悪意

 風田かぜた慈朗じろうによる発砲事件は『藤ヶ咲ふじがさき北高校銃撃殺傷事件』と称され、その日に特別捜査本部が設置された。

 生徒一人を死亡させたうえ、三名の重軽傷者を出す惨事となった彼の事件は『警察官による奇行』と瞬く間にニュースとなり世間を騒がせている。


「亡くなったのは小坂めぐみ、十六歳。まだ犯人の捕まっていないホテル拉致監禁事件の被害者です。風田は女子高生殺害と、ほか男子高生三名に対する暴行および傷害を認めています。さらに神永かみなが家の死体遺棄事件とホテル拉致監禁事件、どちらも自分がやったと自供しており――」


 神永響弥の父、詠策えいさくの死体遺棄事件。その事件の犯人は自分である、と風田が名乗りを上げたため、会議にはより多くの捜査員が投入された。

 合同捜査本部の指揮は、長海ながみらの係長である朱野しゅの警部のほかに、警察本部長までもが担当することになった。朱野は、事件関係者の写真が貼られたホワイトボードを指で叩く。


「神永家の事件、ホテルでの誘拐。どちらも犯人候補に上がっていたのは神永響弥という男子高校生だ。風田がこいつと繋がっている裏も取れている。灰本はいもと

「はい」


 灰本は緊張した面持ちで腰を上げた。捜査員の一人が小声で「風田班だ」と耳打ちしたのが、長海の耳にまで聞こえる。


「負傷した男子のうち、一人から証言が取れています。証言者は望月渉。聴取によると、襲撃犯……っ風田さんは、彼を知っていたらしく、銃撃の際『望月渉だな、一緒に来てもらおう』とはっきり言われたそうです」

綾瀬あやせ

「……はい」


 次に当てられた綾瀬が一拍置いて起立する。


「藤北の教師たちによると神永響弥は善良な生徒で、クラスのムードメーカーでした。が、家庭に問題を抱えており、親が放任主義なのだろう、と教師たちは気にかけていたようです。現在彼は休学中で、行方も掴めてません。また、神永響弥と望月渉は、教師も認知するほど仲のいい親友同士でした。はんちょ……風田、さんに望月渉を連れ去るよう指示したのは神永響弥かと思われます」

「どうして休日の学校に行ったのか。風田はだんまりだが、こちらも証言が取れている。長海、行けるか?」


 示し合わせたかのように風田班の面々が順にバトンを繋ぐ。長海は「はい!」と力をこめて起立し、手帳も見ずに報告を続けた。


「きっかけを作ったのは、藤ヶ咲北高校の裏サイトです。現在この掲示板では、神永響弥を煽る書きこみが多数見られます。負傷者の朝霧しゅうはサイトの管理人でした。彼らはサイトの不正アクセス元を辿って、学校に着いたと証言しています」


 会議室全体が、どういうことだと言わんばかりにどよめいた。


「このサイトの存在が捜査を難解にしていますが、自分もこのサイトを見て神永響弥の居場所を知れるかと思い、現場に駆けつけました」

「そこで長海は風田と対峙した。つまり学校のパソコンを調べる必要がある。そうだな?」

「はい」


 捜査方針は整った。引き続き風田の取り調べと、被害者遺族のケア。学校のパソコンの解析およびアクセス元の割り出し。そして、事件の重要参考人である神永響弥の足取りを追うこと。各班が分担して捜査に当たっていく。


「長海。お前は風田の取り調べに向かってくれ。綾瀬と灰本は補佐に回れ」


 会議を終えて、朱野警部は真っ先に長海たちを呼び止めた。班長のいない風田班は、朱野警部のもと動くほかなかった。


「っ、自分が担当してよろしいんでしょうか」


 風田を逮捕したのは長海だ。しかし……仮にも同じ班の、直属の上司が相手の殺人事件。

 上司の犯した殺人事件を部下が担当していいのか、担当するべきなのだろうか。風田班は、綾瀬も灰本も相当悩み、やり場のない苦悩に息が詰まった。捜査から外される覚悟もできていた。

 そんな彼らの憂いを払ってくれたのは朱野警部だ。朱野警部は風田班を捜査から外さずに、自分のもとで動けと命じた。彼は風田の行いに憤りを感じている刑事の一人だった。その怒りは、風田班の三人が背負わなければならないものだった。

 朱野は「馬鹿野郎」と長海の胸を手の甲で叩く。


「風田が呼んでるんだ。お前と話がしたいってよ。……注意しろよ」

「……はい」


 長海はしっかりと頷いた。綾瀬と灰本も、曇った顔つきに覚悟を滲ませていた。

 逮捕の瞬間を思い出すと、恐れと焦りとで身がすくむ。綾瀬も灰本もそれは同じだったようで、取調室に向かう足取りは重かった。

 ――ネコメだったら、我々が捜査すべきだと胸を張って言うだろう。彼の部下だからこそ、自分たちが話を聞かなくてはならない、と。


 長海たちが入室すると、風田は口を真一文字に結んだまま背筋を伸ばして座っていた。威厳ある刑事の目つきが、今では凶悪犯のそれとなっている。

 彼は長海を見るなり、「よお」とギラつく歯を見せて笑った。刑事の風田慈朗では一度も見せることがなかった、満面の歪んだ笑みだ。


「なんだ長海、タバコ臭えな。吸えたのか?」

「何の用ですか、風田さん」


 長海は風田の向かいに座り、綾瀬と灰本は後方でノートパソコンを立ち上げた。取調室の透視鏡越しには、朱野警部や管理官たちがいるだろう。悪の道に落ちた同胞の姿を、固唾を呑んで窺っている。


