僕の嫌いなもの
本当に頭のいい人はテストで一位なんて取らない。手を伸ばせば届く場所には立ち入らず、栄光を他者のものとして逃し続ける。そうすれば周りのヘイトを買わずに済み、余計なプレッシャーに脅かされることもないからだ。
しかし朝霧修は、テストで満点以外取ったことがない。わざわざ手を抜いて誰かの下に付くよりも、一番になり続けるほうが楽だったからだ。譲るつもりも変えるつもりもない。文句を言う者は一人残らず見つけて従わせる。
極稀にだが、今でも掲示板で朝霧のことを悪く言う者は現れる。偉そうとか、ムカつくとか、カンニングしてるんだろとか。嫉妬という魔物に取り憑かれて、根も葉もない憶測や愚痴を裏掲示板で吐く愚かな生徒である。それはみなどこかしらに、『見てほしい、共感してほしい』という意思があるからだ。朝霧本人が運営しているとも知らずに、都合よく集まってくれる。
個人情報を取り扱う朝霧は、翌日にでもその者に接触し対処に当たる。大抵名前を呼んでやっただけで、まるで王様に声をかけられた兵士のような顔になり、立ち話をする間に早くも媚びた目に変わる。そうやって対処した生徒は二度とアンチコメントをしなくなるし、自分で書き込みを消して逆に朝霧を褒めはじめたり、ファンクラブに入会した者だっていた。はい、攻略完了。
一度も話したことがなくても、他人の恨みはどこから湧くのか知れない。だがそう言った努力の積み重ねが、優等生朝霧修を形成しているのだ。
そんな藤ヶ咲北高校の裏掲示板は、今までの比にならないくらい荒れていた。勢いを増していたのは例のスレッドである。E組とB組の男子が揉め合い、朝から暴力沙汰を起こした件について、クラス同士でぶつかっているのだ。
問題を起こした生徒は三人。暴力を振るったのはその内の二人らしいが、まとめて生徒指導室に連れて行かれ、事情を訊かれた後に反省文を書かされたとか――
噂は掲示板を通さずとも朝霧の耳に届いていた。だがその発端が渉の作った弁当だというのは、書き込みで知り得たことだった。
『あいつがあんなもの持ってくるから悪いんだろ』
『喧嘩を煽ったってこと? じゃあそいつのせいじゃん』
『キレられるって思わなかったのかなぁ』
『また持ってきたらどうする? キレていい?』
『何でもいいけど教室で暴れないでほしいわ』
『それな。ほんと迷惑。勉強してる子もいるのに、周りのことも考えろっての』
批判は、暴れた生徒と渉へのものが半々だった。彼は無意識に人の神経を逆撫でするのがうまいらしい。本当に、期待以上の働きをしてくれる。
――内通者も利口に動いてくれた。
「楽しそうだね、朝霧くん」
やっと帰ったか、という冷たい眼差しを今しがたA組を出た女子生徒らに向けながら、晩夏すみれは当然のように教室に入ってきた。晩夏は朝霧の座る席の前に立ち、「今度は何を企んでるの?」と裏の顔を匂わせる。
放課後の日誌を書いていた朝霧は何食わぬ顔で目線を上げ、「待てができて偉いね」とほくそ笑んだ。さっきまで朝霧に絡んでいた女子たちが教室を出るまで、晩夏は廊下で待っていたのだから。一人きりになったところで話しかけてきたのは及第点だ。
「彼を利用してクラスの問題児を焚き付けて、目的は何。更生させる気なんてないよね。学級崩壊でもさせたいの? それとも彼の破滅かな」
「彼って?」
「望月渉くん。あなたのお気に入りの坊や」
やはりそうだったか。あの日渉に吹き込んだのは晩夏だろうと、おおよそ予想は付いていた。
「今日はよく喋るね、すみれちゃん。早くお家に帰ってお絵描きしたら?」
「聞き返さないんだね、どうして彼のことを知っているのかって」
「望月くんに話したのはきみだろ? 血相を変えて僕を殴り飛ばしにきた」
早くネタを話したくて仕方がない、どこまでも子供のままで成長が止まっている『すみれちゃん』は、朝霧が特別視している望月渉をターゲットにした。校舎裏で写真を見せてきたのは宣戦布告。彼女はそれ以前から誰かに打ち明けることを決めていたはずだし、渉のことも知り得ていたはずだ。
