日龍高校へ

 欠席中の橘芽亜凛は、火曜日になると何事もなかったかのように登校してきた。隣の席の凛に薄く微笑み、おはようと挨拶を交わす。ほかのクラスメートとも――女子には笑って対応し、男子には距離を置いて――普段どおりに接していた。

 彼女が事件と間接的に関わっていることは、渉と凛を含めた限られた人しか知らない。渉が被害者の一人だという噂は囁かれているが、芽亜凛についてはまったくの無関係者扱いだった。


 というのも、掲示板では神永響弥犯人説が加速して、今では彼が起こそうとした『呪い人』、その中心人物探しがはじまっていたのだ。神永響弥は誰を呪い人にしたかったんだろうね、と。


 被害者は小坂めぐみ、松葉千里、それから朝霧修と林原はやしばらごうまで確定されている。渉は入院していないため、掲示板の推理材料には含まれていない。

 呪い人は、被害者の四名と深く関わりのあったE組の生徒。掲示板の最多予想は三城さんじょうかえで、二番目は萩野拓哉たくや、以下その他であった。

 名前の上がった二人は、広く交友関係を築いている学年の人気者である。転校生の芽亜凛や、もちろん渉や凛の名前が上がることはなかったのだ。

 響弥の呪い人はすでに、失敗に終わっていた。


 歪んでいく日常の片隅で、渉は自分がやるべきことを考えていた。ただ一人軽傷で助かった当事者として、やり遂げなくてはならないことがある。


「はい、渉くん。お弁当、朝渡しそびれてた」


 凛の手作り弁当は、テスト期間が終わった翌日から復活した。銃撃事件の後も凛は渉の昼食を作り続けている。いや、事件が起きて、渉が無事だったからこそか。


「サンキュー。凛は今日も売店?」


 渉は、凛の席を一瞥して言った。先週に引き続き、凛の昼食は弁当ではなかった。売店で買ったおにぎりと野菜ジュースである。


「うん、ダイエット」

「する必要ないだろ。それに俺だけ作ってもらうのも悪いし……」

「渉くんだけじゃないよ。えっと……お父さんとか」

「そうなの?」


 そもそも凛が渉に弁当を作るようになったのは、自分の分を作りすぎてしまったのが発端である。ダイエットなんてする柄でもない。

 事件や連日の騒ぎで食欲がないのだろうか。何にせよ、凛が食べていないのに渉だけ受け取っているのは、少々心苦しいものがあった。


「うん、まあいろいろと。渉くんより料理上手になりたいもん」


 えへへと笑って、凛は可愛らしい理由を付け加える。料理上手な渉への対抗心。そんなふうにストレートに言われてしまっては、何も言い返せなくなるだろう。思わず胸が、ぽっと温まる。


「おう、頑張れ」

「うん、頑張る」


 凛は警察官のようにぴしゃりと敬礼して、「じゃあまたあとで」と教室を出ていった。千里のいるC組へ向かったのだろう。いつメンの杉野すぎの柿沼かきぬまも、そちらにいる清水しみずのもとへ集まっている。響弥とゴウのいない、昼食タイムだ。

 渉も向かおうか逡巡して、やめておいた。些細な噂とはいえ、銃撃事件の被害者が他クラスに出入りするのは余計な騒ぎを招きかねない。千里も同じ考えだろう、だからE組に来ないのだ。


 机に弁当を広げて、いただきますと手を合わせる。今日も凛の愛妻弁当を堪能させてもらうとしよう、と箸を持ったとき、背後から「望月ーっ」と声がした。委員長の萩野拓哉である。


「来いよ。一緒に食べないか」


 斜め後ろの席でにこにこと手招きする萩野との視界を、スッと黒い影が遮る。渉は、笑顔で持ち上げかけた腰を椅子に沈めた。

 芽亜凛が、立ち塞がったのである。


「怪我」

「え」

「怪我、大丈夫ですか」


 彼女は杉野の椅子を引いて、わざわざ渉と萩野の通路を遮断するようにして座った。後ろで萩野が気まずそうに手を振っている。渉が目線で謝ると、芽亜凛は渉の机にサンドイッチを置いてぱくぱくと頬張った。

 芽亜凛と、二人きりで昼食を取っている。この状況はいったい……。


「えっと……大丈夫、です」

「……そう」


 長い睫毛が、相槌とともにぱちりと上下する。会話は続かない。

 相変わらず、この容姿端麗の転校生には取っ付きにくいオーラが漂っていた。芽亜凛は黙々とサンドイッチを頰張り、渉はあせあせと弁当のおかずを口に運ぶ。クラスメートからの視線は無視した。

 カーテン越しに差しこむ初夏の日差しが、渉の顔半分に熱を送る。芽亜凛を見ないように意識すると今度は嗅覚が過敏になって、シャンプーだろうか、少し甘めの果実のような香りに目眩がした。

 渉はコホンと咳払いをして「C組には行かないの?」と、それとなく凛と千里の存在を匂わせた。芽亜凛は、「あとで行くって言いました」と難なく答える。――あとでっていつだよ。


「望月さんは、朝霧さんのお見舞いに行きましたか?」

「え、」


 思いがけない質問に低い声が漏れた。


「行ってないけど……」


 どうして? と言いたげに、芽亜凛は瞳を持ち上げて渉を射抜く。渉とて、どうしてという気持ちが勝った。どうしてそんなことを訊くのだろう、朝霧のことを心配しているのか、渉に気を遣って言ったのか。


