茉結華

 病室前の警官に会釈をして扉をノック後、音もなく開けたその先で待っていたのは、ベッドの上で身体を拭くネコメの白い肌だった。

 上裸で熱心にタオルを揺り動かすネコメは、長海に気づいてぴたりと止まると、おずおずと頭を下げて「どうも」と呟く。長海はしばらく、硬直していた。ネコメの肌が、眩しすぎていた。

 咳払いをして己の意識を取り戻し、長海は後ろ手できちんと扉を閉めてネコメに歩み寄る。


「……手伝おう」


 ぽかんとするネコメの手からタオルを抜き取って、その背中にそっと当てた。彼の身体にはまだ痣が、ところどころ残っている。なるべく身体に障らないよう柔らかな動きで、長海は濡れタオルを扱った。ネコメは何か言いたげに長海を見つめたが、視線は決して合わなかった。

 細身の割りに広い背中を見ると、やはり男なのだという実感が湧く。肩甲骨を丸くなぞるようにしながら、長海は無言で拭き続けた。沈黙を破ったのはネコメだった。


「お風呂にはもう入れるんですよ。ただ、まだ頭は動かせなくて。一人で入るのは許可されてないんです」


 長海はちらりとネコメの横顔を見て考えた。


「一緒に入ればいいだろう。相手は見慣れている」

「でも……」


 ネコメは急にまごついて、彼にしては珍しく眉間にしわを寄せることで不快感をあらわにする。


「誰かに弱みを見せるのって、すごく嫌なんですよ。一方的に、相手に迷惑をかけてしまう。俺はそういうの、見せられないんです」


 長海は手を止めて、目をわずかに見開く。


「それは遠回しに、俺を嫌だと言っているのか?」

「はい」


 と、ネコメは長海を見上げて即答した。長海はこのガキ……という言葉を飲みこんで、顔を引きつらせる。長海の心がエネルギーに満ちていて、かつネコメが怪我人じゃなかったら拳を握っていたかもしれない。


「だから我慢して拭かせてあげてるんです。長海さんも、やりたそうだったし」

「……嫌なら嫌と素直に言え」

「長海さんの前で怪我をしている時点で俺はすごく嫌です。裸で身体を拭いているのも、本当は見せたくなかったです」

「お前は俺のことが嫌いなのか」

「好きだから見せられないんじゃないですか」


 ネコメは入院着を羽織って、眉間にしわを寄せたまま恥ずかしげもなく言った。


「好きな人にかっこ悪いところ見せたくないでしょう。それと同じです。綺麗なところだけ見せたいんですよ」


 ……こいつはこんなにも、喋る奴だったのか、長海は不思議に思った。記憶を失って高校生に戻ってしまったネコメを避けて、あまり病院に顔を出していなかった長海には、新鮮な光景だった。

 こうして流暢に話していると、まるであの頃に戻ったみたいだ。

「全部見せろ」と、長海は椅子を引いて言った。ネコメは顔を上げて、正面から長海を見つめ返した。


「お前の弱みも嫌な部分も、全部見せろ。好きなら好きなだけ甘えろ。相棒だろ」


 ネコメには今までも散々振り回されてきた。今さら、怪我をしたくらいで迷惑ともなんとも思わない。好きなだけ身体も拭いてやるし、風呂に入りたいのなら入れてやる。強がられたほうが迷惑だ。

 弱ったところを見せていい。甘えることに抵抗しないでほしい。


「……そうですね」


 ネコメはうつむくように目を伏せて、小さく笑った。記憶を失って以来はじめて見た彼の笑顔は、口角をわずかに上げただけのぎこちないものだった。


「俺に用があるんでしょう? 何かあったんですか」


 なかなか話を切り出せない長海に代わってネコメのほうから促してくれる。そうだ、風田に言われてここへ来たのだった。


「お前に聞きたいことがある。エヤミツクルという男についてだ。……エヤミは、神永家に関与している男だ。子供の頃から殺人の前科がある。今どこで何をしているのか知りたい」


 脳に刺激を与えるなと医者から忠告を受けていたが、ネコメの様子は変わらなかった。まっすぐ長海を見つめて話を聞いている。


「風田さんが言っていた。お前に聞けばわかるだろうと」


 無表情だったネコメは、ふっ、と口角を持ち上げると、長海の片手を握って、自分の胸に押し当てた。ドクドクと激しく脈打つ鼓動が、長海の手のひらに直に伝わる。動揺しているのだと知って、長海の瞳が震えた。


「か――」

「大丈夫です。それより、エヤミツクルですか。エヤミツクルは、残念ながら知りませんね」


 でも、と言ってネコメは長海の手を解放すると、「サカキツクルなら知っています」と続けて、紙とペンを要求した。ネコメは長海の差し出した手帳に『榊創』と書いた。


さかきつくる……どういう関係だ?」

「藤北の元教師ですよ。俺の担任の先生です」


 そして、

 もう、亡くなりました。と付け加えた。


    * * *


 神永詠策と数年ぶりに再会したとき、はさも当然のように座敷に居座っていた。後輩であり旧友の惠谷見えやみ創――いや、榊創であった。


「よお。慈朗、久しぶり」


 彼は中学から変わらないタメ口で接してきた。薄暗い座敷にあぐらをかき、三人で円を描くように向かい合う。風田は、、と心のまんなかに重たいいかりが沈んでいくのを感じた。

「警察官になったんだって? おめでとう」「慈朗は昔から警察になるのが夢だったからな」「親友が夢を叶えてくれて嬉しいよ」榊と詠策は口々に言った。もうどちらが何を言ったのかはうろ覚えだが、『親友が』と確かに口にしたのは榊だった。


「面白いことをはじめようと思って。慈朗がいたら、必ず成功するはずだ」


 それが、悪夢のはじまりだった。長い長い、終わりなき悪夢の幕開けであった。

 風田が再会したとき、すでに榊は藤ヶ咲北高校に勤める教師だった。高校に上がることで榊の呪縛から一度は離れた詠策だったが、大人になって再会し、再びどっぷりと心酔していた。


 この頃の神永家には莫大な借金があった。返済に追われて身も心も憔悴しきった彼の前に現れた、かつての悪友。彼はその相談を、榊創にしてしまった。そして二人は、学校を舞台にした恐ろしい計画を立てて、警察官になったばかりの風田慈朗を引き入れたのだ。

 榊は、すでに何人かの生徒を殺していた。殺人と殺人計画を笑って語り合う二人の姿は得体の知れない化物であり、心の奥底まで麻痺している人間の口ぶりであった。

 計画にブレーキをかけたのは風田だ。


「無作為に人が死んだら学校自体が駄目になるんじゃないか? ターゲットを絞って、限定的にやるんだ。例えば学年やクラス、一箇所に問題を集中させることで、人は原因を探り、取り除こうとするだろう?」

「なるほど、いい手だ。一年じゃ終わらない……長くゆっくりと時間をかけることで、永続的な舞台を作る。慈朗は頭がいいな」


 まさか自分の一言がのちに『呪い人』の要になるとは思いもしなかった。

 殺戮の舞台は藤ヶ咲北高校、二年E組。かつて詠策がいじめられていた中学のクラス、二年五組から取ったものだ。

 榊が殺し、その隠蔽を風田が務める。毎年のように人死が出れば、学校は原因を探ろうとする。そこで名乗りを上げるのが神永分寺、詠策の役目だ。


 榊は事故や自殺、行方不明に見せかけて毎年生徒を殺めていった。うまく行くとは到底思えなかった、けれど、榊の犯行は世に出るどころか警察すらマークしていなかった。少なからず警察官として動く風田の協力が、鬼に金棒を与えてしまったのだろう。

 二年後、風田は花と結婚した。その翌年には、売れない新聞記者を言葉巧みに丸めこみ、『呪い人』の記事を書かせた。

 さらに翌年の二〇〇一年、ついに多額の依頼金を抱えて親たちが動き出し、二年E組が祓われる。神永分寺は、祟りを鎮めた寺として大々的に取り上げられた。


 一年後、花は茉結華を身ごもった。けれども、はじめて授かった子供が無事に産まれてくることはなかった。茉結華は花のお腹のなかで死んだ。

 風田と花はこの年に離婚をし、神永家には一人の赤ん坊がやってきた。クリスマスの夜だった。


「誰の子供だ? 創か、慈朗か?」


 呪い人が止まってから榊は別の高校に移り、会うのも随分ご無沙汰であった。外で子供を作り、わざわざ神永家に置いてきたとは思えない。

 詠策は赤ん坊を抱き上げ、意外にも育てることを決意した。子育てのほとんどは、妹の詩子ともこが担っていた。子供の名前は、響弥だ。


 響弥が五歳を迎えた頃、詠策は響弥と詩子に暴力を振るうようになっていた。あろうことか殺人の教育を、詠策が響弥にはじめたせいであった。

 詠策は、制する詩子を殴る蹴るの暴力で痛めつけ、彼女を肉体的にも精神的にも追い詰めていった。響弥が八歳になる頃には、彼の身体を金儲けの道具にしようと大人たちを集めた。詠策のこの悪癖とも言える異常な行動は、榊創の影響を間近で受けたためであった。


「ぼくは見たことあるよ。親のセックス。ていうか、いつも見てる。見させられてる。キモいよな、子供にそんなこと言って、見せて見られて、興奮してるんだよ」


 苗字が惠谷見だった頃に彼はそう言って小石を蹴った。彼の歪みの数々は詠策に染み渡り、根までどす黒く染め上げていった。

 詠策はまるで、榊創になろうとしているようだった。彼の味わった歪みを真似することで追体験し、さらに息子の響弥のことも。殺人知識を与えて、榊のように優秀な殺人鬼になることを望んでいた。


 響弥は幼いながらに、暴力と凌辱に耐える日々を送っていた。身体は痩せ細り、どこもかしこも傷や痣だらけで痛々しく、あろうことか髪の色素が抜けはじめていた。

 風田はそんな大人たちに人生を支配される響弥を見ていられなかった。彼の誕生日に街へと連れ出し、甘いケーキをたらふく食べさせてやった。顔中クリームだらけにしてケーキを頬張る響弥の目はきらきらと輝いていて、はじめての誕生日ケーキを彼は一人で見事に平らげた。

 甘い幸福の帰り際に、響弥がぽつりと漏らしたのだ。


「じろうさんが、おとうさんだったらいいのに」


 風田は目を丸くし、彼にかけるべき言葉を探った。そして、ふと思ったのだ。彼の小さな手を握って歩く自分の姿は、はたから見れば父親だろうかと。


「響弥は、お父さんが嫌い?」


 幼い響弥はぷるぷると首を横に振った。この頃にはもう、帽子を深く被らなければ人目につくほど髪の脱色が進んでいた。


「でも、おとうさん、おれのこときらい」

「そんな……そんなこと、ないよ」


 響弥は狼狽する風田を見上げて、まん丸い無垢な瞳で願った。


「おれ、じろうさんのこどもになりたい」


 雪がちらちらと降り注ぐ空の下、風田は足を止めて響弥の手を強く握った。この手を振り払うことも、駄目と言うこともできなかった。彼を正式に引き取り、自分の子供にしてやれたらどんなにいいだろうと思った。


