初夏、忌まわしきメモリー

 住宅街のあちこちからジリジリジリジリと、夏の熱気を音で表すかのように、アブラゼミが命の主張を繋いでいる。朝霧修は、玄関前にひっくり返っていたまだ生きたままの昆虫を蹴り飛ばし、扉を開けた。

 靴箱の脇に、妹の虹成が、腕を組んで立っていた。


「おかえり」

「ただいま」


 朝霧にとっておかえりは、妹以外には言われない言葉だった。それは帰宅時間とは関係なく、両親には、いてもいなくても使われない。


「お出迎えなんて珍しいな。寂しかったのか?」


 兄と違って家族の前にいても疎まれない虹成は、大体リビングで勉強しているか、ソファーでゆったりと寛いでいる。こんなふうに玄関で迎えてくれたのははじめてだった。父も母もまだ帰ってきておらず、仕事中のようである。

 靴を脱いだ朝霧に、「聞きたいことがあるんだけど」と虹成は言った。その顔つきが浮かないことに気づき、「シャワーの後じゃ駄目?」と朝霧は先延ばしを図る。

 虹成はもどかしそうに唇を小さく開閉し、ぎゅっと噛み締めた。今すぐ言って楽になりたいのか、腕組みは解かれない。隠し事や警戒心を抱いている証拠である。

 仕方なく朝霧は、冷房の効いたリビングのソファーに腰を掛け、「何だよ」と先を進めた。


「クラスの子が……変なこと言ってたの」

「どんな?」

「あんたと……、寝たって……」


 朝霧はぱちぱちと瞬きをして、「それで?」と涼しい顔で聞き返す。


「いやだから、ありえないよねってこと。でしょ?」


 虹成の慕ってきた優しい兄ならば、ありえないよと笑顔で答えるだろう。だが藤北の三年生よりも賢い虹成は、ここで嘘を並べてもいずれ真実に辿り着く。

 誤魔化しても無駄ならば、黙らせるしかない。


「別にありえなくないよ。十三歳のはじめてを僕に捧げたいって言ってきたから」

「――は?」


 妹は途端に攻撃的な口調で、あからさまに顔つきを歪めた。不安そうな面持ちが一瞬にして嫌悪感へと転じる、お手本のような変化に感心してしまう。


「は、いや、何、どういうこと? あんたマジで言ってんの?」

「だから、誕生日を迎えて性的同意年齢に達したから」

「そんなこと言ってるんじゃない」


 虹成はさらに声を荒らげた。言葉を遮られた朝霧は、とりあえず先を促そうと口を閉じる。センシティブな話題に触れているにも関わらず、少しの焦りも見せない兄に、虹成は片頬を引きつらせた。


「つ、付き合ってないでしょ? 付き合ってないのにやったの? 中一と高一が? それで一昨日帰りが遅かったわけ? あんたバイトって言ってたじゃん!」

「バイトだよ。はじめては先輩がいいですって、お金払って頼まれたんだ」

「はあ? お金? あんた年下の女子からお金受け取ってやったの?」

「そうだよ。仕方ないだろ、熱心に頭下げてきたんだ。いい子だったよ」


 実際は頼まれたときに一度断り、お金がかかることを遠回しに話して巧みに誘導したのだが。お年玉で好きな男に抱いてもらえるなら本望だと彼女は思ったようだ。一途でいい子じゃないか。

 虹成は「信じらんない!」と地団駄を踏んだ。そんなに怒ることだろうか、心の欠けた朝霧には共感ができない。しかし怒りの理由は理解できる。

 朝霧はソファーで天を仰ぎながら、


「兄の交友関係に口出しするなよ。思春期特有の潔癖症か?」


 兄妹喧嘩らしく面倒くさそうにあしらってやると、妹はわなわなと身体を震わせた。暑くもないのに顔を火照らせて怒りを滲ませる。朝霧は悪意のある笑みを浮かべて続けた。


「でも、そうか、喋っちゃったか。自慢したくて仕方なかったんだろうな。彼女、お前のこといじめてたし。中学生じゃまだ早かったかな。次は黙らせるよ」


 年下はなるべく避けていたのだけれど、こういった失敗も経験のうち。朝霧はソファーでうんと伸びをし、妹の殺気には知らんぷりでリビングを出た。

 虹成は、自分をいじめていた同級生に身内を取られたから怒っていたのだろう。虹成に友達がいないのはその同級生が原因だったのだ。

 兄はそのことを知っておきながらも、いじめっ子の気持ちに応えた。兄だけは味方でいてくれると信じていたのに。現実の兄は敵の誘いを断りもせず、開き直っている。虹成にとって、兄のしたことは紛れもない裏切り行為であろう。


