襲撃者

 早々にエプロンを着た椎葉穂は、てきぱきと料理道具を揃える。ボウル、ゴムベラ、泡立て器。計量カップに計量スプーン、包丁、まな板、クッキングシート。頭上の棚からデジタルスケールを取り出して、大体準備はオーケーだ。

 椎葉はエプロンからスマホを抜いて、ドタバタと近付いてきた足音に目を向けた。二階から慌ただしく下りてきたのは、弟のゆたかだった。

 椎葉は弟を見るなり、「ちょっと、下りてこないでよ」と苦言する。豊はテーブルに並べられた料理道具を流し見て、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出した。紙パックに直接口を付けて飲む弟を、呆れた顔で見る。


「それ私も飲んでるんだけど」

「ぷはっ……上持ってく」豊は声変わり真っ只中のしゃがれた声で言う。

「あっそ。なんでもいいけど、下りてこないでよね?」

「何作るん?」

「さあ? そのとき次第」と、椎葉は片手を宙に浮かせた。


 豊は顎をしゃくって物欲しげな顔を作る。どうせ、自分にも何かくれよ、と思っているのだろう。言われなくても余り物はいつもどおりくれてやる。


「テスト近いのに余裕なん?」

「んー余裕余裕。そっちは?」


「二日で詰める」と、豊は二本指を立てる。

 豊は三つ歳の離れた中学二年生。受験生でもないのに貴重な土日を使ってテスト勉強とは、律儀な弟である。しかし、それで毎回一桁台の順位を獲得してくるのだから馬鹿にできない。


 一夜漬けで一位になれたらすごいじゃん、とプレッシャーをかけてやったのは五月半ば、中間テストの結果が戻ってきた時だったか。豊は絶対無理と言っていたが、椎葉がクラス順位だけなら行けるんじゃない? とおだてると、『同じクラスにチートみたいな奴がいるから無理』と愚痴っていた。――不動の学年一位の女子がいるから絶対に無理だ、と。

 まあ、たった一夜勉強しただけの生徒に安々と点数を取られるよりは、そういう真面目な子がいてくれたほうが先生たちも安心だろう。


 かく言う椎葉も、テストは毎回一夜漬けでどうにかしてきているので、明日はどっぷり詰め込むことになる。血は争えないのだ。


「上行ってくる」


 豊がリビングを出ようとしたとき、玄関のチャイムが鳴った。弟は歩みを止めて、姉を振り返る。――何考えてんだか。


「ほら、シッシ。行った行った」


 椎葉が身振り手振りで追い払うと、豊は不服そうに突き出した口を『はーい』とサイレントで動かした。――まったく、マセガキが。挨拶なんていいから。尻尾振ろうとするな。

 弟を二階に引っ込めたところで、椎葉は呼び出しに答えようとインターホンのモニターを覗き込む。瞠目した。


(誰……?)


 モニターに映っていたのは、キャップ帽を目深に被った男だった。うつむいていて、まるで顔が見えないが、背格好からして男だと思う。

 椎葉はポケットにしまったスマホを出して、三城楓とのトーク画面をチェックする。『また家に行きたいんだけど、いい?』と送られてきたのが昨夜。その後は椎葉の送った了承と、今日の約束が取り付けられている。『今から行くね』と送られてきたのが昼過ぎだ。


 ならばこの人は? 豊の友達か? そう思い再びモニターに目をやると、彼は帽子を指先で摘んで上げて、おどおどとカメラを見ていた。椎葉は「えっ」と声に出す。

 ――神永響弥だ。

 響弥はカメラ越しに目を泳がせている。いないのかなぁ……と弱々しげに呟きそうな雰囲気さえあった。三城に言われて来たのか? いやいや、なぜ。というか、休みの日はこんな見た目をしているのか――?


