萩野のバイト
学校でしているのとは異なる腕時計を巻いた左手で、スッと二本指を立ててみせる朝霧に、萩野の眉が平らになる。
「二人だけど、席空いてる?」
「……空いてる」
「萩野、バイトここだったんだ」
そう言った渉の私服はグレーの半袖パーカーに斜め掛けバッグ。全体的に年相応でアクティブな好印象。朝霧は白のシャツに大きめのニットベスト。こうして並んでみると、片や大学生に見えて仕様がない。
渉には以前ラーメン店でバイトしていると話したことがある。それは朝霧にも同じで、店の名前までは教えていない。
よって、『どうしてバイト先を知っているんだ』と訊きたいところだが、開口一番に偶然と言われてしまっては聞き出せそうにない。当の本人は「バンダナ似合ってるね。望月くんもそう思うよね?」などと渉に感想を促しているし。
「奥の席へどうぞ。二名様入りまーす」
萩野は湧き立つ疑心を抑えて、二人を席に案内した。渉と朝霧は向かい合って席へと着いた。バイト先で顔見知りと出食わすのはこれがはじめてである。
(望月が来てくれたことは嬉しいけど、よりによって朝霧と一緒か……)
渉は、人見知りの激しいタイプだ。萩野の目から見てもそう。
教室でも一緒にいるメンバーは決まっているし、自分から人脈を広げるほうではない。かと言って冷たい人間なのかと言うとそうではなく、心を開くまでに時間がかかるというだけで、情には厚い。
人付き合いは狭くて深い――それが望月渉だと萩野は思っている。
そんな渉が朝霧に接触したのが木曜日。翌日までには連絡先を交換し、休日は二人きりでお出かけ。あの渉が、だ。顔と名前も一致しない、ほとんど他人のような状態からスタートし、萩野のアシストもなしに。異様な距離の詰め方としか思えないが――
しかし、あのと表現できるのは渉だけじゃない。むしろ、こちらのほうが本命と言える。朝霧修のことだ。
手早く連絡先を交換した件も萩野にとってはすでに異常事態ではあるが、誰にも媚びず靡かずの優等生が、一個人に入れ込んでいる。人間関係は広くて浅い彼が、正反対の関係を築く渉の厄介になっている。
このことから察するに、距離を詰めているのは渉ではなく朝霧のほう。朝霧は最初から、渉に心を開ききっているのだ。――なぜ?
なぜ、渉なのか。その疑問は
でもこんな距離の詰め方をするのは、自分に対する当てつけ。
だってそうだろう。誰にも知られないよう、悟られないよう、ずっと心に秘めていた彼への思いを、朝霧に知られたのも同日――木曜日のことだ。
(望月に対する俺の気持ちを、朝霧は面白がってる。だからこうして今日も、バイト先にまで来て……。全部、俺への当てつけ)
それが萩野の抱いた、曇った思考の終着駅だった。
二人のいる席のベルが鳴った。ちょうど伝票を出したばかりの萩野がすかさず二人の元へ行く。
渉はこちらに笑顔を向けて、胸の前で小さく手を振っていた。渉が笑顔を向けてくれるだけで、身も心も報われるような気がした。
「ご注文はお決まりでしょうか」と萩野は尋ねる。渉はメニュー表を指差しながら言った。
「俺はこの醤油ラーメンで」
「ここの定番は担々麺なのにね」
そう言って朝霧が上目遣いで見るが、何を求められているのか。別に自分の好きなものを頼めばいいと思うが。指摘してほしいのだろうか。
表の看板にも担々麺が人気という表記はある。もし定番メニューを知っていることを突っ込ませたかったのなら無理だぞ朝霧。――とまあ、朝霧の行動に深い意味はないのかもしれないが、そのように挑発しているのではないかと勘繰ってしまう萩野である。
「んー……辛いの食えるか不安だし……。うん、醤油で」
