第十三話

行方知れず

 苺のショートケーキが食べたい。一口かぶりつけば幸せが溢れるシュークリームが食べたい。喉が痛くなるほど甘い生クリームを、口いっぱいに詰めこみたい。チョコレートを被りたい。カスタードクリームを浴びたい。頭から爪先まで甘味に埋もれて眠りにつきたい――

 とろとろと甘い微睡みに落ちていく茉結華まゆかの意識を、甲高い銃声が繋ぎ止めた。休日の優雅な昼下がりに似つかわしくない、死の音だった。


 茉結華はふわりとあくびをして、レースのカーテン越しに外を見つめる。

 今の音は、きっと空耳だ。他人の平和なティータイムをぶち壊したいという願いが生んだ幻聴。自分は食べたくても食べられないのに、今この時間にケーキを味わっている人間がどこかにいると思うと腹が立つ。


 小さな部屋に一人でこもっていると、まるで幽閉されている気分になる。深窓の令嬢にでもなったような。

 だがここは、茉結華が望んで潜んでいる、ごく一般的な家庭の一軒家だ。居場所は誰にも突き止められないだろう。少なくとも、今は。

 コンコン、と扉を叩く音がした。

 自分の部屋をノックするというのは、どんな気持ちがするのだろう。茉結華は、訪れたに訊いてみたくなった。


    * * *


 ペダルをひと漕ぎするたび、むっとした熱気がまとわりついてくる。予定では今週末か来週には梅雨が明けるそうだが、雨が降っていてもいなくても、夏の厳しい暑さからは逃げられそうにない。

 わたるは鞄から水筒を取り出すと、片手運転で喉を潤した。校門前には機材を抱えた報道陣の姿が多く見られる。事件後に登校してきた健気な生徒たちを撮っているようだった。

 風に吹かれて乾いたはずの汗が、じわじわと滲み出てくる。渉はこめかみを覆う湿布を手で押さえて、彼らの視界に入らないよう遠回りをした。裏門から駐輪場へ向かって、逃げるように生徒玄関へ駆けこむと、


「あ、やっほー! 久しぶりだねぇ」


 手の甲で額を拭う渉を、快活な声が出迎えた。E組の下駄箱をちらちらと覗きこんで待っていたのは、先週まで入院していた千里ちさとだった。

 珍しく、髪を下ろしていた。病室で見たときと同じオフの状態だった。


「ああ、おはよう。もう退院したんだっけ」

「うん、昨日ね」


 今週から登校できるとは聞いていたが……。病室で渉と朝霧あさぎりを追い返したときの、彼女の鋭い顔つきが思い出される。

 元気そうでよかった。あのときと打って変わってご機嫌そうで、いつもの明るい千里が戻ってきたのだと実感させられる。


「いやぁ教室に行ったらいろいろ訊かれちゃってさ、もう勘弁してほしいよね。乙女のデリケートな心が傷ついちゃうよ」


 靴を履き替える渉の横で、千里はけらけら笑って肩をすくめる。それで、別事件ではあるが同じ被害者の渉を待っていたと。

 本来その枠は渉のものではなかっただろう。千里は、誰よりも先に会いたかったはずだ――小坂こさかめぐみと。


りんには挨拶した?」

「したよ。でも気が気じゃないだろうからさ。わたしは元気ハツラツ! 明るい松葉千里でいないとね」

「……そっか」


 なんとかしてそう答えたが、正直言葉が詰まった。

 千里はA組の、小坂めぐみのことを……大切に思っていたはずだ。彼女について何か思うことはないのか。空元気だとしても明るく振る舞おうとする千里に、訊けるわけがなかった。頑なにその名を口にせず、教室から逃げて、話題を避けて。話を振られるのを恐れている。

 だから渉は話を変えた。


「今日は髪、結んでないんだな」

「ああ、あれね、凛ちゃんにあげた」

「お揃いだったのに?」

「お揃いだけど……あれ、発信機が入ってて。それでわたしは助けられたんだけどね、事件を思い出すから……しばらくはお預け。だから凛ちゃんにあげちゃった。お守りだよ」


 ことが大きくなる前に救出された、ホテルでの誘拐事件。肌身離さず付けていたあの、凛とお揃いの赤い髪留めが彼女の命を守ったことを、渉は知った。

 やはり事件の話はしたくないようで、千里の勢いは途端に弱まっていった。こんなとき響弥きょうやなら気の利いたパスを出してくれるだろう。響弥なら……あるいは朝霧だったら。


