親愛なる姉妹
散々な一日だった。
散々な一日だった。
あれから新堂は教室に戻ってこず、無許可で家に帰ったそうだ。鞄は移動教室をしている隙に取ったのだろう。クラスの男子がすぐに気づいて、「新堂帰ったっぽいな」と囁き合っていた。
渡邉は生徒指導室で反省文を書かされた後、保健室で手当を受けて戻ってきた。渉が声をかけると、「気にすんな」と肩をすくめ、「俺は望月の弁当好きだぜ」と庇ってくれて。その一言に僅かながらも心が救われたが、彼の腫れたこめかみは痛々しく、渉は膨れ上がる罪悪感に潰されそうになった。
瞼の裏には、怒りをあらわにする新堂明樹の姿が鮮明に焼き付いている。プラスチックの弾ける音が、男子たちの怒鳴り声が、女子たちの悲鳴が――頭のなかをぐるぐるぐるぐると回った。
『いい加減にしろよっ!』『迷惑なのがわかんねえのかっ!』『誰でもいいから早く止めてよ男子!』『ざっけんなよこら!』『食い物を粗末にすんなぁっ!』『お前のせいで、こっちまで迷惑がかかる』
クラスメートの――特に男子の見る目が冷ややかで、授業中もずっと、ずっと、胸が痛くて息が苦しい。
E組の教室は一日中重く、それでいて苛立ちを隠した鬱々しさと、静電気がまとわり付いているような一触即発の空気が漂っていた。まるでもうここには、渉の居場所はないのだと、そう言われているような気持ちになる。心休まるはずがない。
渉は「ただいま」と口のなかで呟き帰宅を果たした。玄関に果奈の靴はなく、スマホのトップ画面には『今日泊まり』とメッセージが届いている。渉はため息をついて家に上がる。誰でもいいから、身内の顔が見たかった。話してくれなくてもいいから――
「おかえり」
と、母じゃない声がした。
明るいリビングで渉を出迎えてくれたのは、リクルートスーツを着た
凛の、実の姉である。
「ゆ、百合姉……っ? 何してんの? 何勝手に上がり込んでんの?」
「何を根拠に不法侵入と。ママさんの許可は得ている」
「なんでヒール持ってんの?」
「私の靴を見たら逃げ出すだろう」
「いや、そんなことはないけど……」
「おい」
「はい」
「おかえりと言われたらただいまだろう?」
百合のクールな瞳が渉を射抜く。渉は頭の後ろに手をやりながら「……ただいま」と呟いた。百合はただ当たり前のことを言っているだけだが、昔から厳しく当たられている渉は、どうにも怒られているような錯覚を覚える。
百合は携帯灰皿を取り出して、片手で器用にタバコを消した。ソファーから下りて玄関へと向かい、帰るのかと思いきやすぐにUターンしてくる。ヒールを置いてきただけだった。
「顔が死んでいるな」
すれ違いざまにそう言われ、渉は「へ?」と眉を持ち上げた。凛とほぼ同じ低身長の目線が、渉に上目遣いで語りかける。
「泣いたか」
「泣いてないです」
「強がるな小僧が」
「強がってない」
「溜め込むなよ高校生。面倒な輩はこの百井百合が全員まとめてぶちのめしてやる」
目下の彼女は真顔で物騒なことを言う。彼女が身じろぎするたびに、ジャケットの上で弁護士バッジがきらきらと光を放った。渉の顔色を心配して言ってくれたのか――、この人の言うことは冗談では済まないから恐ろしい。
都心で働く百合は、滅多に家に帰ってこない。同棲中の彼氏とうまくやっているらしく、結婚するのもそう遠くない未来だ。でもそうなれば百合とはもっと会えなくなる。今よりずっと、話す機会も減るだろう。寂しく思わないと言えば嘘になる。これはただの、渉のわがままだ。
「着替えてこい。飯に行くぞ」
「え?」
「ママさんにはよろしく頼むと言われた。買い出しついでに行くぞ」
百合はそう言って長い髪を翻し、先に家を出ていった。厳かで強かで、どんな突風をも受け付けない鉄のような人。それが凛の姉であり、弁護士の百井百合である。
(仕方ないな……)
渉は急ぎパーカーに着替え、財布を持って外に出た。家の前には、ジャケットを脱いだ百合の運転する車がすでに待機している。その後部座席の開いた窓から、凛が小さく手を振っていた。
「渉くーん、ごはーん!」
片手をメガホンにして凛は陽気な声を上げる。いつもと変わらない、渉のよく知っている凛の声だった。学校でも他愛のないやり取りはしていたのに――おかしいな、久々に聞いたような気がする。
渉は自然と笑みをこぼした。そんなに急かすなよと鼻を掻きながら、後部座席の凛の隣に座る。自分のいるべき日常が、目の前に広がっているような気がした。
「何が食いたい」
「何が食いたい?」
凛は姉の口調を真似して渉に問う。渉はシートベルトをしながら、「じゃあ……カツカレー」と素直に答えた。凛の「出発進行!」に合わせて車はゆっくりと発進する。車内は百井姉妹と渉の三人のみ。子供だけで行って来いと。
「俺らだけでいいの?」
「うん、夕飯買って帰ってきてねーって。カレーなら持ち帰り用もあるでしょ」
「食ったら少し買い物に付き合え。お前たちはゲーセンにでもいるか?」
バックミラー越しの百合と目が合い、渉は視線を凛へと投げた。凛は百合を見ながらうんと頷き、「どこでもいいよー。適当に時間潰すし」と同意する。夜のゲームセンターにはあまり立ち入らない主義だが、珍しく凛が乗り気なため渉も大きく頷いた。
放課後の襲撃の件は、凛に話しておかなければならないだろう。百合の前で言えば『全員まとめてぶちのめしてやる』が現実になりかねないため、話は二人きりになってからだ。
カレー屋に到着して席を取り、渉と凛が隣同士に、百合は正面に座った。姉妹が頼んだのはまろやかな甘口カレー。渉は先刻どおり中辛のカツカレーを注文する。
「渉、その包帯はどうした。喧嘩でもしたか」
「あ、いや、これはいろいろとあって」
「何かあるなら相談しろ。精神的苦痛への慰謝料も取ってやる」
「お姉ちゃん怖いよ?」
百合は一見冗談にも思える『本気』を口にする。凛はもちろん、付き合いの長い渉も百合が有言実行の女だというのを知っている。子供の頃からそうだった。
百合は、言葉にするすべてを現実のものにしてきた。委員長になる、生徒会長になる、応援団長になって体育祭で優勝する、いじめをなくす、試験に受かる、そして――子供の頃からの夢だった弁護士になる。
警察官を目指す凛が肉体的な強さを持つとしたら、百合の強さは精神的なものに当たる。そういう意味では、彼女は誰よりも強い女だ。メンタル面のパワーファイター。渉は百合より強靭な人間を見たことがない。
それにしても、自分はそんなにやつれて見えるのだろうか。百合は優しさよりも厳しさに重点を置く人で、他人に厳しく己にはさらに厳しくがモットーである。普段であれば、甘えるなと一蹴するような人であり、そんな百合に久しく会って心配されるのだから、今の渉は相当覇気がないようだ。
三人は、夕食を済ませて持ち帰り用のカレーを購入し車に戻った。会計時に百合の横で財布を構えていたら、「大人に恥をかかせるな」と追っ払われた。優しくされるほうが怖いんですが……と震えながらも、渉はありがたくご馳走になった。
次に向かったのは学校近くのショッピングモール。学生行きつけの遊び場のほうがゆっくり過ごせるだろうという、百合の気が回ったらしい。百合は凛に一万円札を渡して、「終わったら電話する」と言って別れた。あの人、他人にも自分にも厳しいけど妹には甘々だよなぁと、渉はつくづく思う。
「わーい! 渉くんとゲームセンターだ。テスト週間なのに、何だか悪いことしてる気がする」
「言う割には楽しそうだけどな」
「えへへ、渉くんもたまには息抜きしないとね」
二人は入り口を通ってエスカレーターを使い、各階のゲームセンターを見て回った。どこにしようか、何で遊ぼうかと決める前に、渉は「凛に話があるんだ」と切り出す。まん丸い目がこちらを向く。
「E組の宇野と辻っているだろ? あと、B組の宮部って奴。あいつらに気をつけてほしい」
「気をつけるって?」
「……何か、悪いことされるかもしれない。でも、大丈夫だ。俺が何とかする。何かあったら俺に言え。百合姉にでもいい」
凛は「んー……」と何やら考え込んだ後、「私は、渉くんのほうが心配だけどな」とうつむいた。
「渉くんって、すぐ無理しちゃうでしょ? 駄目だなってときは自分でブレーキかけて、もう駄目だーって私に言ってよ。あんまり頑張り過ぎちゃ駄目だよ」
