命短し、恋せよ男子

 退部した朝霧、すっかり幽霊部員と化した新堂。朝霧の枠はともかくとして、新堂の穴を埋めるべく新入部員の勧誘をはじめた頃、一年生の間で妙な話を耳にした。

『D組の男子が助けてくれた』『帰宅部なのに体力がある』『彼のおかげで走者が補えた』

 噂の出どころは剣道部、野球部、陸上部。どの話も一時的な処置に過ぎないが、怪我人や欠席者に代わって部活に参加してくれる生徒がいるらしい。

 特徴は、『無愛想で人見知り』

 萩野は早速D組に向かい、クラスメートから席を聞き出して彼の元を訪ねた。


 彼は、次の授業の資料を机の上に出して整理していた。その容姿は想像していたよりも小柄――と呼ぶよりはがっしりしているが、しかし頭の位置は低い。背の高いスポーツマンを勝手にイメージしていた萩野は『本当に彼が?』と半信半疑で声をかけた。


「きみが望月……渉?」


 彼ははたと手を止めて、隣に立つ萩野を見上げる。噂で聞いていたよりもずっと大人しそうな顔つきは、目が合うや露骨にしかんだ。言葉にしなくとも「誰?」と顔に書いてある。なるほど、無愛想で人見知り。

 萩野は、そんな目で見なくても、と内心冷や汗をかきつつ自己紹介をした。


「俺、一年C組の萩野拓哉。えと、部活を手伝ってくれるって聞いたんだけど」

「雑用ならほか当たってくれ」


 そっぽを向いた彼の肩を萩野は咄嗟に掴み、「いやいやいや! 部員! ていうか補欠? が足りてなくて、今探し回ってるんだ」と説明した。借りてきた猫みたいに縮こまった彼は、肩に置かれた手を見て考えついたように顔を上げる。


「お前バスケ部?」

「え? おう!」

「無理だな」

「えっ」


 どうして部活動わかったんだと喜ぶ暇もなく断られてしまい、萩野はパッと手を離した。彼は頬を掻きながら「ヌギ先輩のとこか……」と唸っている。


「そっか……無理なら、仕様がないか」

「体育館でいいの?」


 え? と萩野が聞き返す前に、


「てか迎えに来て。えーっと、萩野」


 それが、当時一年D組にいた彼――望月渉との出会いだった。


 百七十センチにも満たない彼の身長は、バスケ部一年と並んでも低く見えた。萩野よりも五、六センチは下だろう。放課後体育館に連れていくと、紹介するよりも先に先輩のほうが声を弾ませた。


「ワタ公! どうしたんじゃ、助っ人か? 助っ人か?」

「人違いです」


 二年生の四月朔日とは中学からの知り合いのようらしく、萩野が「助っ人です」と言った流れで自然と紹介がはじまった。ムッとした顔で四方八方に城壁を建てている渉の第一印象は悪かったと思う。

 渉は、自分を構おうとする四月朔日先輩を「いいよ萩野に教えてもらうから!」と跳ね除けて、意外にも萩野にくっついていた。


 萩野は野犬を手懐けてしまったような感覚を抱きつつ、後をついてくる渉の面倒を見ることになった。自分が連れてきたのだからそれくらいはしよう程度の軽い気持ちだった。と言ってもバスケの基本的な動きやルールは知っていると言うので、特に教えることもないのだが。

 ランニングでほかの一年生が遅れを取るなか、渉は萩野と並んで先輩たちの後ろについていた。噂どおり体力には自信があるらしく、敏捷性も高かった。何より飛び抜けていたのが、柔軟性。