「教室、一緒に行くか」


 渉の精一杯のフォローは、首を振って断られる。


「このあと体育館で全校集会だよ。わたしは保健室でサボろっかなーって思ってるけど、渉くんも来る?」


 さりげない気遣いは見透かされて、渉が気を遣わないような誘いに切り替えられた。渉はうろたえつつも「ううん」と首を振る。「俺は大丈夫」

 ゴウと朝霧と違って軽傷で済んだ渉は、みんなには知られていないはずだ。そう思いつつ教室のドアをくぐると、


望月もちづき……!」


 教卓の前にいた萩野はぎのが振り向いた。大半はまだ来ていないのか、もう体育館にいるのか――教室にいる数少ないクラスメートの視線が一斉に渉に注がれる。

 萩野は駆け寄って、教室の隅へと渉の手を引いた。彼の後ろから現れた凛も、同じような表情で渉を見つめる。千里の言ったとおり、心配そうな面持ちだった。


「事件に巻きこまれたってほんとか?」

「えっ、なんで」

「渉くんのこと警察署で見た人がいるって。……来て大丈夫なの?」


 亡くなった小坂めぐみのほかに重軽傷者がいることはテレビのニュースでも報じられている。そんななか警察署周辺で藤北の生徒が――顔に傷を負った状態で出入りしていれば、噂が立つのも仕方ないだろう。


「一応、ひと段落ついた。親は休ませたがってたけど、家にいても落ち着かないし」


 事件当日と翌日の日曜、渉は二日続けて警察署に入り浸りだった。渉は打撲で済んだが、銃撃を受けたゴウと朝霧は入院している。被害者生徒のなかで唯一軽傷で済んだため、話もより多く訊かれたのだ。

 休めば怪しまれると思ったが、すでに知られていたとは予想外だった。


「萩野ーっ体育館行けばいいのー?」


 クラスメートの男子が萩野を呼ぶ。萩野は「じゃあ俺、先行ってるな」と言い残して男子の群れに合流していった。渉は自分の席に鞄を置き、凛に小声で訊いた。


「凛は掲示板のことどれくらい知ってる?」


 幼馴染は虚を衝かれたように瞠目し、目をしばたたいた。


「……芽亜凛めありちゃんから聞いたよ、少しだけ。誘拐事件の犯人を煽るとか……でも掲示板のことは」


 ううん、と凛は首を横に振った。芽亜凛はどんな方法で犯人を煽るのか、凛に伝えていなかった。言えば凛なら反対していたかもしれない。


「E組もそうだけど、いろんなところでざわついてたでしょ? それで知ったっていうか……噂でちょっとだけね」


 掲示板の盛り上がりと、響弥のこと。現実とネットの状況はリンクしていた。クラスで女子同士の争いが起きたように、みんな情報に翻弄されていた。

 その作戦に朝霧と渉が協力していたことを、芽亜凛は凛に黙っていたようだ。凛は、銃撃事件と掲示板の陽動作戦、ふたつが繋がっていることを知らない。

 凛は続けて言った。


「芽亜凛ちゃんが、心配。一人で抱えこんでなきゃいいけど」


 声色には、心の底から芽亜凛を思う気持ちが詰まっていた。


 朝部活を中止して開かれた全校集会では案の定、銃撃事件について触れられた。休日の学校に忍びこんだ不審者がいること、うちの生徒が巻きこまれたこと、怪我人が出たこと、女子生徒が一人亡くなったこと。

 現場となった四階は警察によって封鎖され、しばらくは立入禁止である。数日は外にマスコミがうろついているため、臨機応変に対応するよう呼びかけられた。


 二年生は全体的に、並んでいる女子の数が少なかった。ショックで学校に来ていないのか、千里と同じように保健室で休んでいるのか。

 いなかったのはおそらく、亡くなった小坂と仲のいい生徒たちだ。追悼の間に涙を流す者や、いたたまれず肩を抱かれて体育館を出る者もいた。集会は、彼女への黙祷で締めくくられた。


 欠席者のなかには、たちばな芽亜凛も含まれていた。銃撃事件の引き金となった、掲示板の書きこみ。その首謀者である彼女自身もまた、欠席だった。登校すらしていなかった。

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