はじめてのデート

 秋葉原で電車を降りた芽亜凛は、駅前の待ち合わせ広場で周囲を見渡した。合流した友達と建物内に入っていく女性たち、携帯を耳に当てているサラリーマン、足早に過ぎ去っていく中年女性、カップルと思われる若い男女……。

 芽亜凛は、先日返してもらったスマホに目を落とした。響弥とのトーク画面にはおよそ十分ほど前に、『今着いたよ』とメッセージが届いている。


 おかしいな、どこにいるのだろう。まさか場所を間違えたわけではあるまい――

 そう考えているとき、ポンと背後から肩を叩かれた。身を縮ませて振り返ると、そこにはベージュのTシャツに同色のキャップ帽を被った茉結華まゆかが――


「おはよう」


 ニッと白い歯を見せて笑う白髪の彼。芽亜凛は、『なぜあなたがここに』という疑問を抱きつつ、「……おはようございます」とぶっきらぼうに返した。

 茉結華は上空を流れるグレーの雲を一瞥し、「行こっか」と片手を差し出す。芽亜凛が「どこに」と問うと、「デートに」と妖しく笑った。


 響弥とデートの約束をしたのは、彼がまだ自宅謹慎中のときである。

 ホテルでの一件後、警察はなんとか穏便に済ませてくれたが、学校側はそうは行かなかった。E組担任の石橋いしばしとC組担任の東崎とうざき、B組担任の細沢ほそざわと三年C組担任の植田うえだとでかなり揉めたようなのだ。

 宮部側が全員喋れる状態でなかったこともその要因なのだろう。どちらが被害者で、どちらが加害者なのか。正当防衛とは言え、度が過ぎているのではないか――事が複雑であるがゆえ、それまで響弥には自宅謹慎が言い渡されたのだ。

 芽亜凛にも厳重注意と、反省文の罰がくだされた。後半はほとんど、不純異性交遊だなんだと植田教諭が捲し立てたからであるが。


 次の土曜日にデートをしようと、誘ってきたのは響弥である。それまでには謹慎も解けるだろうと高を括っていたのだ。

 今回は自分にも非があるし、響弥もリンチされて怪我を負った。だから芽亜凛は、謹慎明けならいいですよと、約束を承諾した。――しかしである。


「あの……」


 芽亜凛は茉結華の手を取って、しぶしぶ繋いだ。茉結華は「んう?」と小首を傾げる。


「どうして、なんですか」

「だって響弥、停学中だし」


 茉結華は正論を言って歩きはじめる。――いや、確かにそうなのだけれど……。

 謹慎が明けると予想された金曜日、神永響弥に正式な停学処分がくだされたのだ。期間は十日間。手続きには保護者への直接的な説明が必要のようだが、響弥の父親は不在だし、母親はいない。


「親御さんは誰が対応したんですか」

「叔母さんだよ」

「神永詩子ともこさん……」

「そう、よく知ってるね」


 神永詩子は、世間が呪い人一色になると呼ばれる、寺の関係者。甥の犯行を知っているのか定かではないが、茉結華にうまいように操られているとは思う。じゃなきゃこんな不祥事に突然現れたりしない。

 停学処分になったことをトークで追及すると、響弥は『大丈夫!』とサムズアップの絵文字付きで送ってきた。バレたらまずいと言うのに、何がどう大丈夫なのだろうと思ったが、こういうことか。

