幸福な人生
椅子から崩れ落ちるゴウを横目に、
咄嗟に
「ゴウ……!」
「ううっう……」
左腕を撃ち抜かれている。心臓を狙って外したようだった。流れ出た鮮血がじわじわと床を染め上げ、恐怖と痛みでゴウが歯を食いしばる。
声を抑えこんでいるようだった。偉いなと朝霧は評価したが、彼を連れて逃げるのは無理だと即座に判断する。
渉と朝霧、撃たれたのがどちらかであれば、まだ三人で逃げられただろう。だが、負傷したゴウを庇いながらではあっという間に追いつかれる。素の機動力が違いすぎるからだ。
敵は三階の渡り廊下から、四階に向けて撃ってきた。下の階からわざわざ攻めてきたのは、第一と第二コンピュータ室、両方を確認するため……否、一番の目的は逃げ道を塞ぐためだろう。
ひとつ下の渡り廊下から向かえば、冷静さを失った学生は階段と通路、どちらも封鎖されている心理に陥る。逃げ場はない、と動けなくなる。
敵が不正アクセスした際、四階の第二コンピュータ室を遠隔操作したのは、最初からこちらをおびき出すためだった。窓際のパソコンを使用したのも、外から様子が見えるように。すべて、最初から計算されている。
……が、そんなことを説明しても今の状況では伝わらないだろう。朝霧はハンカチでゴウの傷口を縛った。目と鼻の先で発砲された直後とは思えない平静さで彼の思考は働き続けるが、渉とゴウは恐怖に呑まれている。
「隠蔽は頼んだぞー、ルイス」
渡り廊下を渡って施設棟に侵入した男は、防犯カメラに向けて独り言を呟いた。目標の第二コンピュータ室は、階段を上った目の前だ。
「迎え撃とう」
朝霧はゴウの上履きを外して言った。
「動かなかったらみんな死ぬ。僕が後ろから押さえこむから、
渉は目を丸くした。この状況で生き残る道などあるのだろうか。互いに身を隠し、隙をついて逃げ出すのが得策だろう、けれど動けないゴウがいる以上その選択肢はないも同然。ならば、これが唯一の打開策か。
朝霧は迅速に動いた。
「隠れて。
上履きを設置してデスクの陰に隠れる。渉はゴウを支えつつ場所を移動すると、隙間から見えた朝霧とアイコンタクトを交わした。朝霧がしーっと人差し指を立てる。廊下から足音が近づいてきた。
男は扉の前で足を止めると、室内をじっくりと見渡して、拳銃の柄を壁にいきなり叩きつけた。
ガッ、と鈍く響いた音に渉は驚き、身をすくめるように口を手で塞ぐ。ゴウも痛みに涙を流しながら肩を震わせた。悲鳴を誘発させて、居場所を把握するのが目的。プロの動きだった。
続けてカチッと拳銃の撃鉄を起こし、見せつけるように発砲準備を完了する。背も高く体格もいい、大柄な男だった。男はガラスの散らばった窓際のほうに、銃口と視線を留める。
デスクの陰から、上靴の先端が見えている。悠々と狙いを定め、ゆっくりゆっくりと近づいていく。それは、朝霧が置いたゴウの上靴――囮であった。
朝霧は男の背後から音もなく飛び出すと、手にした電源コードをその首めがけて巻き付けた。重心を後ろに傾けながらコードをひねり、体重をかけて絞め上げる。
「っ、ぐっ!」
男は抵抗しようと銃を構えたが、銃口は天井に向けられて、朝霧を狙うには体勢が悪かった。首に絡まるコードを片手で握って引き離そうとするも、みしみしと食いこんでいくだけでびくともしない。
渉は死角から身を乗り出し、銃を持つ男の手を闇雲に掴んだ。振り払おうと男が藻掻き、トリガーに指をかけて頭上の蛍光灯を撃ち抜く。バチッと火花が降り注いで、渉は思わず手を緩めた。拳銃の柄が、渉のこめかみを横殴りにする。
