残飯
ごめんね。テスト週間だから、しばらくバイトは休みなんだ。明けたらまた連絡します。――定型文を送信して、朝霧
朝霧が『バイト』を停止している間も常連客たちは、次のバイトをお願いしたい、と誘ってくる。定型文とは異なり、常に学年一位の彼にとって、名門校と言えど藤北のテストは何の妨げにもならない。前と違って小坂とは契約関係でもないし、渉にやめろと言われたくらいで従う器でもない。
つまり特に断る理由はないのだが、朝霧はこの期間にも一人で夜の街を出歩いて、何度か尾行の有無を確認していた。
結果だけ言うと、あれから
そう、あくまで停止しているだけだ。やめたつもりはこれっぽっちもない。また渉に宿泊を誘われる可能性もあるし、予定は空けておいてやろう。まあ、今の渉にそんな余裕はないかもしれないけれど――
朝霧はパソコン画面に目を移した。白く映し出されているのは、
『今朝のあれ見た人いる? M月弁当』
『見た。びびったわー』
『俺さすがに引いちゃったもん』
『あいつ手作り弁当持ってきたん? キメー! それ見たかったわー』
『あそこまでやるのは異常だよ。マジでちょっと、やばい』
『異常者M月ちゃんウケる』
『あんまり悪く言うなよ。Sを思ってやったことだろ』
『はい出ました偽善者乙』
『女子でも引くんじゃね?』
『まあSは嫌がってたね』
『いや誰だって引くっしょ』
『M月ここにいねえの?』
『ぽいやつ見たことないよ。いないんじゃね?』
『Sも来てないね。こないだ超キレてたのに』
『かわいそー』
『どっちが?』
『聞かなくてもわかる件』
先日に引き続き、二年生のみが集まる自由スレッドでは、渉と新堂についての書き込みが頻発していた。少し前までは新堂の取り巻きが中心に書き込んでいたのに、最近ではそれ以外の生徒の割合が増えている。そのほとんどがE組の生徒たちだった。
この二ヶ月間、クラスの腫れ物を放置してきた彼らは、望んでもいない環境の変化を求められて、だいぶストレスが溜まってきているようである。表面的に接するなら問題のない新堂明樹に、臆せず踏み入っていく者が現れたからだ。
クラスメートが迷惑がるのは、はたしてどちらの存在か、考えるまでもない。
それにしても手作り弁当か……。朝霧は椅子の背もたれに身体を沈めて頬杖をついた。
頼んだら僕にも作ってくれるかな。
* * *
一旦教室へ鞄を置きに向かい、昇降口で新堂の登校を待ち伏せる。ミニバッグは背中に隠して、しかし堂々と待ち構える。
新堂に無視されるのはいつものことだ。だけど体育や帰り道では普段以上に話してくれたし、昨日は単に教室だったから何も言ってくれなかったという可能性も捨てきれない。
嫌なら嫌だと、はっきり断られてからやめよう。ただ無視されただけでは引くに引けない。
渉はそんな気持ちから、次の日も懲りずに弁当を作ってきた。今日のメニューは焼肉弁当。昨日と同じようにランチクロスに包んでミニバッグに入れて持ってきた。
――今日は暴言吐かれるだろうな……。想像すると胃が痛くて仕方ない。
だが話さないよりはずっといい。暴言だろうと何だろうと、さすがに二人きりなら一言くらい話してくれるはずだ。
そう踏んでいたけれど――誤算だった。目の前から歩いてきた新堂は、一人きりではなかった。
生徒玄関を前にして、新堂の横からひょこりと現れた、黒髪ショートの男子生徒。よっ、と軽い挨拶をして、並んで雑談をしながらこちらに向かってくる。渉は彼らに気づかれる前に、反射で柱の陰へと隠れた。
(えっ、だ、誰?)