「僕はメインの担々麺を、辛さは八で。麺はバリカタでお願い」
「えっ八ってマックス? 朝霧って辛党?」
「あ、望月くんの好きな唐揚げも頼めるよ。どうする?」
「どれどれ、これ? じゃあ分けて食う?」
「うん、いいよ」
辛さ表に惹かれて前のめりになった渉との顔が近いとか、二人で覗き込む必要があるのかとか、なぜもう好物を知っているのだとか、もう少し離れたらどうなんだとか、いろいろと言いたいことはあったが黙って注文を取り終える。
「八辛担々麺をバリカタでおひとつと醤油ラーメンをおひとつ、唐揚げをおひとつでよろしいでしょうか?」
「うん」
かしこまりました、と萩野は一礼して下がった。
ほかの客にメニューを運んでいる最中も、片付けに回っている最中も、萩野は二人に意識を向けていた。渉と朝霧が二人でいるところを視界に入れておきたいような、入れたくないような。それでいて聞き耳を立ててしまう自分自身にため息が出る。
「辛さの値はスコヴィルと言ってね、イタリアンで扱われるタバスコだと大体二千五百から五千スコヴィル。ハバネロソースだと約八千スコヴィルらしいね」
「なるほど全然わからん」
「国内で出回ってる代表的な唐辛子が三万から五万スコヴィルだよ」
「えっ、唐辛子のほうが高いんだ? 原料だからか」
よくもまあそんな
「数値で見ると罰ゲームの十八番もたいしたことないなって思わない?」
「数値で見るとな……。辛いもの好きなの?」
「得意なほうではあるよ。望月くんは苦手そうだね」
「そんなことない。コーヒーはブラックで飲めるし」
「中学生みたいな自慢でドヤ顔?」
ドン、と。早足で二人に近付いた萩野は、片手ずつ器用に運んだ品々をテーブルに置いた。
「――担々麺と醤油ラーメンお持ちしました」
置く前に言うのが常だが、今回ばかりはつい手が滑ったと言えよう。そして、つんつんと渉の頬を小突いていた朝霧をじろりと睨んでやった。
朝霧は何食わぬ顔で肩をすくめて戯けてみせる。渉はラーメンに目を落として嬉しそうに両手を合わせた。
「うまそうー!」
「唐揚げは後で来ると思うから、ゆっくりしててくれ。な?」
最後にもう一度朝霧に睨みを利かせて萩野はその場を後にした。この店で最大の八辛担々麺を頼んだ客は、バイト中の萩野が知っているなかだと朝霧がはじめてである。完食できるものならしてみろというものだ。
渉は箸でちゅるちゅると麺をすすっている。一方で朝霧はレンゲに移して上品に食べている。
「うまっ、めっちゃうまっ」
――望月が、喜んでくれている。
自分が作ったわけではないが、店の料理をおいしいと言ってもらえるのはバイトとしても嬉しいものだ。
(俺も望月と一緒に食いてえな……)
来週にでも休みを取って二人で遊びに出かけたい。朝霧といるところを見るとそんな気持ちが強くなる。あの間に、自分も入りたい。どうして俺じゃなくて、朝霧なんだろうと。誰に向けてでもなく抗議したくなる。
二人の唐揚げは、萩野が接客をしている間に届けられていた。ホール仕事に熱を注いでいるうちに昼のピークも過ぎたようで、休憩時間が訪れる。
まかない飯はラーメンだ。
「拓哉くん、何がいい?」と店長が訊くので、「今日は醤油で」と、萩野は渉と同じものを頼んだ。できあがったまかないを持って端の席に着こうとしたとき、朝霧が手招きをした。――俺? と自分に人差し指を向けると、朝霧はうんうんと首を振る。
「ここで食べなよ」
朝霧は渉の隣を指差した。萩野は醤油ラーメンの乗ったお盆を持って立ち尽くす。渉は唐揚げに食らいついたまま頷いて腰を動かした。
(なんで……?)
挑発しに来たんじゃないのか。どうして渉の隣を勧める?