「もっ……ちづき、身体柔らか! えっ、何か習ってた?」


 萩野はストレッチ中、ほとんど百八十度の開脚をした渉の背中を押して声を上げた。手のひらには何の抵抗感も伝わってこず、渉は平気な顔をして床に身体を密着させている。


「あー、柔剣」

「ジューケン?」

「柔道と剣道」


 渉が腕を広げると、引き締まった背筋と肩甲骨が萩野の手のなかでぐりぐりと動いた。筋肉がほどよくついていて、さらに関節が柔らかい。例えるなら虎やヒョウ……みたいな。


「なあ、正式にバスケ部入ってみねえ?」


 部活が終わって片付けをするさなか、萩野は思い切ったアプローチをかました。


「先輩に知り合いもいるみたいだし、もちろん俺もサポートする。どう?」

「でも俺、飯作んなきゃだし……あと買い物も」

「買い物……?」


 なんで? と言いかけて口をつぐんだ。

 もしかして、と浮かんだ萩野の考えは大方当たっていた。


「うち家事担当みたいのやってて、それで……あまり遅くまでいられない。遊べる日も、決まってるんだ」

「……そう、なんだ」

「うん。でもそれは俺が好きでやってることだから、文句はない。それに部活やるなら徹底的にやりたいしな」


 萩野の家も大概苦労しているが、渉の家も苦労しているのだ。偉いなと思うと同時に親近感が湧いた。


「徹底的……」


 萩野が繰り返し言うと、渉はこくりと顎を引く。


「やるからには全力でやりたいじゃん? 周りに迷惑かけるのも嫌だし、半端なのは嫌いでさ」


 ちくりと心臓に針が刺さった。部活をしていない彼のほうが、自分より意識が高いなんて。

 萩野はその言葉に恥ずかしさを覚えたが、渉はすぐに「あ、勉強は別。勉強は別な」と人差し指を立てたのだった。

 無愛想な顔つき。態度。真面目な姿勢。遠慮のない身体能力。子供らしい、素直な言い草。

 彼の言葉一つひとつが、萩野の胸に縫い付けられていく。

 どこまでも誠実で偽ることを知らない渉に、萩野は心の底から笑った。


「望月って、面白いな」

「そう?」

「うん。また、迎えに行くから。バスケ、一緒にしよう」


 気が向いたときにな。そう言って渉は、ふわりと破顔してみせた。自分にだけ向けられた特別な笑顔――そんなふうにまた勘違いしそうになって、萩野は自分の意志を否定した。

 それからというもの、放課後部活に渉を誘いに行くのが萩野の日課となった。


 いつしか渉は『便利屋望月』と呼ばれ、部活だけでなく休み時間の雑用や頼み事をも任されるようになった。一年生を受け持つ教師には以前から頼りにされていたようだが、本人に自覚はないらしい。

 いいように扱われている渉を気の毒に思わないと言えば嘘になる。が、当初萩野が拒否されたように、受ける相手の調整は渉自身適度に行なっているため心配はいらないようだ。


 放課後の渉に会えない日は、恒常的に夢で見るようになった。一緒に部活をしていたり、他クラスだというのに教室で勉強をしていたり。帰路を共にしたり、行ったこともない渉の家にお邪魔したり。

 はっきりと意識しはじめたのは、朝起きて下着を洗う羽目になった時から。あったのは驚きと、渉に対するこの『好き』が、友達に抱く『好き』とは違っていたのだと気づいた衝撃のみ。美しくもない、低俗なきっかけ。

 恋は下心と言うが、あながち間違いではないらしい。




 そうして、現在。


「好きなんだ――――友達として」


 萩野拓哉は、望月渉に――告白したうそをついた


(……違う)


 違う、違う……。頭のなかで繰り返し、否定する。

 友達としてなんかじゃ、ない。

 ――俺は望月が好きで、大好きで。優しいところも、無愛想なところも、消極的なところも、頼ったらすぐに駆けつけてくれるかっこいいところも、不意に見せるあどけない笑顔も、全部大好きで。でも、この好きは、普通の好きとは違ってて。口にするのが怖くて、断られるのが怖くて、関係が崩れるのが怖くて、ずっと、抑えるのに必死で、