 茉結華が行くから大丈夫だ、と。


「怖いなあ芽亜凛ちゃん。なんでも知ってる」

「別になんでもは知りませんけど」


 言葉を濁して情報源を探られないようにする。まあ、訊かれたとしても、そんなに隠すことなのかと逆に疑ってやるだけだが。

 茉結華もそれをわかっているのか、神永詩子に関する話には突っ込まない。代わりに別の角度で矢を飛ばす。


「私も知ってるよ。前の学校で、芽亜凛ちゃんがいじめられてたこととか」


 腕の筋肉がぴくりと強張った。


「水泳の大会、結構いい成績を収めてたんだってね。でもその後は降下するばかり。顧問のセクハラが原因で嫌になっちゃったんだ?」


 芽亜凛は進む足を止めて茉結華を睨みつけた。茉結華は予想していたかのように瞬時に足を止めて、にやりと口角を上げる。

 ――駄目だ。怒ったら負けだ。相手のペースに飲まれてはいけない。


戸川とがわ先生のこと、知ってますよね」

「戸川ぁ?」


 とぼける茉結華の手を引っ張り、芽亜凛は胸元に顔を近づける。


「殺したんですか、戸川先生のこと」


 すると視界外で、茉結華がフッと笑った。


「私もニュースを見て驚いたよ。まさか、死んじゃうなんてね。でも芽亜凛ちゃん言ってたじゃん。私は、りんちゃんの周りの人間を殺すはずだって。それなら先生は関係なくない?」

「……でも――」

「不慮の事故だよ」茉結華は耳元で囁く。「私も芽亜凛ちゃんも関係ない。もちろん、響弥も」

「…………」


 芽亜凛は納得が行かなかった。戸川のことは今度会ったら聞いてやろうと思ってはいたが、茉結華はなかなかボロを出さない。


「タイミングがおかしいとは思いませんか。私たちが戸川先生と会ったその日の夜に、亡くなるなんて。出来過ぎとは思いませんか」

「不幸な偶然だよ。それか、呪いかも」

「……呪い?」


 顔を上げると、弧を描いた茉結華の薄い唇がすぐ目の前に見えた。

 近くでビラ配りをしている従業員が、ちらちらとこちらを見ている。街なかで、ふたりは抱き合っているカップルに見えるのだろう。


「凛ちゃんから聞いてない? E組にそういう噂があるってこと。もしかしたら、その呪い人は……芽亜凛ちゃんかも」


 芽亜凛は瞼をしばたたかせた。


(私……?)


 茉結華はその心を読んだように、「そうだよ」と答える。


「芽亜凛ちゃんが呪い人だから戸川先生が死んだ。そう考えれば納得が行くでしょ?」

「……例えばそれは、宮部さんたちに襲いかかった不幸も、呪い人のせいだと?」

「それは違うよ、やったのは響弥だし。あれは自業自得ってやつじゃない? まあ……これから先、起こるかもしれないけど」


 自白だ、と芽亜凛は思った。茉結華は藤北のオカルトに便乗して殺しを行う。それを知っていることを、本人に明かしたのはの保健室。だが今回、芽亜凛は明かしていなかった。


「やっぱり……殺したんですね、戸川先生のこと」

「えぇ? そうなる?」

「なりますよ。あなたは呪い人を利用して殺しを行うんですから」


 呪い人のせいにするということは、己の犯行を自供しているようなものなのだ。

 いつの間にか『対象』が、凛から自分にすり替わっていたとは思わなかったが、やはり、戸川先生を殺したのは茉結華だ。戸川の死に、理由を付けるために『対象』を変えたのだ――


「…………」


 茉結華は口を一文字に結び、芽亜凛をじっと見つめていた。

 確証は得た。芽亜凛は茉結華から身体を引き、ぐっと後ろに回った手によって止められる。思わず開いた唇に、茉結華のものが重なった。近くでチラシが、バサバサと地面に落ちる音が聞こえた。芽亜凛は思わず目を見開き、息を呑む。


「えへ」


 茉結華は触れるだけのキスをして、芽亜凛を正面から引き寄せると、「ぎゅーっ」と言って抱き締めた。茉結華の骨張った腕が、芽亜凛の細い腰に回る。


「可愛い、芽亜凛ちゃん。宝物。一生大切にする」


 そう言って茉結華は、芽亜凛のたゆんだ髪に顔を寄せる。身体が隙間なく密着して、とくとくと鳴る鼓動がまるで一体化しているかのようだ。

 芽亜凛はただただ困惑して、瞬きを繰り返した。


「路チューしちゃったね」


 茉結華はいたずらっぽく微笑み、再び芽亜凛の手を握って先を急ぐ。芽亜凛が困惑していたのは、


「ど、どこに行くんですか?」

「喫茶店! おいしいもの食べに行こ?」


 前は行けなかったしね、と茉結華は遠くを指差した。指したビルの前には、メイド服を着た女性が客寄せしている。大きなリュックサックを背負った男性が数名、なかに入っていく様子が見て取れた。


(えっ……メイドカフェ……?)