男は両手で首のコードを掴むと、背負投の要領で朝霧をデスクに叩きつけた。
――拳銃が、火を吹いた。
撃鉄を起こした銃が朝霧を撃ち抜いたのと、朝霧がデスクから転がり落ちたのがほぼ同時だった。明滅する真っ白な世界から逃れて、渉が焦点を合わせたとき、デスク上には大きな血痕が引かれていた。
朝霧――――朝霧が、撃たれ、
「お前、望月渉だな。一緒に来てもらおう」
男は首と手首を大仰に回して、乱れた前髪を掻き上げる。男に呼ばれても、渉の目線は血痕に注がれていた。
視界がぐらぐらと揺れる。脳が揺れ、貧血に似た浮遊感が足元を襲い、室内に響き渡るくらいドクドクと鼓動が激しく暴れている。
朝霧……朝霧はどうなった。血が、傷が、血痕が……。どこを撃った……どこを撃たれた。
「こっちのガキはいらないな」
男はカチャッと撃鉄を起こし、朝霧の落ちた床に銃口を向けた。渉はハッとしてデスク上の血を滑り、乗り越えた先で朝霧を庇う。
脇腹を撃たれて倒れていた朝霧は、目の前に現れた渉の、背後の――桜色に目を奪われた。
真っ赤な消火器を振りかぶる。男の頭に、それは当たらなかった。気配を察して男は振り向き、そして。
小坂めぐみの心臓を、撃ち抜いた。
彼女の背中に真っ赤な花が咲く。潤んだ瞳が一瞬朝霧を捉えて、両手から力が抜けたように消火器が滑り落ち。膝を折り、瞳を閉じ、桜色の髪を靡かせて倒れる。
長海が外で聞いたのは、すでに三発目の発砲音だった。駆けつけるまでに一発、さらに直後にもう一発。
コンピュータ室の真ん中に立っていた自分の上司は、弾を装填している最中で――
長海はぶるりと一度武者震いをして、飛びかかった。
「風田さんっ!」
死角から体当たりして、怯んだ手首をひねり上げる。格闘術なら誰にも負けない。たとえ相手が直属の上司であろうと。銃も警棒も持たない丸腰の状態であろうとも。
「長海、なぜここに……!」
言うが早いか、長海は風田の拳銃を奪い取り、背中に肘打ちを食らわせて押さえこむ。手錠をかける彼の横を、血まみれの朝霧がふらりと横切った。
脇腹から血を流しながら、荒れたデスクの間をくぐり抜け、床に倒れる小坂のもとに跪く。彼女はまだ息をしていた。か細く呼吸を繰り返して、薄目を開けたまま血溜まりの中に沈んでいる。弾は背中を貫通し、床と壁に真っ赤な花弁を散らしていた。
朝霧は蛍光灯の光を遮断するように、小坂の上に影を作った。止めどなく血が溢れる左胸に手のひらを重ね、無意味な止血を試みる。
すると、彼女の色づいた唇が薄く開いて、何かを呟くように吐息が漏れた。
「しゅぅ……ぶじで……」
背中が小さく弾み、ゴホゴホッと血のあぶくが吐き出される。次第に焦点が合わなくなって、目から光がなくなっていく。
朝霧は、自分の脇腹から手を外して彼女の頭を持ち上げた。彼女の目から光が失われる前に、命が尽きてしまう前に。
まだ温かいその唇に、苦しそうに血を吐き続ける彼女の唇に、朝霧は自分のものを重ねる。瞬間、一ミリも動きそうになかった小坂の指先がぴくっと反応して、一筋の涙が彼女の頬を濡らした。
それっきり、小坂は動かなくなった。心臓の鼓動も、か細い呼吸も。
おとぎ話の王子様は、おはようのキスはしてもおやすみのキスはしてくれない。
大好きな彼に看取られた彼女は、世界で一番幸せだった。
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