第五話

リンゴ味

『話があるんだけど』既読

『会って話がしたい』既読

『今から?』

『うん……』既読

『わかった。どこ?』


    * * *


 バスを降りて夜空を見上げると、ぶつ切り状の雲の隙間から綺麗な下弦の月が覗いていた。乗車中の窓ガラスに斜め降りの通り雨が打ち付けていたが、外はすっかり止んでいる。

 家から持ってきた傘を手首に掛けて、椎葉しいばみのり咲幟さかのぼり公園に歩いて向かった。学校近くにある汚らしい公園とは真逆の、新しさ溢れる人気スポットである。商業施設が近いため、よく待ち合わせ場所としても使われるのだ。


 街灯の光に照らされて、三城さんじょうかえでは公園内に建つ銀色のオブジェの前に佇んでいた。三城から椎葉の元に連絡が来たのはつい先ほどのことだった。

 こんな夜間に、二人きりで話がしたいと。メールを送ってきた三城は、オフホワイトのTシャツを肌に張り付かせ、髪の毛先から水滴を垂らしていた。


「楓、……なんで濡れてんの?」


 椎葉が後ろから話しかけると、三城は小さく肩を揺らして振り返る。十分に梳かれた細かな前髪を手の甲で横に流し、三城は下唇を舐めた。


「あ……あぁ雨に濡れちゃって。自転車で来たら、このとおり」


 公園の駐輪場には三城がいつも通学手段にしているママチャリが止まっている。学校も咲幟公園も三城の家からは遠くない距離にあるのだ。さすがに雨が降るとは思わなかったのだろうけれど。


「急に降ってきたしね」

「……うん」


 椎葉は羽織っていた半袖パーカーを脱いで、弱く頷く三城に差し出した。三城は「え?」と眉を上げる。


「着なよ。風邪引く」

「これくらい平気だって」

「いいから――羽織って」


 吐息混じりに言うと、椎葉は三城の背中に上着を回して肩に掛けた。夜間だし、ほかに誰もいないとは言え、下着が透けて見えているのはやはりどうしても気になる。

 三城はそれ以上謙遜することはなく、素直に上着を羽織り、胸の前で腕をクロスした。そのまま「ありがと……」と呟き肩をすくめる。


 椎葉と三城は、隣に並んだまましばらく押し黙った。二人の間を流れる奇妙な沈黙は、決して居心地のいいものではない。昼休みに言い争ったときよりは幾分も穏やかで、けれども他人行儀という名の堅い空気は、身に馴染むことなく冷や汗をもたらした。


「あの」

「あのさ」


 同時に口を開いた二人の声が重なった。咄嗟に発した「あっ」までもが被る。


「ごめん、どうぞ……」

「ううん、穂のほうが先だった。穂から言って?」

「……あー、うん。オッケー」


 椎葉穂は咳払いし、鼻をこすって意を決する。


「話って、何?」


 できるだけ平常心を維持して問いかけた。三城の様子からして、絶交を言い渡しに来たわけじゃなさそうだが、椎葉はされる覚悟をしてここに来た。心構えはできている。今ならまだ、傷付かずに済む。

 三城はゆるく頷いた。緊張、それとも寒気を感じているのだろうか、唇が不安定に震えている。


「ひ、昼休みにさ……どうしてあのあと……響弥きょうやを追うように言ったの?」


 はじめて親友の激昂を食らった後、椎葉は考えなしに一階まで下りていた。このまま保健室で午後の授業をサボろうか、椎葉が保健室で寝込んでいることを知ったら三城は何を思うのか――

 浅ましい思考をふつふつと湧かせて踊り場に足をつけたとき、後ろからすれ違った黒い影に心臓が跳ね上がった。神永かみなが響弥だった。その表情は見えず、運よく視界に捉えたのは、跳ね返った黒髪から覗く銀のイヤーカフ。


 階段を下りる足音どころか、背後から迫りくる気配にも気づけなかった。それほどまでに椎葉が上の空だったということだろうか。

 響弥は淡々と廊下を進み、昇降口のほうへと消えていった。あの馬鹿たちの呼び出しだと椎葉は気づいた。


『み、宮部みやべが……! 宮部がよぉ……。か、神永響弥のこと殺してやるって言ってて……』


 あの日――休日に電話してきた不届き者は、宮部りくが神永響弥を殺そうとしていることを明かしてきた。殺してやるというのは不良ならではの言い回しだろうと椎葉は思ったが、電話相手――宇野うの涼介りょうすけは本気で心配しているらしく、なんとかしてくれと止めに回っているようだった。


『じゃあ誘い出してボコボコにして、その証拠もちゃんと撮るように言ってよ。成功したら、一人頭五万円あげる。やりすぎたら出さないけどね』


 もちろん最初からすべて嘘だ。はなから一円も出すつもりはない。証拠はその際の保身のために指示したに過ぎなかった。やりすぎだ、半殺しだと判断した場合は、一円も出さないと言えるための証拠。

