第八話
最悪なはじまり方
黒い
何度も見てきた長い長い夢のラストシーンだ。
『詮索するなよ。次はない。お前は自分の手を汚さず、いつか兄が自滅する日を待ち望むしかないんだ』
淡々と紡ぎ出されるその声を最後に、
「最悪……」
自然と口内に毒の味が広がる。久々に見た、一年前の夏の記憶。決して忘れるなと妹を縛り続ける呪わしい夢だ。
夢のなかで夢だと認識する、すなわち明晰夢と化すと、例のごとく目が覚めてしまう。気づくのはいつも最後だった。本当はもっと長くて、夢のなかで虹成は普通に話していて……思い出したくもない記憶の集合体だ。
虹成は時間を確認しようとスマホを手に取り、未読のメッセージが届いていたことに気がついた。学校のクラストークは通知を切っているし、こんな自分にメールしてくる人は限られている。どうせあの人だろうなとうんざりしながら、虹成はアプリを開いた。
『テスト週間に入ったよぉ、最悪ーっ。しちちゅーはいつから? 放課後時間を合わせて買い物しよー?』
メッセージの送り主は、
スマホを膝から下ろして天を仰ぎ、返信内容を考える。虹成の通う
と言うかテスト週間に遊びに誘ってくるとは、どういう神経をしているんだ、あの人。勉強の邪魔をしたいと言っているようなものじゃないか。まあ、そもそも真面目にテストを受けるような人とは思っていないけれど。
「あー……めんどくさ」
素直な思考が口からこぼれ落ちる。話をするのも面倒くさいし、返信内容に頭を悩ませるのも煩わしい。
――この人のせいで。
何も聞かされずに向かった遊園地で、大嫌いな兄と会わされた。そのせいであんな夢を……。全部、あの二人がよりを戻したせいで……。
『いろいろ奢ってもらってるんだろ? 甘えとけよ、今しかないんだから』
クズの言葉が蘇る。悪意と欲望にまみれた黒々しい言葉の数々を、どうしてそうつらつらと吐けるのか、妹は理解に苦しんだ。
あんなクズのどこがいいのかさっぱりわからない。あいつの本性を全部伝えて幻滅させてやろうか。そのほうが絶対的に彼女のためなのに。
目を瞑ると、好き勝手に虹成を連れ回すピンク髪の彼女が脳裏をよぎる。虹成ちゃん虹成ちゃんと人懐っこく呼ぶ声が。自分を好いてくれるあの笑顔が、この手を離してくれない。
やがて虹成は観念したようにスマホを握り直した。おはようございます、からはじまる返信をぽちぽちと打ち込んでいく。
ああ、本当に最悪な一日のはじまり方だ、と。虹成は大嫌いな兄の、嫌いになれない彼女のことを恨んだ。
* * *
夜勤帰りで眠る母を起こさないよう、
「朝ご飯? じゃないな。あんた何作ってんの?」
「弁当」
「それは見りゃわかる。私の、なわけないよね?」
「うん、ない」
「
「俺のじゃないよ」
いつも渉の弁当を作ってくれる幼馴染の凛。彼女の都合が悪いときは事前に連絡が来るし、それなら売店で済ませる。わざわざ早起きして自分の弁当を作ろうとは思わない。
果奈は、まだおかずを詰め込んでいる最中の弁当箱を覗き込んだ。
「唐揚げいっぱいの男子弁当じゃん。あんた好きそうねー」
そう言った後にパチンと指を鳴らして、「わかった。
渉は、別に響弥でもいいか、と敢えて否定はせずに「いいから顔洗ってこいよ」と手で払った。思い込ませておいたほうが楽に済むだろう。
「怪我してるのによくやるわねー。何時に起きたの?」
「四時」
途端に果奈は不味いものを食べた顔で首を左右に振った。「少女漫画のヒロインか」とよく意味のわからない突っ込みをして、「後で教えなさいよねー」と間延びしながら洗面所のほうに向かっていく。弟の誤魔化し方などお見通しのようだが、本当に気になる話ならばもっとしつこく訊いてくる。あの様子だとすぐに忘れるだろう。
渉は詰め終わった弁当箱をランチクロスで包んで、傾かないよう慎重にミニバッグに入れた。
修学旅行の前日か、はたまたデートの待ち合わせのように。渉は席に着いて、時間が過ぎるのをドキドキしながら待った。新堂は教室に来るはずだ。真面目にテストの自習をする気はなくても、渉から逃げるのをやめた彼ならば。少なくとも鞄を置きに、一度は教室に現れる。
やっぱり、嫌がられるだろうか。急に手作り弁当を用意するなんて、何を考えているんだと。変に勘繰られたり、気味悪がられたり。
企みなんて何もない。ただ、新堂のお母さんに託され、渉も彼の笑顔が見たいと思ったから。
それとも、喜んでくれるだろうか。九十九パーセント駄目だとしても、一パーセントくらい期待したって誰も文句は言わないだろう?
後ろの扉が開閉されるたびに、渉は斜め後ろを振り返った。そうして気怠そうに席へと着く新堂を目撃したとき、心臓の鼓動が痛いくらいに跳ね上がる。
渉はミニバッグを片手に持ち、新堂
「おはよう、……」
椅子に踏ん反り返ってスマホを触る新堂に声をかける。その眉がぴくりとしかんだのを見て、渉は言葉を切ってしまった。弁当を作っている間は何も考えず夢中になれたのに、いざ本人を前にすると、底知れない不安と緊張の渦に飲み込まれる。
――大丈夫だ、渡すだけ。渡すだけだろ……。
渉は唾を喉に通し、「これ」と、やや語調を強めてミニバッグを突き出した。新堂の目はスマホに向けられたままである。渉は小さく咳払いをして、掠れた声で続けた。
「弁当……作った、から、……」
だから、食べてほしい……? そう言うには自分の気持ちがまとまっておらず、渉は口を開けたままうつむいた。食べてほしいという願いではなく、むしろ『食べろ』という命令口調のほうが表現として近い。
渉は、宙に浮かせたままのミニバッグを握る手に力を加えた。クラスメートの何人かがこちらを注目しているが、教室中が静まり返っていることには気がつかなかった。
今教室にいる全員から白い目で見られているというのに。
新堂はチッと大きく舌打ちを鳴らし、おもむろに席を立つと、渉には一切顔を向けず静かに教室を出ていった。まさかの無視という選択肢に、渉はさらにぽかんと口を開ける。
今のはいったいどういう返事と解釈すればいいのだろう。呆れたのか、怒ったのか……。何にせよ機嫌を損ねてしまったのは確かだ。
落胆し席へと戻る渉の元に、「それ食わないなら食っていい?」と、早弁常習犯の
渡邉は人差し指で唇を突付きながら、物欲しそうにミニバッグを見つめる。食いしん坊の彼によって、部活停止中でも早弁するのかよと、渉の気持ちとその場の空気が和まされた気がした。渉は苦笑しつつ、「昼休みまで待って」と答えた。
新堂が再び教室に現れたのは、昼休み終了後すぐのこと。その頃にはもう、弁当は渡邉が消化してくれていて、なんでこのタイミングで来るんだよと、渉はひしひしと苛立ちを募らせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます