赤い部屋

 指定のビジネスホテルは、響弥たちがよく遊びに行くショッピングモールの近くに位置していた。つまるところ学校の最寄りである。

 地図アプリから顔を上げ、響弥はホテル内へと踏み入った。宮部の言っていた部屋番号を目指して廊下を進み、扉の前で立ち止まる。

 ――怖い?

 胸中で茉結華が首を傾ける。響弥は口から息を吐き、音もなく唾を飲み込んだ。


(大丈夫……大丈夫だ)


 頭のなかを這い回る凄惨な光景を払えぬまま、響弥はぎゅっと固めた拳でノックした。

 一呼吸も置かずに静かに開かれた扉。そのノブを回したのが宮部陸だと認識する前に、脳は痛みの信号をキャッチした。

 みぞおちに突くような衝撃がめり込む。身体がくの字に曲がり、どっとこみ上げた吐き気を止める隙もなく、胸ぐらを掴まれて部屋のなかへと放り込まれる。


「うっ……!?」


 うつ伏せに倒れた響弥の背に、鉄槌のような足が何本も降り注いだ。肉付きの薄い腰を幾多の痛覚が削っていく。


「馬鹿が。本当に一人で来やがった」

「はっ、女みてえじゃん」

「女装してみろよ、ああ?」


 部屋で待ち構えていた宮部の仲間たちが口々に吐露する。肩や腕、腰や太腿、身体のいたるところを踏みつけられ、響弥は潰れた蛙みたいになりながら両手で頭を覆った。


「おい陸、こいつをボコボコにすればいくら出るんだっけ?」

「一人あたり五万って涼介は聞いたみたいだけどー」


 響弥は片目を開けて前方を見た。仲間の内でただ一人、引きつった顔をしてスマホを構えている宇野涼介が、こくこくと小刻みに首を振っている。その奥には一人用のソファーに座り、怯えるように胸の前で手を当てる芽亜凛の姿があった。


(芽亜凛ちゃん……)


 ――無事みたいだね。

 芽亜凛の無事に息をつく間もなく、襟首を掴み上げられ起こされる。咳き込みながら床に尻餅をつくと、今度は別の手が伸びて胸ぐらを引っ張り上げた。


「立てよガキ。かかってこいよ」


 嵐のような蹴りが止んだかと思えば、見知らぬ私服姿の男に掴まれて身体が浮く。戸川ほどではないが、けれども体格のいい男だった。その浅黒い手首を握り返すと、響弥は横振りに勢いよく投げ飛ばされ、ベッドの上に倒れ込んだ。

「相手にならねえな」と男らのうちの誰かが口にした。せせら笑いが同意する。


「おい、ちゃんと撮ってろよ」


 仰向けになった響弥の腹に宮部が馬乗りになって言う。確認を仰がれた宇野涼介は不服そうな顔でスマホカメラを向けた。

 宮部はこないだの続きと言わんばかりに、響弥の顔面めがけて容赦なく拳を振るった。反射的に顔の前へと持ち上げた左腕に、じんと骨の揺れるような痛みが叩きつけられる。宮部の口からチッと舌打ちが漏れた。


「庇ってんじゃねえよモヤシ野郎」


 再びパンチが飛んでくる。顔が狙えないと知るや無防備になった腹に拳が落とされ、内臓が魚のように跳ねた。息が詰まり右手で腹部を押さえる。左手は顔の前に浮かせたまま、響弥は首を横に倒した。

 ――馬鹿。

 目の前の花瓶に反射した茉結華が、ベッドの上であぐらをかき頬杖をついていた。宮部の拳は肘や手首、二の腕になおも落とされる。まるでサンドバッグ状態の響弥を見て、茉結華は、はあ……とため息をついた。


 ――どうすんの?


(どう、する……?)


 茉結華は頷かない。ただじとりと目を据わらせて、響弥の反応を待っている。どうするって、どうしろって言うんだ。


(俺は……俺は『神永響弥』だ。弱くて、情けなくて、モヤシで……みんなに守られてばかりの神永響弥)


 神永響弥おれは弱くなきゃいけない。だって『神永響弥』だから。響弥は弱い、守られる側の人間だから。


 ――何にもできない神永響弥。


(……何にもできない、神永響弥……)


 茉結華は眠りに落ちるみたいに瞳を閉じた。意気地なし、と呆れ果ててしまったみたいだ。響弥がそれを選ぶなら、私は何も言わないよと、諦めてしまったようにも見える。

 響弥を穿つ手は止まない。左腕が痺れて、徐々に指先までの感覚が失われていく――

 隙間から入り込んだ宮部の拳が顎を打ち、がちりと噛んだ舌に血の味が広がった。手から一気に力が抜けていく。今度こそ、と狙いを定めた宮部の拳が宙に浮いたそのとき、


「まっ、待って――っ!」


 絞り出すような甲高い声が、男たちに制止をかけた。その場にいる全員が、ソファーから腰を浮かした芽亜凛のほうを向く。

 芽亜凛は胸の前で祈るように指を組んだまま、「たっ……高いんです!」と声を張り上げた。そして一拍置かれ、「……その、イヤーカフ……」と震える声で付け足し、響弥のほうに指をさす。

 響弥はぼんやりとした頭で考えた。――何を言ってるの、芽亜凛ちゃん。こんな状況で、何の話……?

 このイヤーカフは安物で、学生の小遣い程度で十分手に入るものだ。決して高くなんかない。


「へえー、そうなんだ」


 いいことを聞いた、というニヤついた顔つきで、宮部は視線を響弥に戻す。響弥の頭を押さえつけ、


「じゃあ取ってやるよ」


 宮部は、顔の前に浮いた響弥の左手を無理やり剥がすと、片耳ずつ、イヤーカフをもぎ取った。


 あ。


 違和感。

 異変。

 己を縛りつける冷たい熱が消える。


 あ。

 あ。

 あ。


 あああ。

 ああああああああ。


 赤、赤く冴え渡る俺の血液血の巡りがぐるぐるぐらぐら疼く手のひら指の先まで切り血が流れてぽたぽたと染まっていく痛みをハンカチが押さえつけてテープ巻き戻すぐるぐるぐらぐらぺたり貼られたカッターナイフの刃がぎらぎら光って破傷風になるのを防ぐ私が本当に響弥は仕様がないんだからって与えられた暴力もあんなの暴力のうちに入らないウジ虫が群れて集って笑ってるあはははははは弱っちい雑魚どもがわらわらとわらわらとわらわらわらわらと何匹も束になったところで力の弱さは変わらないから時間は無情にも過ぎて地球は地軸を中心にぐるるる回り続けているしたとえ多くの人が死んでも身近な人が消えてしまっても顔色を変えずにぐるぐるぐらぐら回り続けるだからどこの誰かが死んでしまっても影響があるのはほんの一握り米粒にも満たない塵のような人たちだけでおれはにこにこ笑顔を絶やさずに大人たちの相手を痛みをこらえて涙をこらえて顔に吹き付けるタバコの煙ぁぐぐぐぐきゃきゃきゃ震え震えて白く甘い砂糖みたいな髪搔きむしる痛いよおれのからだを蹂躙するしてする大人たちの大きな手が何本も伸びておれを押さえつける小さい腕も足も羽交い締め動けなくて叫んで喉がじくじくと傷付いた叫び声はからからに干からびてぐしゃぐしゃと頭を撫でるから偉い子だなって言ったのはおとうさんじゃなかったけれど犬みたいだって可愛がられたおれは人間にはなれない布団の上が気持ちよくてそのまま眠りそうになると顔を叩かれて意識が落ちないようにじくじくと唇を噛み締めたときの血の味が苦くて我慢して綺麗にするときもいつも一人で助けてほしいって思ったけど誰もいなかったから鏡に映る自分の姿が変わって替わって代わって混ざり合う灰色の泡がこぼれ落ち落ちて温かいシャワーの温もりを毎日感じて生きることをやめられず私になれ暗闇のなかに刻んだ茉結華を見て自己暗示わたしはまゆかだから大丈夫だよ響弥痛みも苦しみも全部まゆかが引き受けてわたしが食べてあげるミミズもゴキブリも何日も出られない押入れの息苦しさも気道動脈静脈閉塞刃物による致命傷は心臓九センチ頸動脈四センチ失血死にかかる時間は三秒から十二秒防護できないのは鎖骨下動脈大腿動脈全部覚えてわたしが出してあげるから圧死縊死餓死絞死惨死焼死水死溺死病死轢死奴らを殺しコロシころし殺死駄目だそれはだって約束が芽亜凛ちゃん茉結華俺のおれの大好きな狂ってしまえば楽なのにおれはおれを離すことができないから茉結華はおれでおれは響弥で響弥は茉結華じゃなくて一緒にするな同じじゃないんだ同じで違くて同一で不同の千差万別ノットイコール身を委ねればいいんだそうでしょうもう慣れている脳の信号は私と繋がった少しだけ力を分けてあげる根絶やしにハエどもを潰す潰せ嫌だ許さない殺せ絶対に仕留めてみせる絶対に絶対が絶対で