 考えがまとまらぬまま椎葉は通話ボタンを押し、「は、はい」と応答した。響弥は『あ、どうも』と声を発して会釈する。マイクを通してはいるが、その声は本人のもので間違いないだろう。


『椎葉さんの家ですか?』

「……はい」

『三城さんに言われて来たんですけど……』

「……あー、ちょっと待って」


 椎葉は通話ボタンを切り、頭を抱えた。いったいどういうことだ、何が起きている。なぜ響弥が家に来る必要があるのだ。

 パンクしそうな思いを指先に込め、『ねえ、神永くんが来たんだけど、どういうこと?』と親友にメールを送信する。

 今、響弥は、三城さん――と言っていたか。彼は確か、三城と呼んでいたはず。相手が椎葉だとは気づかず、礼儀に則って言ったのだろう。さん付けにするだけで、なんだか冷たさが増すように感じた。


 何にしてもだ、このまま放置しておくわけにも行くまい。元々鍵をかけていなかった玄関扉を開いて、椎葉は響弥と対峙した。「どうも……」とお互いぎこちなく挨拶を交わす。


「えっと……どういうことか聞いてもいい?」椎葉は半身を外に出して尋ねた。

「ああ、うん、えっと……お話が」


 響弥は人差し指をTシャツの襟に掛けてぱたぱたと扇ぐ。その隙に、椎葉は彼の格好に素早く視線を巡らせた。

 普段の黒髪が嘘のような白い髪。その色を吸い取ったかのように黒いキャップ帽。腰のミニバッグは男子らしいものだなという感想を抱き、傍らに引く大きなスーツケースは旅行にでも行くのだろうかと疑問を匂わせた。片手には――黒の革手袋を嵌めている。

「暑くないの?」と、反射的に訊いていた。


「超暑い」

「ああ……だろうね」


 はにかんだ響弥は依然として扇いでいる。今の受け答えはしくじったなと、椎葉は焦った。はなから暑がる素振りを見せている相手に言う言葉ではない。神永響弥に先手を打たれたような気がして、つい漏らしかけたため息を殺す。

 誤魔化すために手袋のことを追及するか否かも悩んだが、その前に「どうぞ」と響弥を家に上げた。


「お邪魔します」


 響弥はスーツケースを玄関に置いて、椎葉の後ろをついてきた。リビングに上がると、「涼しい」と爽やかな笑みを見せる。

 不良相手にも平然と振る舞い、日頃からうまく立場を利用している椎葉穂でも、相手が響弥だとやけに緊張してしまう。親友の好きな人であり、自分が疎んでいる相手だからか。――そんな男を別の女の家に送り込むなんて、あの親友は何を考えているのだろう。


 椎葉が飲み物を出そうと冷蔵庫を開けると、「あ、いいよ。飲み物とかは大丈夫」と響弥は制した。その強い語調は、謙遜ではなく本当に不要であることを表している。それなら別に構わない。こちらも気を遣わなくて済む。


「そう……あ、ちょっとごめん」


 流れるように椎葉はスマホを引き抜いて、開いたままのトーク画面を見た。――三城からの既読は、付いていない。


(もう、何やってんのよ……)


 大好きな神永響弥の話題だというのに、こういうときに限って鈍感なんだから。

 椎葉はこの状況を早くどうにかしてほしくて、親友へのコールボタンをタップした。スピーカーにして三人で話せばいいだろう。もう藁にも縋る思いである。


『はーい』


 三城楓と通話が繋がり、椎葉の顔から表情が消えた。

 全身からサアッと血の気が引き、心臓が、早鐘のように鳴り響く。

 椎葉は、ゴクリと喉を鳴らして、


 ――なんで、あんたが持っている――――?