「じゃあ、こうしよう。髪が白いときは俺の子供。黒いときは響弥でいよう。お父さんには内緒だよ」

「いまは、しろいこ?」

「うーん……うん、白い子だな」

「じろうさんのこと、おとうさんってよんでいいの?」


 それはまずい。神永家で呼んだらどんな仕打ちが待っているか。これ以上、この子に負担をかけたくはなかった。


「うーん……パパ、慈朗……風田……。た、タジローって呼ぶのはどうかな?」

「タジロー?」

「あだ名だ。父親でいるときのコードネームだな」

「コードネーム、かっこいい!」


 響弥はにこにこと頷いて「じゃあしろいこのなまえは?」と訊いた。浮かんだのは、ずっと前から決まっていた子供の名前だった。


「茉結華……」

「まゆか?」

「植物の茉莉と、結ぶ、華やかの華で茉結華だ。まだ難しい字だな」

「まゆかは……じろうさんのこども?」


 ズキ、と心臓に亀裂が走り、風田は痛みに耐えながら「そうだよ」と頷いた。 


「茉結華は女の子だった。産まれてくることができなかったんだ」

「だいじょうぶだよ」


 唇をつんと尖らせて茉結華は――天使は、囁いた。


「おれが……わたしが、いるから」


 こうして、しんしんと雪が降るクリスマスの夕暮れに、茉結華は生まれた。神永詠策ではなく、風田慈朗の子供として。


 藤ヶ咲北高校では再び呪い人がはじまり、また数年間多くの犠牲者を出し続けていたが、茉結華が生まれた年には榊の殺人がまったくと言っていいほど通らなくなっていた。

 はじめて死亡者ゼロを出した二〇〇九年、呪い人消滅の記事を書いた新聞記者は、裏切り者として榊に殺された。響弥が大人たちに差し出されたのは、呪い人による金儲けができなくなったためである。犠牲者のいない年はまだまだ続いた。


 榊は学校外で殺人の鬱憤を晴らし、不安定な詠策の怒りは響弥に向かう。死亡者の出ない年は、二〇一二年まで続いた。

 殺せないのならもうやめよう、と風田は提案したが、「お前には関係ないだろう」と榊は一蹴した。仮にもお前の尻拭いをしている俺に、関係ない、だと? 風田は苛立ちを我慢し、


「今年が駄目なら、もうやめるべきだ」


 十分金は稼いだだろう、と榊を説得した。榊は意地でも死亡者を出そうとしたが、結果は重傷者八名。さらに暴力教師という噂が立ちはじめ、このままでは呪い人そのものが偽物になってしまうところだった。

 その夜、風田は榊を食事に連れ出し、睡眠薬を盛って眠らせた。榊の車の運転席に彼を座らせて、練炭を焚く。

 扉を閉めようとした瞬間、うなだれた榊の右腕がヒュンッと上に動いて、風田の顔をナイフで切りつけた。まともに動くことすらままならない状態で、榊は血走った目を見開き、「ざまあ、みろ」と最期に口角を吊り上げた。

 詠策が死んだのはそれから六年後、今年の一月である。


「どうしよう、タジロー。動かなくなっちゃった」


 響弥の姿をした茉結華が、暗い座敷の隅を見下ろして言った。詠策は、大型犬用の檻のなかで倒れていた。骨張った手足を投げ出して、ぽっかりと開いた口には蝿が集っている。

 餓死していた。茉結華いわく、閉じこめたのは十二月下旬。気づいたのは、ひと月後である。水一滴飲まない人間が餓死するには十分すぎるほどの時間が経っていた。


「俺……やるよ」


 今度は、話したのは響弥だった。


「藤北のオカルト……親父の作った呪い人。二年生になったらはじめる。それが親父の、唯一の望みだったから」


 響弥の目は真剣で、やると決めたら聞かない子供の横顔だった。たとえ殺人犯になっても構わない覚悟だろう。そうなれば間違いなく響弥は逮捕される――風田のサポートなしでは。

 風田は響弥の肩をぐっと強く抱き、偉人の言葉を借りて励ます。


「一人殺せば殺人者、百万人殺せば英雄だ。お前なら、できる」


 それから響弥は二月にトワ、三月にルイスと出会い、着々と準備を進めていった。予想外の元号改正、令和元年となった今年。呪い人を再び始動させるために。


    * * *


 榊創は練炭自殺ですでに亡くなっていた。その事実を聞いて席を立つ長海を、ネコメは眩しいものを見るように目を細めて呼び止めた。


「長海さん。長海さんは、三人もの命を救ったんですよ」


 突拍子もなく、ネコメは繰り返し紡いだ。


「長海さんがいたから救われたんです。彼らはあなたに、感謝していますよ」


 ……救った命、救えなかった命。長海がその後者に搦め捕られていることを、この相棒はお見通しのようだった。

 ネコメを手伝うことで気を紛らわせようとしていた、そんな自分をネコメは察していた、だから長海に身体を預けた。弱みを見せられないのも、甘えられないのも、すべて長海に返ってくる言葉だ。

 長海は奥歯を噛みしめる。恥ずかしいのか悔しいのかわからぬまま、目頭がじんわりと熱くなった。

 ただひとつわかることは、彼のその小さな一声だけで、長海の塞ぎきった心に光が差しこんだことだった。

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