 よりによって初デートで――? と、芽亜凛は首を傾げそうになった。別にメイドカフェに文句はないが、喫茶店ならほかにもいくらでもあるだろう。この茉結華のチョイスはいったい何なのか。


「おかえりなさいませ、ご主人さま、お嬢さま」


 茉結華に手を引かれるまま店へ入ると、カウンターにいたメイドが眩しい笑顔で出迎えてくれた。芽亜凛でも一度は聞いたことがあるお決まりの台詞である。特に感動はしていないが、生で聞ける日が来るとは思わなかった。

 茉結華はミニバッグから会員カードを取り出し、メイドに渡した。


「ブラックカードのご主人さまですね! より多くのご奉仕にゃんにゃんさせていただきます」


 メイドはぴょんとあざとく跳ねてカードを茉結華に返す。……今のは日本語だろうかと耳を疑いつつ、芽亜凛は黙って(白い目で)その様子を見ていた。

 店内には著名人のサインや、カラフルな髪色をしたアニメキャラのポスターなどが多く貼られていた。オタク文化に乏しい芽亜凛は、コラボでもしているんだろうと思うことにして席へと着く。


「――魔法の王国へようこそー! ご主人さまとお嬢さまの頭の上に、お耳の生えちゃう呪文をかけさせてもらいますねー! 一緒に唱えていただけますかぁ? 萌え萌えみゅーん!」

「萌え萌えみゅーん!」

「……みゅーん」

「おめでとうございますー! 呪文は大成功いたしました。ご主人さまの頭にはキュートなウサ耳が、お嬢さまの頭には愛くるしい猫耳が生えちゃいましたぁ」


 メイド服の店員はカチューシャをそれぞれの頭に乗せて、パチパチパチと小さく拍手する。

 しばらくこの調子でメイドによる接待が続き、魔法のメニューとやらを見せられて、芽亜凛はらぶりーきゅんきゅんでいずを、茉結華はくりぃむにゃんにゃんえんじぇるを注文した。写真はどちらもデザートのパフェである。ドリンクはレモンティーをふたつ頼んだ。

 やがて、ようやくその場を去ったメイドを見送り、芽亜凛は大きくため息をついた。キャップ帽の上からウサ耳を生やした茉結華はくすくすと笑う。


「はじめてのご入国はどう? 芽亜凛ちゃん」

「あなたは常連なんですね」

「んー、まあ……ね」

「こういうお店が好きなんですか」

「んー、気分転換にはいいんじゃない? 楽しいし」

「私が言いたいのは、こういうお店で女の子たちににゃんにゃんご奉仕されるのが好きなんですか、ということです」


 芽亜凛がジト目で問うと、茉結華は四度瞬きをして、「芽亜凛ちゃんは好きじゃないぴょん?」と誤魔化した。芽亜凛は「別に……まだよくわかってないだけです」とそっぽを向く。

 ほかの席では男性客御一行が、メイドに呪文をかけられて鼻の下を伸ばしている。また別の席でも男性客が喜んでいた。女性客は友達同士で来たらしい二人と、芽亜凛を合わせて三人だけのようである。


 横目で茉結華のほうを見ると、真剣な顔でウサ耳を指で撫で、カチューシャを必死に整えているところだった。


(この人もこういうお店に来るのね。それも頻繁に……ふーん……そう)


 なぜだか胸のもやつきが止まらない。この店に入ってからだろうか。今日は雨も降っておらず、気圧も安定しているというのに。この正体不明の苛立ちは何なのだろう。


「お待たせいたしましたぁ」


 メイドの甘ったるい声と共に、注文したパフェとドリンクが到着した。さらにおいしくなるように呪文を唱え、少し早い昼食とする。


「甘いもの、好きなんですか」


 黙々とパフェを食べるさなかに尋ねた。茉結華は口元のクリームを舐め取ると、「うん、好きだよ」と素直に答える。


「芽亜凛ちゃんも好きなんだよね、味の好みはバッチリぃだねぇ」

「……神永響弥も、ですか?」

「さあ、それはヒミツ」


 茉結華は高さ三十センチはあるパフェをさくさくと完食し、お土産のメニューに目を通した。その際もメイドがご主人さまの元に駆け寄り、付きっ切りでご奉仕、もとい説明をする。もしや、茉結華がメイドカフェを選んだ理由はここにあるのかと芽亜凛は察した。