 響弥は、「もしもーし」と締まりなく続ける。紛れもない、三城楓のスマホを耳に当てて。


「聞こえてますかー? あ、切れちゃった」


 口惜しそうにスマホを見つめる響弥の革手袋がされているのを見て、椎葉は視界内にある包丁を手に取った。振り向いた矢先、目前まで迫った響弥の左手が椎葉の右手首を押さえ込む。


「ゆた――っ」


 弟の名を叫ぼうとして、喉から後頭部にかけて殴られたような痛みが駆けた。頭のなかが真っ白になり、たちまちのうちに平衡感覚が失われる。


(う、そ……)


 何をされたのかわからぬまま、椎葉は膝から崩れ落ちた。包丁が手から滑り抜けたが、床に当たる前にキャッチしたのか、金属音は聞こえない。痛みで呼吸がままならず、眼球だけが痙攣しているみたいに震えた。


「かはっ……っく、ぅ……」


 椎葉は細切れの息を続けた。白く霞む視界のなかで、響弥は包丁を握っている手で、しーっと人差し指を口元に立てる。もう片方の手の内には、スマホが二台に増えていた。あの一瞬で、椎葉のスマホも取り上げたのだ。


「一人も二人も同じだよ?」


(っ……こいつ……)


 信じられるか? こいつ、笑っている。

 ――そして、気づいているのだ。この家に、ほかに人がいるってことを。だとすればいつ……玄関の靴の数か。


 庭に車がないことから、両親が仕事に出かけているのはバレている。こいつは、弟がまだ家にいるのを承知で、リビングに上がってきたのだ。出くわす可能性だってあったのに、危険を顧みず、白昼堂々と殴り込んできた――

 それだけじゃない。たった今こいつは、一人も二人も同じだと言った。一見脅しのように聞こえるが、違う。こいつは事実を述べているだけなのだ。はじめから何人いようとも、こいつにとっては関係ない。

 ――宮部たちを病院送りにしたのは、間違いない。神永響弥だ。


 無防備に横たわる椎葉を置いて、響弥はインターホンを確認する。録画機能がないことを確かめると、包丁をまな板の上に戻して椎葉の傍らにしゃがんだ。身体に跨がろうものなら股ぐらを蹴り上げてやりたいところだったが、椎葉はまだ動けずにいるし、響弥も距離をわかっている。

 椎葉は、ズキズキと痛んで止まない喉に耐え、必死に声を絞り出した。


「かえ、でに……何を、した……」


 己の身を確かめるよりも先に彼女のことを案じていたのは、椎葉自身も驚いたことだ。

 響弥はくすりと笑って、「何もしてないよ」と目を細める。


「三城さん、響弥が言えばなんでもしてくれるんだ。悪いことをした親友に罰を与えるために、携帯電話だって貸してくれる」

「……っ、? ?」


 頭のなかに疑問符がずらずらと並んでいく。何を他人事のように言っているのだろうと椎葉穂は思った。響弥とはお前のことじゃないか。

 それに、悪いことをした親友? 罰を与える――? 楓はそんなこと、絶対にしない。だがもしも……万が一、私の親友をそそのかしたとすれば、それは許されざる行為だ。


「殺してやる?」


 響弥は喋れない椎葉の思考を代弁する。椎葉が無意識に、歯軋りをしたからである。

 ああ、殺してやりたい。殺してやりたい。今すぐその笑みを消せるのなら、その声を塞げるのなら、何だってしてやりたい気分だ。

 響弥はスマホの電源を落としてミニバッグにしまうと、椎葉の首に革手袋を嵌めた手を回した。殺される……。

 椎葉は絞まりゆく自身の気道を感じながら、片手で水を掻くように響弥の手首を掴んだ。指先に力を入れても、響弥の手首はびくともしない。血流を止められているのか、呼吸困難になる前に、頭の片隅からスゥッと意識が離れていく。


 ――楓は騙されていたのか。こんな、怪物に……。

 椎葉の意識が空白になるまで、響弥は濁った笑みをずっと湛えていた。最後に見えたのは、ニヤリと開いた白い歯列。響弥の真っ白な襟足。


「イッてらっしゃいませ」


 悪意を込めた送り出しが聞こえた。

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