「い、行きたいのは山々だけど、その前に、用があって」

「どんな用ですか」


 芽亜凛の鋭い切り返しにたじろぎながら、渉は周りに聞こえないよう注意を払って、今日の予定を正直に話した。


「学校のパソコンの関係者っていうか、会社の人? ……に頼めば、誰が遠隔操作してたかわかるかもしれないって、朝霧が言ってたんだ。……で、今日会いに行こうかなって」

「一緒に行きます」

「え?」

「そのほうがいいような気がしたので」


 芽亜凛はサンドイッチを食べきると、渉の返事も聞かずに席を立った。


「大丈夫です。部活はサボります」

「そんな堂々と宣言されても……」


 大手企業AJISAIメーカーの御曹司――紫陽花あじさい刻輝きざきのもとへ行く。それが渉に託された、やり遂げなくてはならない使命であった。




 相手は出会い頭に殴りつけてくるような奴だ。退学させた身、させられたキザキ。因縁の相手として、渉は彼と向き合わなくてはならない。

 正直言うと、一人では心細かった。響弥がいれば……朝霧がいれば……、一緒に来てくれと頼んでいただろう。芽亜凛が行くと言ったときは複雑ではあったが、断る気は起きなかった。一人で行くよりもずっとずっと心強かった。


「聞いてくれるか」


 日龍にちりゅう高校へ向かうさなか、渉はキザキとの苦い記憶を吐露した。半歩下がって隣を歩く芽亜凛は、終始黙って聞いていた。


「今から会いに行く奴はキザキって言って、元藤北の生徒なんだ。あいつは俺のことを憎んでる。俺があいつを、退学させたから。――今通ってるのは日龍っていう強豪校で、甲子園常連のすげえ学校。まあ、あいつにとってはぴったりの場所かもな」

「日龍なら……部活してるんじゃないですか」

「いや、あいつはクラブだよ。ボクシング習っててさ、すげえつえーんだよ」


 藤北にいた頃からキザキは帰宅部で、外でボクシングを習っていた。総合スポーツクラブに通っているエースこと高部たかべシンと並ぶ、プロ志望の逸材である。


「どうして退学処分になったんですか」


 芽亜凛の静かな問いに渉は視線を彷徨わせ、そろりと告白した。


「暴力沙汰で……俺が、殴らせたんだ」


 わざと彼を煽って暴力沙汰を引き起こし、意図的に退学処分へと持っていった。キザキに絡まれて怯える響弥を守るために。

 ――けれど今なら、キザキが正しかったのだとわかる。

 キザキは野生の勘で、神永響弥を怪しんでいたのだ。

 こんなことを誰かに話す日が来るとは思わなかった。一年の頃を知らない転校生の芽亜凛が相手だからだろうか。不思議と口が、軽くなっている。話そうという気に自然となれたのだ。だからといって、渉の重荷が消えたわけじゃないが。


「日龍は、私のいた高校なんです」

「っ、え」


 渉は足を止めて「そうだったの?」と芽亜凛を振り返る。頭脳明晰の芽亜凛が、部活重視の日龍に通っていたとは意外だと、渉は感じた。あるいは、通わされていたのか。


「い、行かないほうがいいか?」

「いえ、行きます」


 芽亜凛は強く言って、すたすたと渉を追い越していく。


「望月さんが逃げないのなら、私も逃げません」


 彼女なりの励ましか、ハッとするほど迷いのない足取りだった。ぴんと姿勢よく伸びた後ろ姿に、まっすぐ突き進もうとする強い意志を感じた。


 日龍高校が近づくにつれて、緑色のラインが入ったポロシャツとすれ違うようになる。日龍の帰宅部ではあるものの、キザキのように外部のスポーツクラブに通っている者たちだ。

 広大な敷地からは、生徒らの熱気溢れる掛け声が響いている。複数の部活が十分に活動できるよう野球場やサッカー場はグラウンドとは別で完備され、各コートや練習場もそれぞれ独立して備わっていた。


 キザキはもう帰ってしまっただろうか。すれ違った生徒のなかに彼の姿はなかったが。

 重厚な校門の前で敷地をきょろきょろと見渡していると、不意にものすごい力で渉の腕が引かれた。


「警察がいます……!」


 芽亜凛は校門に背を預けて、渉に隠れるよう促した。そっと顔を出して様子を窺うと、校旗と植木の間で蠢く大人たちの姿が確かに見える。


「警察……なんで?」

「わかりません」


 さすがの芽亜凛も声色に焦りが含まれている。彼女は見られても平気ではあるが、つい最近事情聴取を受けたばかりの渉は、できることなら避けたかった。

 まさか藤北に続いて日龍でも何か事件が……いや、そんな雰囲気ではない。生徒はごく当たり前な様子で放課後部活に励んでいる。事件があったようには見えないのだ。

 植木の陰で立ち話をしていた刑事たちがぞろぞろと動きはじめる。その中心に、随分ガタイのいい体育会系の教師がいた。


「逮捕じゃなさそうだな……事情聴取か?」


 ひとりごちる渉の袖を、芽亜凛がぎゅっとつまんで引いた。


「あそこにいるの……元担任です。水泳部の顧問の……」


 芽亜凛の大きな瞳のなかに、怯えと不安が浮かんでいる。手のひらで抱えきれずぼろぼろとこぼれ落ちていく『謎』への恐怖が。把握しきれない事態と見えない動きへの動揺が、滲んで見える。

 教師を乗せた捜査車両は目の前を横切って出ていく。しかし、いったい何の? 

 何の用で警察は日龍高校にいたのだろう。連行された教師はいったい、何をしたのだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る