(これがデートか……)


 いつしか自然と落ちこんでいる自分に気づいてしまった芽亜凛は、眉間にしわを寄せてレモンティーを飲み干す。その後はメイドたちによるライブ鑑賞に付き合い、最後に茉結華とお揃いのキーホルダーを購入して、一時間の魔法は終了を迎えた。


 行ってらっしゃいませ、と手を振り送り出され、芽亜凛は外の新鮮な空気を吸う。「あーっ、楽しかった」と伸びをする茉結華に、芽亜凛は「次はどうしますか」と問うた。


「そうだねぇ、芽亜凛ちゃんはどうしたい?」

「聞きたいことがいくつか」

「あ、質問攻めだ」


 じゃあ歩こっか、と茉結華は手を差し出す。そういえば蕁麻疹が出ることはなくなったなと思いながら、芽亜凛はその手を取って横に並んだ。

「芽亜凛ちゃんは可愛いねー」と茉結華は寝言みたいなことを言って、繋いだ手をぶらぶらと振る。


「どうしてE組なのか、あなたは知っているんですか」

「……呪い人のこと?」

「はい」


 茉結華は答えるのが億劫だというふうに天を仰ぎ、「昔からそうだったんでしょ」とだけ言った。


「なぜE組が中心なのかは知らないということですね」

「そうだねー、そうなるかな」

「ではなぜ四月からではなく、梅雨からなんですか。私が転校することを知っていたから……全員揃ってからはじめるつもりだったんですか」


 茉結華は鼻で深く息を吸って吐き、ゆっくりと瞳を閉じて、そしてゆっくりと開いた。


「血の雨を、降らせたかったからかな」


 遠い目をして答える茉結華。表情に、笑みはない。

 嘘とも本気ともわからぬその様子に、芽亜凛はきゅっと眉をひそめる。


「では笠部かさべ先生のことは? 笠部先生とは繋がってるんですか? 例えばE組生徒を襲うように、指示を出す予定だったとか……」

「答えたら何してくれるの?」

「…………え?」


 突然こちらに顔を向けた茉結華に、芽亜凛は狼狽した。

 茉結華は、「質問ばっかり、つまんない。せっかくのデートなのに」と唇を尖らす。後半の部分はそっくりそのまま返してやりたい気分だったが、茉結華の言うことも一理あった。


 彼が最初の時間潰しにメイドカフェを選んだ理由は、店員と客とのコミュニケーションが多いという点にあった。カップルの客であろうと、必然的にメイドがご奉仕しに割り込むメイドカフェ。


 茉結華は、第三者を取り入れることで、情報を聞き出しにくい雰囲気に仕立てたかったのである。今みたいに余計なことを訊かれぬよう、芽亜凛の動きをできる限り封じたかった。その上で楽しんでもらえたらいいなと考えていたのである。

 しかしその思いは芽亜凛には通じず、店を出てしまえば同じこと。久々に会った――会えるとも思っていなかった茉結華を相手に、芽亜凛が情報収集をはじめるのは当然である。会って話して一時間以上焦らされてしまえばなおのことだ。


 芽亜凛はスッと目を細める。

 生物学教師の笠部は、今も不祥事を起こすことなく、問題なく過ごしている。彼の命運がランダムなのは、その都度茉結華が関わっているからではないかと芽亜凛は考えていた。その証拠はまだ掴めていないが、忌避した茉結華の発言からして怪しむべきだろう。これも、茉結華に直接尋ねたかったことのひとつである。

 だがしかし、どうしてこの人は見返りばっかり。


「何って……あなたが望むことなら、なんでも」

「詳しく言ってくんなきゃわかんなーい」


 子供みたいにスキップして、茉結華は芽亜凛の手をぐいぐい引いていく。芽亜凛はつんのめりながら後を追った。


「……あなたは逆に、何をしてほしいんですか」


 茉結華は振り向き、片頬で笑った。


「エッチしよ」

「……………………」

「うわー、すっごい嫌そうな顔。じゃあ答えないよ?」


 苦虫を丸飲みしたみたいな顔をする芽亜凛に、茉結華は満更でもなさそうにニタリと笑む。この向こうにホテルでもあるのだろうか、芽亜凛は行く先を見据えて、はあ……と嘆息した。


「わかりました」


 どうせただじゃ教えてくれない、わかりきっていたことだ。身を犠牲にする覚悟ならとっくの昔に済ませてある。

 茉結華は「するの?」ともう一度確認してきた。わかりました諦めます、という否定的な意味に聞こえたのだろう。何度言わせるんだと思いつつ、芽亜凛は「はい」と肯定する。


「じゃあすぐしに行こ!」


 ぱあっと笑顔を咲かせたかと思えば、茉結華は小さく駆け出した。芽亜凛の顔色を窺ってばかりの響弥とは違って、この人はめきめき先導していく。芽亜凛は連なって駆けながら、新品のではなく履き慣れたサンダルにしてきてよかったと心底思った。

 茉結華は通行人賑わうホテル街には目もくれず、ひと気のない路地裏を通って、錆の目立つフェンスを悠々と抜ける。その先にあったのは――鉄骨が剥き出しになったいくつもの廃ビル。

 茉結華は手前で立ち止まり、ビルを見上げて人差し指を向ける。


「冗談でしょう?」芽亜凛はついつい訊いていた。

「外でするのは嫌?」

「……嫌です。こんなところで」


 不良ですか、という突っ込みを飲み込む。停学中に外出しているのだから十分不良だ。

 茉結華は「いいじゃん別にー」と歯を見せた。


「どこだってやること変わんないんだし、ただの性欲処理でしょ? どこでもよくない?」


(は……?)


 唇は動いていたが、芽亜凛の声は出ていなかった。


「それともホテルや家でするのがよかった? 恋人みたいに――」


 それ以上口にするよりも先に、芽亜凛は繋いだ手を振り払った。宙に持ち上げたその手で平手打ちしかけたが、胸の前でぎゅっと固めて拳を震わせる。

 茉結華は期待に満ちた顔でニタニタと頬を上げていたが、芽亜凛の瞳に涙が溜まっていることに気づいてハッと笑みを消した。涙がこぼれ落ちる前に、芽亜凛は素早く踵を返す。

 ――最初からするつもり、ないくせに。


 普段響弥からひしひしと伝わる下心、ドキドキ感。芽亜凛を好きだという心の揺れ動き。その一切が、やはり茉結華からは感じ取れなかった。

 茉結華は最初から、芽亜凛を試す気でいたのだ。はじめて会ったあの時と同じ――頬にキスしてと、せがまれた時と同じ――

 女性的な魅力を感じていない。好きという気持ちも、誠実さも、何もない。それなのに――それなのに……。


 背中越しに、「……帰っちゃうのー?」と茉結華の間延びした声が追ってきたが、本人が来る気配はなかった。

 彼のことを、最初から『そういう人だ』と認識していたはずなのに、どうしてこんなにも悲しいのだろう。芽亜凛は自分の気持ちがわからずに、ただ止まらない涙を流し続けた。


    * * *


「ちょっとわざとらしかったかな」


 ひとり言を呟き、茉結華は頬を掻く。瞼の裏に焼き付いた、芽亜凛の涼し気な白のワンピース姿に目をくらましながら、響弥だったらまず服を褒めるのだろうなと思った。

 ――まさか泣いてしまう、なんてね。後で響弥に怒られるなあ。


 茉結華は廃ビルの先をまっすぐ進んで、街へと出た。駅近にある荷物預かりサービスからスーツケースを受け取って、公衆トイレに向かう。

 ケースのなかから替えの服を取り出し、個室で着替えを済ませた。白髪が目立たないようベージュ色のキャップ帽にしてきたが、これも一応黒に替えておくとしよう。


 ルイスに借りた会員カードが落ちないよう慎重にミニバッグを開けて、別の端末で時刻を確認する。――昼過ぎか。約束の時間には十分間に合う。

 着替え以外ほとんど空のスーツケースを引いて、茉結華は目的地に向かうとした。

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