女手ひとつ

「ちょ――新堂、待てってば」


 まだ明るい夕方の道を、新堂は逃げるようなペースで進んでいく。手にした商品を大人しく棚に戻したはいいが、その顔つきは酷く動揺していて、目の焦点も合っておらず……。

 そのまま今と変わらない足取りで、新堂はスーパーを後にした。渉は彼の様子が気になって我慢できず、買い出しを中断して追うことになったのだ。幸いにも、万引きの現場を目撃したのは渉だけのようで、店員には止められずに済んだ。


「なあ、なんであんなことしたんだよ。万引きなんて……らしくないぞ?」


 渉は置いていかれないよう新堂の背後に食らいつく。ほかより高い身長と明るい髪色もあって見失うことはないが、歩幅が違いすぎて油断すると置いていかれる。

 新堂は急停止して振り向いた。渉は危うく胸にぶつかりそうになった身体にブレーキをかける。


「お前に俺の何がわかんだよ。知ったようなこと言ってんじゃねーぞ」

「だって……」

「だって何だよ」


 渉に詰め寄るその顔つきは怯えも動揺もない、学校で見るいつもの新堂に戻っていた。さっきまでの新堂は、非行に走りそうで放っておけなかったから。

 しかし次は質問の答えづらさに苦悩する。これを言うと怒られそうで、渉は身を縮めた。


「なんか違うって言うか、新堂には合わないって言うか……。慣れてなさそうだったし」

「喧嘩売ってんのか?」

「うーん……うまく言えないけど、あんな頭の悪いことするかなって」


 外見だけなら不良だし、現に素行も悪いけれど――新堂は決して馬鹿ではない。遅刻をしないのもそうだし、見た目の悪さも成績がいいから許されていることだ。学校では言い逃れのできるギリギリのラインにいるから、教師たちも苦戦する。

 そんな新堂がだ。あんな仕様もない愚かな犯行をするとは思えなかった。バレたら謝ればいい、ではなく、『謝らなくても済むこと』しか彼はしないはずだろう。


 新堂は瞼を重くして、「お人好しもここまで来ると異常だな」と、呆れて前を向き直った。渉が隣に並ぼうとすると、距離を取るように大股で歩きはじめる。


「付いてくんな」


 渉は無視して話しかける。


「新堂ってさ、いつも宇野たちといるわけじゃないよな。むしろ向こうが付いてきてる感じ? 好き勝手してるのは宇野だけど、リーダー格は新堂のほうって言うか。つじもお前のこと慕ってそうだし」

「一人で言ってろ」

「問題児って言われてるけど、やってることはそうでもないよな。宇野の授業妨害も、まあ迷惑ではあるけど可愛いもんだし。たまに見る熊谷くまがやへの嫌がらせも、許容されることじゃないが、本人には通じていない……。でも万引きは駄目だろ。絶対駄目。一発アウト」

「うっせーなあ……」


 天を仰いだ新堂を、渉は小走りで追い抜き回り込んだ。


「そんなんで捕まる新堂なんて誰も見たくねえって。問題は学校内に留めとけって」

「…………」


 この話を凛が聞いたら、『学校の問題も駄目だけどねー』と言って怒るだろう。しかし誰だって居場所は欲しいと思うものだ。

 捕まらないギリギリを攻めているからこそ、たちの悪い不良共という評価で収まっていられる。そこを逸脱すれば居場所がなくなるのは、新堂もわかっているだろうに。


 新堂は冷ややかに渉を見下ろした後、「しつこい」と言って横に押しのけた。渉は「いてっ!」と声を上げて右手を庇う。実際に痛みはなかった。押された衝撃で足がもつれただけで。

 けれど、斜め後ろの新堂は咄嗟に振り返った。「おい、」と渉に、そっと手を伸ばし、


「ん?」


 何事もなく振り向いた渉は、新堂の表情に虚を衝かれた。眉をひそめて顔をしかめて、瞳をわずかに泳がせて、渉の状態を窺っている。

 驚いた。あのときと、同じ顔だ。渉の右手が切り裂かれた、あのときと一緒――


「え、もしかして心配した?」


 そう、渉が瞬きして尋ねると、新堂は徐々に顔色を変化させて唇の端を引きつらせた。


「し……、死ね!」


 新堂は赤らんだ顔で精一杯の反論を紡ぐ。その赤が怒りによるものか羞恥心によるものか、渉には読めなかった。口をついたのが図星から出た天邪鬼だったのかさえ。

 渉は、早歩きで帰路を進む新堂を小走りで追尾する。


「やっぱ心配してくれたんだな」

「してねえよ。ごちゃごちゃ言ってないで帰れ」

「大丈夫だよ、そんなに痛くないし」

「ああそう。あいにくこっちも骨折してる」

「それ本当かぁ?」


 と、新堂の手を覗き込もうとしたとき、今度こそ背中にぶつかった。

 渉は額に手を当てながら、急に止まった新堂を見上げる。軽率な返しが逆鱗に触れたのかと思いきや、新堂は正面を向いたまま。その向こうから、大きく手を振る女性の姿が見えた。