朝霧は、右の輪郭に指先を這わせた。傷の治りが早いのか、渉が加減して殴ったのもあって、痣は日曜日には完治し跡形もなく消えている。先週までは湿布を貼っていたが、クラスメートは――小坂めぐみを除いて――誰一人として理由を訊いてこなかった。勘違いされた分話す手間も省けて楽だし、妙な察し方をされるのは構わないけれど。
クラスメートの誤解に合わせて『両親にやられた』と言えば、ノータリンの小坂でさえ一旦は口を閉じるだろう。だが口も頭も緩い子だ、家に押しかけて面倒事を起こされては困る。だから彼女には特別に、寝ぼけて椅子から落ちたと真実の嘘を明かしてやった。
「彼に話したこと、気づいてたのに怒らないの?」
「へえ、怒らせたかったんだ」
「私にちょっかいを出されても構わないってこと? 怒るに値しない?」
「面倒だとは思ってるよ」
朝霧はさも退屈そうにペンを回して言った。こうして踏み込んでこられるのも鬱陶しいし、今相手をしているのも面倒だと言うのに。私に構って、私に感情を向けて、とせがまれても。
「自惚れないでよ」
あなたじゃない、と晩夏は淡々とした口調で続けた。「望月渉くんのほう」と名指しして、ようやく彼女の目的が見えてくる。
晩夏すみれは、渉が朝霧にとっての大事なものだと推測し、横取りしようとしているのだ。幼稚園で朝霧のノートに落書きしたときのように、邪魔をしようとしている。
朝霧が、嫌がると思い込んでいる。
「きみは勘違いしてるようだね」
書き終えた日誌を閉じ、朝霧は椅子から立ち上がった。
「別に僕は何の執着もないんだよ」
晩夏が渉と付き合おうと、キスをしようと、セックスをしようと。
晩夏が渉を傷付けようと、壊そうと、破滅させようとも。
朝霧修は何も感じない。泣きも、怒りも、憂いも、喜びも。
愛も、こだわりも、未練も、執着も――残念ながら、朝霧修にはない。それが答えだった。
「いちいち盗聴するなよ」
朝霧は晩夏のスカートのポケットからスマホを抜き取り、ボイスレコーダーを止めて削除した。ついでにSDカードのデータも消してやろうかと思ったが、別端末に移っていたら意味がないのでやめておく。
「あなたがやってたことでしょ」
晩夏は表情を変えずに朝霧を見上げて、カッターシャツの襟を掴んだ。互いの顔に影が落ち、角度によってはキスしているように見えるかもしれない。したところでどちらも無反応なのは言うまでもないが。
朝霧は、スラックスのポケットから自分のスマホを取り出して画面を見せた。
「僕はしてない。どうでもいいことだ」
そう言って、晩夏の胸ポケットに彼女のスマホを沈める。この程度の衝突、ネタにもならない。晩夏すみれという『どうでもいいこと』に容量を回したくないし、時間を費やすのも馬鹿馬鹿しい。
朝霧はスマホをしまおうと液晶を向け、着信画面に切り替わるのを目にした。晩夏の目の前で通話に出て、スマホを耳に寄せる。
『修! 助けて!』
鼓膜に響いたのは、小坂めぐみの悲鳴じみた声。今すぐ最寄りのショッピングモールに来てと言って、お決まりのごとく一方的に切られた。
またか、と呆れながら、朝霧は日誌と鞄を手に取り踵を返した。相手が渉だったら喜んで無視するのに。
「誰?」と背中越しに晩夏が呼び止める。あの悲鳴は聞こえていなかったのか、聞こえていても無関係の晩夏が焦ることはないだろうけれど。朝霧は正直に答えた。
「僕の嫌いなもの」
「あなたにも嫌いなものってあるんだね」
ロボットでもあるまいし、好き嫌いくらい人並みにある。好きなものはゲームで、嫌いなものは――
朝霧は首だけで振り返り、「急用」と教えてやった。
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