 その日から、兄妹の関係は著しく悪くなった。正確には、兄に対する妹の態度が変わったと言うべきか。朝霧が話しかけても虹成は無視するばかりで、顔も合わせてくれなくなった。それは兄に対する両親と同じ冷たさだった。彼をいないものとして扱う日常が、虹成のなかでもはじまったのだ。


 だが虹成がいじけていられたのは、たった三日間だけだった。


 虹成をいじめていた同級生の父親が、自殺した。噂じゃ脱税がバレたとか、それで会社をクビになったとか。借金も抱えていたらしく、父親の死で彼女は家に引きこもるようになり、学校にも来られなくなった。

 彼女が街を去ったのは、虹成が兄のヒミツを知ってからちょうど一週間後のことだった。


 あの子がいなくなるのは、兄にとって都合のいいことだ。こんな短期間に、こんなタイミングで……偶然にしてもできすぎている。あまりにも早すぎる制裁だと、虹成は考えたのだろう。

 絶対あいつが何かしたんだ。止めるべきは兄のほうだ。偽りの正義に突き動かされた虹成は、朝霧のパソコンから、削除されたFAXを見つけた。内容は完全に消去されてしまっているものの、その作成日から同級生の家に送られたもので間違いない。送信履歴がないのは、コンビニから送っていたからであった。


 虹成は、兄と同じやり方で密告した。送る先は、藤ヶ咲北高校裏掲示板サイト。多くの藤北生が集まるこの場所で、兄のヒミツをバラしてやる!

 掲示板に書き込めるのは、承認された藤北の生徒のみ。しかし試しになりすましで登録を試みれば、あっさり承認されてしまった。適当だなぁと、虹成は思っただろう。そして送られてきたリンクを踏んで、サイトのホームに潜り込んだ……。


『一年A組の朝霧修は、中学生と寝てお金を受け取っている』


 サイトを運営しているのが自分の兄で、アドレスから虹成だと特定し、ダミーサイトのリンクを送信したとも知らずに――妹は罠にかかった。

 その日の夜、朝霧は虹成の部屋に踏み入った。虹成が、脱いだ制服をハンガーに掛けた瞬間のことだった。


「ちょっ、勝手に――っ!」


 悲鳴を上げなかったのは褒めてやる。いや、叫んだところでこの家には、助けてくれる親はいないのだけれど。

 朝霧は、眉をひそめる妹をベッドに押し倒し、着ていた体操服を自然な手つきでめくった。経験のない妹は何をされているのかもわからなかったはずだ。兄の持つスマホをしばらくぽかんと見つめ、「ひっ……」と喉の奥で悲鳴を生成したときにはもう朝霧は上からどいていた。


 虹成の悲鳴を真に聞いたのはその翌日。


「もうやだ……助けて……助けて……助けて……助けて……」


 錯乱した妹の泣き声が、薄い壁を通して朝霧の部屋まで聞こえてくる。

 下校中、虹成は知らない男たちに声をかけられた。その内容は、『きみが虹成ちゃん? お金に困ってるってほんとかな?』『おじさんたちといいことしよっか』と、こんなものだろう。怯えきった虹成は必死に家まで逃げた。そこで、先ほどの悲鳴に繋がる後押し。

 知らないアドレスから、『おかえり』とメールが送られてきたのだ。


 気づけば朝霧は、虹成の部屋の椅子に腰掛けていた。


「助けてやろうか?」


 ベッドの上でタオルケットに包まっている妹の泣きっ面の前に、朝霧は自分のスマホ画面を持っていく。映っているのは、アダルトサイトの掲示板。

『中学一年生の虹成ちゃんです。援助交際募集中!』と、下着姿の写真付きで書き込まれたページを見せてやった。

 虹成は、赤みと蒼白の混ざった紫色の顔で朝霧を睨んだ。


「あんたの、せいで……私、もう、」

「自分のせいだろ」


 見捨てるように、兄は言った。


「僕のことを流そうとしたんだから、自分が同じ目に遭っても文句はないよな? それともオツムの弱い虹成ちゃんは、やり返されることを想定していなかった?」

「あんたが最低なのは……ほんとのことでしょ」

「お前が誠心誠意謝罪するなら今すぐ止めてやろう。どうする?」

「止まるわけ、ないでしょ」

「いいから」


 僕を信じろよ。

 本当に、どの口が言っているのか。朝霧は軽口を叩きながら足を組む。虹成はタオルケットを握り締め、憎々しげに目線を逸らした。


「……謝る……謝るから、やめさせて……」

「もう二度と口外しない? ネットにも書き込まない?」

「……しない」


 口約束は信用していないが、妹の下着姿は昨日撮ったもののほかに何枚か持っている。目の前で撮影してみせたのは脅しのようなものだ。また下手な真似をしたら、そのときは――

 朝霧はゲーム仲間に電話をかけた。下校中の虹成を呼び止めた、強面の二人組である。協力してくれてありがとう、お疲れ様と手短に伝えて、雑談もせぬまま電話を切る。

 虹成は涙を引っ込めて首を傾げた。


「どういうこと? 私のこと、掲示板に流したんじゃないの?」

「流してないよ。優しいお兄ちゃんだからね」

「でもあんたのことは――」

「流れてないよ。賢いお兄ちゃんだからね」

「……なんであんたにそんなことが、」


「詮索するなよ」と、朝霧は妹の言葉を遮った。「次はない。お前は自分の手を汚さず、いつか兄が自滅する日を待ち望むしかないんだ」

 救いのない人間に伸ばす手なんてないだろう?


 朝霧修はそう告げて、三日後に家を出た。以来、虹成とはろくに会っていない。最初のうちは私物を取りに何度か訪れていたが、クリスマスも正月も、朝霧家にはないようなものだ。

 もうすぐ一年が経つ、朝霧兄妹の夏の分岐点。

 兄妹が顔を合わせるときは、必ずと言っていいほど仲介役がいた。どのパターンも、巡り合わせてきたのは朝霧修の彼女、小坂めぐみだった。




 朝霧がショッピングモールに駆けつけたとき、小坂は両手に袋を提げて入口の先に立っていた。呼び出しの理由は荷物持ちか。小坂にそんなつもりはなくても、優等生朝霧修ならそうするためイコールである。


「めぐみ……! 大丈夫か……っ?」

「うん……ごめんね、修」


 奥のベンチでクレープを食べている虹成のことは一旦無視して、朝霧はテンプレートの心配を口にし、テンプレートの謝罪を耳にする。悪いと思っているのなら、なぜ嘘の呼び出しをやめないのだろう。それとも一度叱られないとわからないのか。小坂は「あのね、実はね、虹成ちゃんと――」と、遊園地と同じ言い訳を開始した。

 朝霧は、両脇に買い物袋を置いてこちらをじっと見つめる妹に顔を向け、呼び出されたのが買い物終わりでよかったな、と心で慰めた。


「別に一人で帰れますから」


 ショッピングモールを出た後、虹成は帰路を付いてくる小坂めぐみを突っぱねる。朝霧は小坂の荷物を持ちながら二人の後ろを歩いた。

 虹成の機嫌は、兄と合流してから途端に悪くなっている。それが小坂には一ミリも伝わっていない。兄妹の仲が粉々だということに、いい加減気づかないのか。

 今日が雨だったらこんな面倒事も洗い流してくれるのにと、朝霧が空を見上げたそのとき、


「ねえ、あそこにいるの、藤北の生徒じゃないですか?」


 虹成は足を止めて、高架下を顎で指し、

「藤北にもああいう連中っているんですね」と、ゴミを見る目で言い放った。


    * * *


 学校から近くの高架下に、六人の藤北生が集っていた。建物の影が落ちて人目の付かなくなった広場に、カラフル頭の五人が一人を囲む形で追いやっている。その何人かは尻餅をつき、はあはあと息を乱していた。


「てめぇ……クソ陰キャのくせに」

「んなこと言われても……」


 言いながら殴りかかってきた宮部の攻撃をかわして、望月渉は、彼の腕を後ろ向きにひねる。ギャアッと雄叫びを上げた宮部を地面に転がして、「もう帰っていい?」と渉は頭を掻いた。

 放課後、校門前で待ち伏せていた宮部率いる不良たちに連れられて、渉は高架下で襲撃を受けた。だが結果はこのとおり。立っているのは渉のみで、ほか全員は地面に張り付いて動けなくなっている。

 集団リンチをすれば勝てると思ったのか。こう見えて剣道も柔道も習っていたし、一応黒帯持ちなんだけど……。見た目で判断したのか、相手が悪かったなと望月渉は同情した。


「いいのかよオレらに盾突いて。お前幼馴染いる――」


 言うが早いか、渉は宇野の胸ぐらを掴んでギリギリと襟を締め上げる。顔色悪く泡を食う宇野は膝立ちで涙を浮かべた。


「ダサいんだよお前ら。狙うなら俺にしろ」


 女子を人質に使うなんて、どこまで性根が腐っているんだ。弱い者いじめをしているみたいで気分が悪い。

 渉は宇野を放り捨てて、自分の鞄を拾い上げた。宇野の咳き込みに重ねて、「クソ野郎……」と辻が歯を食いしばる。先に仕掛けてきたのはお前たちだろ。


「ちなみに凛は俺より強いから」


 やめたほうがいいと思うぞ。

 渉は事実のみを言い残し、その場を後にした。彼らに食らわせたのは柔道と護身術の関節技ばかりで、殴る蹴るの暴力はしていない。せいぜい腕を痛めたくらいだろう。

 背後から、「覚えてろよ!」とお決まりの台詞が飛んでくる。肉をすり潰すような誰かの歯軋りが酷く耳に残った。

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