 午後の授業の半ばに教室に帰ってきた三城は、抜け殻のようになっていた。ボロボロになった響弥の姿に憔悴したのか、詳細はわからなかったけれど。


「楓が神永くんの助けになればいいと思ったんだよ。ホテルの場所を知ってたのは、あいつらから聞いてたから。――私がそうするように言ったの」


 椎葉は今までのことを白状した。


「前に、校舎裏に行くように言ったのもそれ。新堂しんどうに頼んだのは私だから、神永くんが怪我したのは私のせい。全部、私の言ったこと」


 三城が教室に戻ってきた頃、近くで救急車のサイレンが鳴っていた。帰りのホームルームは副担任が手短に務めていたし、学校全体がバタついているように感じた。警察沙汰に、なったのだろう。


「神永くんが運ばれたのは全部私のせい」

「…………」

「……ごめん」


 謝って済むことではないが、椎葉穂は深々と頭を下げる。次に降ってくる言葉は『最低』だろうか、『最悪』だろうか。


「穂は……私が響弥の助けになればいいと思ってそうしたんでしょ?」

「うん……」


 頭を下げたまま、姿勢を傾ける。


「ならあたしも悪いよ。穂の気持ち……全然気づかなくて、酷いこと言った。あは、ごめん……あたし最悪だな」


 涙ぐんだ声で言って、三城は風を切る勢いで顔を伏せる。椎葉が顔を上げたとき、三城の沈んだ顔からは、ほろほろと涙が落ちていた。


「楓……」

「ごめん……穂……」

「……ううん、全然……もういいよ」


 震える肩に手を置くと、三城は両手を伸ばして椎葉の身体を引き寄せた。掛けた上着がずり落ちないように、椎葉もその背中に腕を回す。誰かとこんなふうに抱き合うのは新鮮で、慣れてなくて、こそばゆい。椎葉は濡れた髪を温めるように、片手で三城の頭を撫でた。

 雨降って地固まる。椎葉は、半分に欠けた月を見上げて、親友との安らぎに束の間を預けた。


 三城の涙が止まった頃、椎葉は自販機に小銭を入れてジュースをひとつ買う。三城も同じものを購入した。同じ種類、同じ大きさの、同じ値段のリンゴジュースを。

 互いに買ったものを交換して、三城は苦笑する。


「これじゃ奢りにならないっていうか……」

「炭酸ばっかりだから、仕様がないっていうか……」

「うん、同じく」


 三城は同意して嬉しそうに肩をすくめた。

 子供に人気の公園だからか、自販機にあるものは炭酸飲料がほとんど。しかし、話をするのにシュワシュワの炭酸は飲みづらい――その考えは揃っていたようだ。

 二人は仲直りの証として、奢り合ったジュースに手を付ける。ベンチは通り雨で濡れていたため、自販機に寄りかかったままひと時を過ごした。


「実はさ……やられたのは響弥じゃなくて、宮部たちっぽかったんだよね」

「え?」


 三城はホテルで見た光景を打ち明かした。


「あたし、ビビっちゃって……見れたのは一瞬だけだった。けど、あそこで倒れてたのは響弥じゃない。ほかの、男子たち……。その奥に、あの子がいた」

「……たちばな芽亜凛めあり……?」


 三城はこくりと顎を引く。

 宮部陸は響弥のことを無理やりおびき出すつもりのようだったが、まさか彼女を利用していたなんて。あの日欠席だった芽亜凛は、やはりただの休みではなかったのだ。


「あの子は無傷だった。響弥も怪我してたみたいだし、ほかも倒れてたけど……あの子だけは、無傷だったと思う」

「それ……神永くんがやったってこと?」


 普通に考えれば、男子と揉み合った末に負った怪我だろう。もしくはその手前で、先にリンチに遭ったか――小狡い宮部なら考えそうなものである。ほか全員倒れていたというのは信じられないが……。

 三城は咄嗟に首を振った。


「ううん、響弥じゃない。響弥は――っ」そこで言葉に詰まり、「ごめん」と悔しげに顔を歪める。


「こういうとこだよね……あたし、本当駄目だな」


 泣き笑いのような表情で三城はため息をこぼした。今までの彼女なら、言葉も切らずに響弥のことを語っていただろう。

 椎葉は首を横に振って、「続けて」と優しく先を促した。三城は指で涙を拭う。


「響弥には……響弥には無理だよ。喧嘩なんてしたことないだろうし、体育の様子からして無理じゃない? あたしは……あの子がやったんじゃないかって思ってる」


 三城は独りよがりな力説にならぬよう、椎葉の納得が行くような光景を上げてくれている。確かに三城の言うとおり、響弥の運動神経は、傍から見ていても最低レベルだ。喧嘩している姿も見たことがない。

 だが――はたして本当にそうだろうか。

 今見えている姿が、その人の本当とは限らないんじゃないか。三城の知らないところで神永響弥は変わり、成長し、別人に成り果ててしまっているんじゃないか。

 ――私の親友はまだ、神永響弥の呪縛に囚われている。


 しかし、椎葉の言葉は喉の奥。粘っこいリンゴ味に絡みついて、外に出ることはなかった。

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