「おう! 俺も萩野のこと好き」


 今も、そんなふうに笑うから。

 ――逃れられなくなる。

 渉の唱える好きは、きっと絶対、萩野の好きとは違う。でも彼の「好き」という言葉が、萩野の胸で反響する。

 ――好き。好き。望月が俺のことを、好き。

 反響はバスケットボールのバウンドする音によって遮断された。朝霧が拾ってパスしたボールが、萩野の腕のなかに収まる。


「着替えてきなよ。待っててやるからさ」


 腰に手をやる朝霧に、萩野は「あっ、いや、」と首を振った。


「先帰っててくれ。片付けもついでに――っ」


 何気なしに左手でボールに触れた途端、薬指がつきりと痛んだ。指を曲げて見ると、爪の隙間に血が滲んでいる。試合中に擦れたとき、爪の間も傷付けたらしい。


「怪我してるの?」


 自分の指を見つめる萩野に渉が駆け寄る。萩野は怪我を見せないように手をひらひらと振った。


「平気平気、たいした怪我じゃないから」


 自分の怪我を、それも血なんて、好きな人に見せたくない。痛みを我慢してでもかっこつけていたい――

 渉は胸ポケットから生徒手帳を引き抜くと、なかから青色の絆創膏を取り出した。萩野の心が『えっ』と跳ねる。


「これやるよ。見せて」


 渉は、呆けている萩野に手を差し伸べた。握っているのは、絆創膏だけれど、

 土曜の朝に見た夢と、光景が重なる。

 萩野は恐る恐る、左手を前に出した。渉は両手の指先を器用に使って、「これでよし」萩野の薬指に、くるんと絆創膏を巻いた。


「ほんとに先行っていいの?」

「…………っへ? あ、ああ! うん」


 呆気にとられて数拍間が空いた。萩野は「ありがとな」と淀みない笑顔を返すと、手持ち無沙汰で薬指をぷらぷら動かした。

 渉は右手を口元に寄せて、「じゃあまた、明日。クロネコさんにもよろしくな」と最後は声を落として言う。萩野はやはりロボットのようにぎこちなく首を縦に動かした。


「クロネコさんって何? ペンネーム?」

「ヒミツー」

「えーっ、内緒の話?」

「お前耳いいな」


 鞄を持って体育館を出ていく渉と朝霧。二人の声が遠ざかり、体育館に静寂が訪れる。

 萩野は左手薬指に添えられた宝石を見つめた。

 指先だし、体育館だし、観客もステンドグラスもスーツもないけれど、紛れもない――ここは、式場だ。

 目の奥が熱い。試合に勝った喜びと、安堵と、彼に対する持って行き場のない感情が波のように押し寄せる。胸のなかに広がる炎も煙もとっくに消えてしまっていた。


「ははは」


 嘘。何もかもが幻想。お似合いだな、わかってるよ。鉄骨だらけの天井を見上げ、萩野は空々しく笑った。


「せめて花びらが、舞ってたらな……雰囲気、出たのに」


 桜じゃなくていい。造花でいい。誰かこの心を攫ってくれないか。




「――萩野?」


 隙間風のごとく入り込んだ声に萩野の肩が震えた。

 二人が出ていった扉に目を向けるが、誰もいない。突かれたように振り返ると、反対側の扉から黒い影が顔を覗かせていた。


「あれぇ、渉は? 来てない?」


 萩野はごしごしと目元を拭った。滲んでいた影は、神永響弥のものだった。なぜここに? と思ったが、言葉のとおり渉を探しにやってきたのだろう。


「望月ならさっき帰ったよ。神永こそ、今日は遅いんだな」

「いやぁ職員室で説教食らっててさぁ……ってか萩野、なんで泣いてたの?」


 気づかれたことでまた涙が出そうになる。まさか、見ていたのだろうか。萩野は「泣いて、ねえよ」と鼻をすすった。

 響弥は上履きを脱いで館内に上がり、萩野の顔を覗き込む。泣き顔なんて見るなよと、必死に顔を背ける萩野を響弥は磁石のようにゆらゆらと追った。

「やめろ……」萩野が鼻声で言うと、「うぅむ」と。響弥は渋い顔で腕を組んだ。


「事情はわかんねえけど、いろいろあったんだな。泣きたいときは泣こうぜ。泣いてもイケメンは崩れん!」


 見れば見るほど人懐っこい顔で物を言う響弥。もう放っといてくれと言いたいところだが、激励されているのは伝わるので萩野は曖昧に苦笑する。

 響弥は唐突に「あ、そうだ!」と拳を手のひらで叩いた。


「このあと俺んち寄ってかねぇ? ちょうど渡したいものもあったし」

「……渡したいもの?」

「そう。渉から預かってたんだけど家に忘れてきちゃって」


 これくらいの箱なんだよ、と響弥は指でフレームを作る。渉が萩野に贈るものとは、いったいなんだろう。なぜ響弥に預けたのだろう。疑問と興味が同時に疼いた。


「なんかバレンタインチョコでも入ってそうな、薄いやつ。……マジでチョコだったら早く食わねえと」

「わかったわかった……向かうから。神永んちって、遠い?」

「全然、すぐ近く」


 六月にバレンタインチョコなんて冗談、季節外れもいいところだが、渉から贈られるものなら何だって嬉しい。いや、今でも日常的に料理はしているだろうから、お菓子作りが得意であっても不思議じゃない。そんな淡い期待に萩野は胸を膨らませる。

 萩野はバスケットボールをカゴに入れて、着替えることなく体育館を後にした。


 恋する願いが脆く果てるとも知らずに。

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