「別に用ってほどのもんじゃねえよ。ただ、女子高生一人救えなかったお前のツラを見たかっただけだ」


 硬派なりにも部下を思いやる温もりがあった風田の口調は、聞くに堪えないほど悪辣なものとなっていた。


「殺したのはあなたでしょう」

「救えなかったのはお前だろう?」


 長海の指先が、震える。下瞼が痙攣する。

 風田の皮肉めいた発言は、長海の心に棘となって突き刺さった。自分でも何度も何度も考え、心を貫き、悔いたことだ。

 小坂めぐみを救えなかったこと。間に合わなかったこと。長海は風田に、悪の前に、一歩及ばなかった。

 駄目だ、駄目だ、相手のペースに呑まれるな。長海は、引きずりこもうとする悪意の渦を振り払い、深呼吸した。


「元奥さんに会いましたよ、渕岡ふちおかはなさんに。あなたとのお子さんについて聞いてきました」


 風田の表情から笑みが薄れて、唇の端だけぴくりと引きつる。

 この話題を出すことに対する葛藤はとうに消えていた。学校で風田を見たその瞬間ときから。


「茉結華というそうですね。俺が追っているのも茉結華という少年です。神永響弥の別名で、同一人物だと。これは偶然でしょうか」

「……」

「あなたは亡くなったお子さんと神永響弥を重ねている。あなたは神永響弥を庇っている。そうでしょう?」

「くはっ」


 風田は、こらえきれないとでも言うように笑った。


「くはは、ふっはははは、ははは!」


 嘲りの含んだ笑い声が、取調室に高らかに響き渡る。風田はひとしきり笑ったあと、カラーレンズの眼鏡を外して、にんまりと勝ち誇ったような笑顔になった。

 眼鏡を外すと、昔負ったという顔の傷がよく目立つ。刃物で切りつけられたような痕だ。


「聞いたよ花から、電話でな。俺の部下を名乗る男が、こそこそと俺のことを聞きに来たって。上司の内情を嗅ぎ回るのは楽しかっただろう。なあ?」


 長海は、腹に力を入れてポーカーフェイスを保った。渕岡花から風田に伝わることは、重々わかっていたことだ。今でも近況報告する仲だと聞いたときに、長海はそのリスクを想定していた。

 堂々たる姿勢で悪意を跳ね返す長海に対し、風田はシナリオどおりであるかのように、凄惨に口の端を吊り上げて笑う。


「目は届いたか?」

「っ……!」

「風田さんっ!」


 長海の代わりに綾瀬が立ち上がり、慌てて灰本が制止する。部下との間にできた深い溝を面白おかしく抉るように、風田は腹を抱えて笑い声を上げた。

 これが……あの風田班長だろうか。物事を冷徹に見定めて犯人を追いつめる優秀な刑事だった男が、こんな下品な笑い方をするだろうか。

 ……いや違う、そうじゃない。こいつはもともとこういう男だったのだ。刑事の風田慈朗という仮面を外した姿が、今目の前にいる男の正体だ。

 上司として尊敬し、疑いもせず付き従っていたかつての自分に、長海は嫌気が差しそうになる。


「全部、俺が一人でやったことだ。お前の家に忍びこんで、プレゼントを置いたのも俺。ネコメを公園に運んだのも俺。井畑いばたの自殺も……あの周辺は俺の巡回区域だからな。防犯カメラに捜査車両が映っていても、警察は疑わないだろ?」


 瓶詰めの片目が自宅に置かれていたのは、渕岡花に会った翌日である。あれは長海への警告と、そして身の回りを調査された腹いせ。風田の動機は十分だ。

 だが、ネコメの遺棄と井畑の自殺は? 本当にすべて風田がやったことなら、響弥はなぜ逃げているのだろう。


「あなたは神永家に出入りしていますね。あなたと響弥、金古かねこを襲ったのがどちらであっても、あなたたちはあの日あの家で一緒にいた。響弥はあなたの犯行を見ている。そのうえで堂々と嘘をつき、誤認逮捕に仕立て上げた」

「だったらなんだ」


 風田は悪びれもせず鼻で笑った。


「そうだ。俺はあの子の父親だ。父親代わりだった。だがあの子は何もしていない。何もしていない子を庇うのは親として当然だろう」

「それは響弥が詠策を殺したからでしょう!」


 ふつふつと湧き上がる怒りに身を任せて、長海は思わず声を荒らげた。


「神永響弥は詠策を殺した。殺してしまった。死体がおおやけとなった今、あなたは彼を庇うためにこんな馬鹿な真似をしたんだ。罪を償うのはあなただけじゃない、神永響弥も同じだ」


 風田は一旦は口をつぐんだものの、なおもかぶりを振った。


「違う。神永詠策は俺が殺したんだ」

「あなたが彼を庇うほど、疑いは彼に向きます」

「違うと言ってるだろう!」


 手錠のかかった両手で、風田は机を殴りつける。

 揃いも揃って、どいつもこいつも、神永響弥を逃がそうとしている。あの女、稗苗ひえなえ永遠とわもそうだった。このままでは埒が明かない。


「響弥の居場所は?」

「知らん」

「彼が逃げる理由は?」

「お前らが追うからだろう」


 長海はため息を押し殺し、最後にひとつだけ質問した。


「エヤミツクルを、恨んではいませんか」


 ぎろりと、風田の刃物のような目が持ち上がる。動揺は感じられなかった。

「エヤミ……エヤミか」と風田は口のなかで呟いた。彼は今どこにいるのか、風田たちの協力者ではないのか。なんでもいいから、エヤミツクルについての情報が知りたかった。

 けれども、風田が言い残したのは、長海にとって思いもよらない一言だった。


「あいつのことを知りたきゃ、ネコメに聞いてみろ」

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