「はるくーん」


 手のひらをメガホンにして呼ぶ女性は、カツカツとヒールの音を立てて駆けてくる。渉は「はるくん?」と聞き返した。顔だけで振り返った新堂明樹に睨まれる。

 こちらに手を振りやって来たのは、花柄のワンピースを着た若い女性だった。


「おかえりなさい。あら、お友達?」

「あ、どうも……」


 渉はぺこりと軽く頭を下げる。歳は二十代か、その後半? 大人の女性ではあるが、十分な若々しさがある。新堂の知り合い……。もしや、お姉さんだろうか。


「何しに来たんだよ」

「あ、うん、ごめんね? お金渡しに来ただけ」

「あっそ」


 どうやら家族なのは間違いないらしい。新堂の家はこの近くにあるのか。学校から西側の、徒歩と自転車通学の圏内だ。

 彼女は足早に振り切ろうとする新堂を、話しながら追った。渉も距離を空けつつ小走りで付いていく。


「テスト近いんでしょ? 頑張ってね。はるくん頭いいんだから」

「うるせえな。帰れよババア」

「もう、親に向かってぇ」


「おっ……」と、渉の口から声が漏れた。親? お母さん? 新堂の母親? 思わず、わっか……と言いかける。決して派手なメイクじゃないのに年齢以上に若く見えるのは、元が綺麗という証拠か。


「ねえはるくん、その手どうしたの? 学校で怪我したの?」

「骨折って言ってましたよ」


 後ろでコソッと教えると、「骨折!?」と、新堂の母は両手で口元を押さえた。新堂は足を止めて、「余計なこと言うんじゃねえよ」と眉間のしわを濃くする。


「ど、どうしよう……! はるくんが骨折? 病院行かないと!」

「馬鹿。信じんな」

「えっ違うの?」

「ただの打撲だ。問題ねえよ」


 息子の言葉に新堂の母はホッと息をつき、「よかったぁ……」と心底胸を撫で下ろす。度合いは違えど、渉も同じ気持ちだった。相手は親。骨折か否かは、どの道言わなきゃいけないことだろう。ついでに嘘が判明してよかった。

 新堂は、したり顔でニヤついている渉を再び睨む。


「わかったらもう帰れよ。後ろのお前もさっさと帰れ」

「待ってよはるくん、あの子はどうするの?」


 あの子とは、渉のことではない。新堂の母親が指さしたのは、目と鼻の先にある、二階建ての木造アパート。

 随分と古く黒ずみだらけのアパートの一階で、窓から覗いている小さな茶色い姿が見て取れた。無垢な笑顔で舌を出し、つぶらな瞳でこちらを見ている。子犬の姿が。


「可愛い……」


 渉はついつい気持ちを漏らしていた。しかし新堂の母親は、渉とは正反対のしかめっ面で腕を組む。


「もうっ、はるくんは……。あんな子拾ってきても育てられないでしょ?」


 新堂はしばらく窓の向こうの子犬をじっと見つめた後、「あんたには関係ないだろ」と言って踵を返した。玄関の扉を開けて、後ろ手で閉め切られる。

 新堂の母は、「もう……っ」と嘆息して、渉を振り返った。


「ごめんね、お見苦しいところお見せちゃって」

「あ、いえ、全然」

「あの子ね、昔からそうなのよ。捨てられてる子犬や猫を見つけてきては拾って……。里親探すのも大変なんだから」


 渉は、凛の愛犬・ニノマエのことを頭に浮かべた。ニノマエも元々捨て犬で、まだ小さかった頃に凛とその姉と、三人で隠して育てていたのだ。親にバレたときは、どっちが飼うかで揉めて……。

 結局、渉の姉の果奈かなが犬を苦手だったため、百井家が引き取った。家も近くですぐに会えると言うのに、渉は拗ねて大泣きし、それから毎日様子を見に行く始末。

 当時を思い出し、渉は笑みをこぼした。


「優しいんすね……」

「そう、優しい子なのよ。柄は悪いけどね」


 新堂の母は胸を張って、自慢気に笑った。


「十六であの子を産んでから、女手ひとつで育ててきたけど……住み込みで働いてるからねぇ、あんまりこっちには帰ってこれないのよ。ちゃんと食べてるのかも不安だわ」


 渉の頭のなかが、家族との記憶から、万引きをしている新堂へと切り替わる。彼が盗んでいたのは腹持ちを重視した栄養食品。犬も拾ってきていることだし、本人の食生活がどうなっているのか不安になるのは同意だ。


「せめてお弁当のひとつでも作ってあげられたらね、あの子も笑ってくれるんだろうけど」

「……明樹くんって何が好きなんですか?」


 以前生徒玄関で訊いたときは、教室に行った後も答えてくれなかった。あのときは話す内容がなくて、思いつきで言っていたけれど。

 新堂の母は、息子に興味を持ってくれた同級生に喜んで手を合わせる。


「あの子が好きなのは肉料理。唐揚げや、生姜焼き、焼肉弁当!」

「肉食なんすね」


 あの顔つきからして意外性のない回答。そういえば教室でカツサンドを食べているのを見たことがある。いつも売店で買っているのもそれかもしれない。響弥が毎日飽きずに焼きそばパンを食べているように、藤北の売店にはリピーターが多いのだ。


 それから渉と別れるまでの間、新堂の母親は、自分が新宿のスナックで働いていることを明かした。付き合っていた人とは妊娠をきっかけに破局して、その後結婚を決めた別の男からは暴力を振るわれ、いつも新堂が庇ってくれていたことも。

 彼女は一度も渉の名前を聞かなかった。探ろうとしなかった。ただ、愛する息子のことを一途に思い――

 そして最後に、こう言い残した。


「はるくんのこと、どうかよろしくね」

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