「……今朝のこと聞いたのか」
「ううん、よくは知らない。けど、新堂くんのことどうにかしようってのはわかるよ。もしかして、朝霧くんに触発されたのかなーって思ったり」
安々と核心を突かれてドキッとする。そんなことまでわかってしまうのか、この幼馴染には。
「えっと、朝霧に何か言われた?」
「言われたっていうか励まされたというか……私と
「ああ……俺もそれは朝霧から聞いたな」
「ほらやっぱり! それで優しさ湧いちゃったわけ?」
凛と萩野を出しに使われたのは本当だが、朝霧は自分の被害も含めてストレートに頼んできた。というか彼にとって大事なのはほぼ後者、自分に火の粉が及ばないようにすることである。
(人を繋げるのがうまいな……あいつ)
凛には、二人を思って朝霧が渉に協力を仰いだ、というふうに伝わってしまっているが。まあ事実を言ったところで朝霧の好感度は覆らないだろう。
「私たちを思ってくれるのは嬉しいけどさ、それで渉くんが苦しんでたら元も子もないでしょ? 私はそんなの嫌だから……だから無理しないで。私は大丈夫だから」
「でも……」
「一応気をつけるよ。その宮部って人のことはよくわからないけど、でも酷かったら生徒会に言うし。朝霧くんも何とかしてくれるでしょ」
「……そうだな」
渉の狙いはあくまで新堂明樹なのに、いつの間にか不良生徒たちが集まり、周りに危害を加えている。やはりこれは原因となった渉が悪いのだろうか。渉が新堂に構わなければ、凛や周りの生徒に迷惑が及ぶこともなかったのに。
「今日はパアッと遊んで元気になろう? お姉ちゃんも奢ってくれるって」
「百合姉が?」
「うん、今日は全部お姉ちゃんの奢りだって言ってたよ。このゲーセン代も、二人分です!」
凛は一万円札をひらひらと見せて、いたずらっ子の笑みを浮かべる。百合がそんなことを言っていたなんて。渉はくしゃりと笑い、「そっか……ありがとう」と親愛なる姉妹に感謝した。
鼻歌交じりにスキップしながら両替機に向かう凛を追って、渉はゲームセンターにいた三人組に瞠目した。「凛、あれ――」と袖を摘み、「ちーちゃんじゃない?」と耳打ちする。
凛とお揃いの髪留めをした少女と、ピンク髪の少女、それからE組の転校生が、クレーンゲームの前で並んでいた。三人共制服のままなので、ひと目で藤北の生徒だとわかる。間違いなく、
だが凛は、
「見間違いだよ」
抑揚なく断言し、両替機に背を向けて逆戻りしはじめる。まるで一刻も早くこの場から去りたいような足取り――そしてくるりと不意に振り返って、
「デザート食べない? お姉ちゃんにも買っておこうよ」
凛は両手を後ろに回して、変わらない笑みを浮かべていた。渉は、茶化すべきではないなと察して、「いいよ」と横に並ぶ。
あれは確かに千里だった。凛の親友の……松葉千里。彼女の両親は本人もうんざりするほどの過保護で、渉たちと遊んでいるときも必ず十八時には帰っていた。
だが今スマホの時計はその一時間先、十九時を優に越している。本当は突撃して話を聞いてみたいが、凛が見たくないと言うのならば、渉も今日は目を瞑ろう。
渉と凛は、ゲームセンターを離れてクレープ店に寄り、持ち帰り用のデザートを購入してベンチで時を過ごした。百合から連絡が来て合流した頃にはもう、先ほど見た少女らのことなど頭から消えていたくらい、有意義な時間を過ごした。
彼女たちを見たときの凛が、いったいどんな顔をしていたのか。見る前に凛は背を向けてしまったため、渉は気づくことができなかった。でももしかすると、凛も渉と同じだったのかもしれない。
渉は、あの転校生に驚いていた。千里と小坂の仲は知っていたが、あの輪に入る芽亜凛はどう時空をねじ曲げても異質だ。いつの間に仲良くなったのだろう、どういう経緯であの二人と? まるで瞬間移動を目にしているような、説明の付かない疑問だけが浮上する。もちろん今日一日限定の可能性もあるが――
知らず識らずのうちに生み出されていた新しい繋がりを、この日渉と凛は目撃した。
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