朝霧への疑念が拭えないまま、萩野は渉の隣に腰掛けた。
「萩野も醤油ラーメン? 俺と同じやつ?」
「ああ、同じのだよ」
渉の問いに答えてから合掌し、いただきますと口にする。麺は汁が飛ばないよう箸とレンゲを使ってすすった。朝霧も担々麺の残りを食べている。中身を見てやはり辛そうだなと思ったが、朝霧の顔色はまるで変わっていない。
「二人はこんな休日に、どこで何してたんだ?」
気分的に朝霧には尋ねたくなかったので渉に目線をやると、「あー、えっと……勉強を……」と微妙に濁った返事が返ってきた。
「勉強?」と聞き返すと渉はこくりと頷く。すると補足するように朝霧が口を開いた。
「そ、図書館でね。僕は望月くんに勧められてコナンを読んでただけだけど」
「コナン・ドイルな」
「望月って推理小説が好きなんだ?」
「まあそれだけじゃないけど、小説は好きだよ」
本好きというと教室の隅で一人静かに嗜んでいるイメージがあるが、渉には当てはまらない。それは休み時間、決まって教室に現れる親友のせいかもしれないが、渉の周りは案外賑やかだ。しかし言われてみれば、図書室の利用回数はクラスでも多かった気がする。
「勉強は、数学とか?」
再び萩野が尋ねると、渉は眉間にしわを寄せて「英語」と答えた。その不機嫌な様子に萩野が首を傾げると、朝霧はくすくすと忍び笑いをする。
渉は、おもちゃを買ってもらえなかった子供みたいに口をへの字に曲げて腕を組み、朝霧に親指を向けた。
「こいつ、俺が英語の勉強してる横でシャーロック・ホームズの原典読んでんの。しかもすげえ楽しそうに。マジで悔しかった」
「きみが勧めたんだろ」
「別に原典とは言ってない」
朝霧は萩野の目を見て「ずーっとむくれてるんだよ」と笑った。萩野も釣られて頬を緩ませる。
「勉強頑張れば望月も読めるようになるよ」
「そうそう。いい目標になっただろ?」
「それはそうだけどさぁ……」
なおも渉は唇を尖らせていた。微笑ましくて笑い声が漏れた。
図書館で勉強に読書。至って健全で真面目な休日の過ごし方である。さすがに勘繰り過ぎたか、蓋を開けてみればこんなものだ、と萩野は安心感を覚えた。
「なあ、それうまいよな? って俺より萩野のほうが詳しいか」
へへへと隣で笑う渉。実際、店長の作るラーメンは最高だ。種類もバリエーションも豊富な上、毎日食べても飽きない。こんなふうに渉に気に入ってもらえるのなら、店のことをもっと早くから知らせておくべきだったと萩野は思った。
「この担々麺だっておいしいよ。スープ飲んでみる?」
朝霧は真っ赤なスープをレンゲで掬って、渉に差し出した。
「か、辛そう……」
「平気だよ、おいしいから」
「うまいだろうけどさぁ……」
「ほら、あーん」
(あーん、じゃない!)
ぐっと覚悟を決めた渉の唇がレンゲに触れる前に、萩野は朝霧の手を握って横にスライドした。レンゲのなかで揺れるスープをズズズ、と吸って流し込む。
「あ。おいおい萩野、横取りぃ?」
「だって望月嫌がって……っ、か、辛っ!」
意外と大丈夫だなと油断した矢先、突如口内を襲った刺激に思わず咳き込んだ。一口味見しただけでドッと汗が吹き出る。口が痛い、舌が痛い、喉が痛い――でもおいしい。
「ほら水水水!」と渉にコップを手渡されて一気飲みするも、辛味は引く気配がない。朝霧は愉快そうに笑っている。なんて奴だ。
「おいしいだろ」
「うまいけどっ……辛すぎだろっこれ!」
朝霧の食べた器のなかはわずかにスープが残っているだけだし、汗ひとつ浮かばせないでよく平然と食べれたものだ。というか辛いものが好きとか得意とか、それ以前に耐性が強すぎるだろう。
「水、取ってくる」
「僕も付き合うよ」
はあ――? と、勢いで立って後ろに続いた朝霧を振り返ると、彼は渉から見て死角の目でウインクした。バスケのアイコンタクトでも見せたことのない意図的な仕草に萩野はドキリとする。
話がある、ということか。それはこちらも同じだ。
「望月くんは唐揚げ食べてていいよ」
「お、おう……」
やっぱ辛いんだ……と不安げに呟く渉を置いて萩野と朝霧は席を立つ。ちょっと待っててな、と声を出す余裕もなく、萩野は片手で『ごめん』のジェスチャーをするのがやっとだった。
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