渉の知らない他クラスの生徒なのは間違いない。片や両耳ピアスだらけの金髪、片やアクセサリーなしの黒髪……。見た目だけならヤンキーと模範生である。例えるなら、渉が新堂と肩を並べて歩いているようなものか。
しかし渉と決定的に違うのは、彼らが親しげにやり取りしていることだった。男子はニコニコと八重歯を見せながら話しているし、新堂も嫌がっている素振りはない。教室で
(俺といるときはずっと眉間にしわ寄せてるのに……)
渉の知らない、新堂の友達――
彼らを見ていると、必要もないのに歩み寄ろうとしているのが途端に馬鹿らしくなる。渉の最終目標は、新堂をバスケ部に戻すこと。それはテストを頑張れば達成できるし、新堂との仲など関係ない。
なのに放っておけないのは――単なる渉の私情だ。
帰ろうかな……。顔を下げ、そう考えていたとき、「あれ
そっと柱の陰から様子を窺うと、男子の顔が目と鼻の先に飛び込んできて、渉は「うわっ!」と声を上げる。相手の男子も驚いた顔で一歩下がった。
「うおっ……ビックリした。やっぱお前望月渉だよな?」
ハハ、と彼は八重歯を見せて笑う。どこから見ても普通の生徒だが、壁を要さない馴れ馴れしさを肌身で感じる。まるで響弥のような人懐っこさだった。
「あ、えっと、そうですけど……」
なぜ渉のことを知っているのか、疑問には触れずに答える。男子は顔を近付けて、「俺B組の
「明樹のこと待ってたの?」
宮部は新堂を下の名前で呼んで、相変わらず渉の視界を独占し続ける。下の名前で呼ぶ仲という点も宇野や辻と同じ。渉は宮部の背後を覗き見て、靴を履き替える新堂を捉えた。
「何シカトぶっこいてんの?」
耳朶を打った囁きと同時に、みぞおちに重い一発が埋め込まれる。
「っ、……!」
渉は身体をくの字に曲げた。ミニバッグを後ろに隠したまま、片手で腹部を押さえる。息が詰まり、痛みよりも苦しい吐き気に襲われる。渉は激しく咳き込み、生理的な涙をこらえた。
「お前やってることキモすぎ。何勘違いしてんの? お弁当大作戦? キメェんだよバーカ。そんなんで釣られるわけねえだろ。失せろゴミ」
どうして他クラスの生徒がそんなことを知っているのか、渉は皆目見当もつかない。まさか新堂から聞いたのか、E組の誰かが話したのか。
宮部は最後に渉に肩をぶつけて去っていった。言葉のナイフで滅多刺しにされた渉は、唇を噛み締めて痛みに耐える。横切った新堂の顔を見上げると、その鋭い眼光はまっすぐ廊下の奥を捉えていて、渉には一瞥もくれない。
新堂は無言でその場を通り過ぎ、あとに残されたのは中途半端に引いた嘔吐感と、渉の頬を掠める湿気を含んだ生温い風の慰めだけだった。
痛む腹を撫でながら、引きずるような足取りで教室へ戻ると、後ろの扉をくぐった瞬間、死角からミニバッグを奪い取られた。気づいたときにはもう手の内にはなくて、渉は一拍遅れて扉の陰を振り返った。
にやりと口角を上げていたのは、さっきの男子生徒、宮部だった。
「なんだよこれ。ピクニックにでも行くのかよ」
「返せよ!」
渉は咄嗟に手を伸ばすが、宮部はバッグを見せびらかすように高く持ち上げて、バスケットボールのように前へと投げた。キャッチしたのは宇野
怒りと焦燥感で目が回る。振り向いた渉が見たのは、弁当箱を鷲掴んだ新堂の大きな手。その手が振り上げられるところまで、渉の目にはスローモーションに映って――
一閃の風と共に、プラスチックの弾けるけたたましい音が二年E組を制圧した。
「いい加減にしろよっ! 迷惑なのがわかんねえのかっ!」
新堂の怒号が、凍りついた教室中の空気を震わせる。渉は、額に血管を浮かべた新堂から目が離せなかった。
新堂はただ一人を――渉だけを、怒りに満ちた真っ赤な目で射抜いていた。
――身体が、身体が震えて動けない。黒板に投げつけられた弁当箱がどうなったのかさえ、恐ろしくて見ることができない。
息が、うまく吸えない。
立ちすくむ渉の後ろで誰かが静かに椅子を引く。渉の横を通り過ぎたのは、昨日新堂に代わって弁当箱を空にしてくれた渡邉
新堂明樹を、殴り飛ばした。
「食い物を粗末にすんなぁっ!」
負けず劣らずの渡邉の大声を合図に、辻と宮部は金縛りが解けたかのように彼へと掴みかかる。
「何してんだてめぇ!」
「ざっけんなよこら!」
渡邉を新堂から引き剥がして殴る宮部。揉みくちゃになる男子たちに、教室から女子の悲鳴が上がった。
「先生ー!」
「誰か呼んできて! 早く!」
「委員長は?」
「職員室でしょ!」
「誰でもいいから早く止めてよ男子!」
いち早く教室を抜け出した
されるがままに尻餅をついていた新堂は、いつの間にかいなくなっていた。そして教室の隅から、「もう新堂と関わるのやめろよ」と沈着冷静な声が上がる。
「お前のせいで、こっちまで迷惑がかかる」
そう言った
渉はぎこちなく首を回して、弁当箱の当たった黒板を目にした。真新しくできた傷を中心に、ぶち撒けたような油の跡がついている。渉は、誰かに手渡された雑巾を持って、教壇に近付いた。
早起きして用意した弁当は、米も焼肉もすべて床に落ちて飛び散っていた。先生を呼ぶときに蹴り飛ばされたのか、弁当箱と蓋は隅でひっくり返っている。埃まみれだった。
「ごめん……」
ぐちゃぐちゃになった弁当に目を落としたまま、渉は誰ともなしに呟いた。答えてくれる人はいない。クラスメートはみな着々と残飯を掃除していく。
渉は膝をついて手を動かした。頭のなかが真っ白で、何も考えられない。大勢の人に直接心臓を踏まれているみたいだった。
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