら写真は消去してもらう」
むろん、朝霧にメリットはない。乗るも乗らないも朝霧次第。
だけど朝霧修は――負けず嫌いだ。それも、萩野の知っている限り、極度の負けず嫌い。
勝負を持ちかければ、必ず食い付いてくる。
――望月のこと、弱みにして利用するのなら、こっちもお前のこと利用してやる。
「勝てば保守、負ければ革命か」
朝霧は顎に手を当てて考える素振りをした後、「いいよ」
「僕が勝ったらそのときは、望月くんに告白してもらう」
勝負を受け入れた朝霧の願望はどこまでも揺るぎない。
萩野は、落ち着きを取り戻しつつある自身の心音に耳を貸す。――決まりだ。
「勝負の内容は?」
「その前に……ひとつだけ聞きたい」
「何なりと」
本当は答えを聞くのにも嫌気が差すけれど、大切な人が関わっているかもしれないのだ。これくらいの勇気は絞り出してみせる。
「俺が告白して、朝霧に何のメリットがある?」
萩野の頬に冷や汗が伝うなか、朝霧はふふっと笑って、悪意ゼロの表情を見せた。
「目標に一歩近付く」
* * *
寝室の布団に仰向けで寝転がりながら、萩野はバスケットボールを顔の前で弾ませる。
(自分の得意分野で勝負を持ちかけるのは、ズルだよなあ……かっこわりぃ……)
週明けに体育館で1on1。時間は放課後の部活が終わった後で。月曜日はバイトもないし、部活時間も短いからちょうどいいだろう。萩野がそのように伝えると、「……バスケか。いいよ、それでいこう」朝霧は最後まで顔色を変えることなく快諾した。
(でもあの写真には、望月がいる。絶対に、負けられない)
「兄ちゃん風呂上がったよ」
寝室の襖が開き、風呂上がりの匠斗が見下ろす。
萩野は家に帰ると、夕飯を済ませたばかりの匠斗を呼んで、早速1on1の練習に取り組んだ。まだ中学生とは言え、匠斗もバスケ部。基本の動きくらいは身についている。
「なあ、匠斗は好きな子いるか?」
逆さまの弟を瞳に映しながら問うと、匠斗は「…………なんっ!」「ナン……?」
萩野が返す間に、匠斗の顔は見る見るうちに赤くなる。わかりやすい奴だ。
「もしかして今年おんなじクラスになった――」
「だあああぁ!」
匠斗は襖をぴしゃりと閉めて布団の上に盗塁した。萩野は慌てて人差し指を立てる。
「しーっ、
来未は今度七歳になる妹だ。長男である自分と、匠斗と来未を合わせて三兄弟。末っ子の来未は母親の部屋で眠っている。
萩野は匠斗と同室で、寝るときはいつも布団を敷いている。仲睦まじい自覚はあるが、一人部屋が欲しいと思わなくもない。
そんな一室に寝転ぶ萩野の隣に匠斗はあぐらをかいた。
「なんで? なんで急に、んなこと訊くんだよ」
「たまにはこういう話もいいかなっと思ってさ。で、その子のことが好きなんだろ?」
匠斗はむうっと口をつぐんで答えない。
「朝霧さんだっけ」
「なんで覚えてんだよ」
それとなく仄めかしてやると否定もなく匠斗は即答した。
――なんでってそりゃあ、兄貴が同じ高校の
名前は知らないが、匠斗が学年一頭のいい女子に恋してるというのは聞いていたし、今年一緒のクラスになって喜んでいたし、その子が『朝霧さん』と言うのは聞いている。繋げてしまえば、匠斗はその『朝霧さん』のことが好きなのだ。
そして朝霧修には、中学生の妹がいる。つまるところ、匠斗は朝霧の妹に恋しているらしい。
「朝霧さん、いつも一人でいるし、何考えてるのかわかんねぇし、声かけると睨まれるし」
「睨まれるのか……」
「でもだから気になるっていうか……って、なんで兄ちゃんに話してんだ!?」
一人突っ込みをして頭を抱える匠斗。朝霧兄妹の頭のよさは共通のようだが、性格は似ていないようだ。
萩野はうつ伏せに寝返りを打ち、「告白って、できる?」と訊いた。するとまたしても即答が返ってくる。
「できる」
「ほんとかぁ?」
匠斗は腕を組み、眉間に人差し指を当てた。
「……あれは五月半ばのことだった」
「ん?」
「空は曇天。風のないその日は小雨が降っていて、俺は昇降口で空を見上げる彼女に言ったんだ。傘忘れたなら一緒にどうってな」
急に語り出した弟を萩野は静かに見守る。
「そしたら、さ……折り畳み傘をスッと見せられた。しかも、無言で」
「お、おお……」
「俺は帰っていく彼女に向けてこう言った。明日の昼休み、中庭に来てくださいって」
「おお……」
(中学でも中庭は告白スポットなのか)
妙な口調で語りはじめたのも、中学二年生という難しい年頃のせいかもしれない。
「っと、それで?」
「振られた」
「話が急だなぁ……」
「彼女中庭に来てくれなかったんだ。後で教室に戻って尋ねたら、『どうして私があなたの頼みを聞くこと前提なんですか。あなた馬鹿なんですか』って……」
結局まだ告白には至っていないのだから、振られたわけでもないと思うが。遠くを見つめる匠斗の両目は心なしか潤んでいる。
「なんかそれ……クロネコと既視感だな」
「クロネコ? 確かに朝霧さんは猫っぽいけど……」
「真に受けなくていいよ」
学年一位の子だからというより単純に好きな子から言われるのはきついだろう。朝霧の妹はなかなか手厳しい子のようだ。
「まあそういうとこがいいんだけどね」
(匠斗はMなんだろうか)
弟のこの先が心配になる兄であった。
(でも、そっか……)
「匠斗も頑張ったんなら、俺も腹括んないとな」
萩野は膝を付いて起き上がると、匠斗の頭を撫でて風呂へと向かった。
勝負は明後日。勝てば保守、負ければ革命。負ける気なんて毛頭ないけれど、もしそうなったときは――俺も覚悟を決めよう。
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