 瞳の色が血に染まる。


 左手で作った鋭利な手刀が宮部の首を打った。

 膝を曲げて素早く起き上がり、右手を大きく伸ばして股ぐらを握り潰す。壊れた機械みたいな狂った鳴き声を上げて後ろ向きに倒れたそいつの髪を鷲掴みにして逃さない。

 引き寄せるようにして顔に左膝を入れた。板チョコを割ったような小気味のいい音とともに、砕けた歯がベッドと床に散らばる。


「こ、この野郎――!」


 右側から掴みかかったウジ虫を、身体を丸めた背負投で一回転させる。仰向けになった顔をぐしゃりと踏み潰し、左右ににじった。逆さまのまま両手がだらんと下がったのを合図に靴裏を引くと、曲がった鼻から呆気なく血を吹き出し白目を剥いていた。

 その隙に藤北の制服を着たゴキブリが視界の端で逃げようとする。ベッドをバネにして飛びかかり、後頭部を捕らえて壁に叩きつけた。白い壁にずるりと赤い線が引かれる。床に落ちたのがそいつの歯なのか壁の破片なのかは判別がつかなかった。


「ひっ……ヒイイイィッ!」


 花瓶を持ったハエが左側で悲鳴を上げる。女みてえ、と言っていたのはこいつだったか。闇雲に振り上げたその腕を掴んで引き寄せて、喉元に手刀を食らわせる。緩んだ手から滑り落ちた花瓶をキャッチして、右脚で回し蹴りを首にぶつけた。

 花瓶を使うのはもったいない――棚の上に転がったそいつの、開脚された局部を拳でどしゃりと叩き潰した。引きつくような奇声を上げた後静かになる。

 ゆるりと顔を上げ、壁を背にスマホを持ったままへたり込むチビへと目を向けた。全身がぶるぶると震え、喉はひくひくと痙攣している。目が合うと肩をすくめ、小さな瞳に涙をいっぱいに溜めた。


「ご、ごめっ……なさ……いっ」


 一歩、また一歩と近付けば、チビの折り畳んだ両脚の間に水たまりが広がった。それでもスマホは構えたまま、全身が石になったみたいに固まっている。手を伸ばし、スマホを奪い取ろうとしたそのとき、


「やめて――っ!」


 背後から、芽亜凛の声がした。

 手を浮かせたままピタリと静止すると、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにした宇野涼介の顔が認識できた。宇野は弾かれたように上半身を一度大きく震わし、扉めがけてつんのめりながら駆けていく――縋るように伸ばした手がドアノブに届くことはない。

 ブンッと、扉に投げつけた花瓶がけたたましい音を立てて、そいつの目の前で飛散した。


「あっが、あぁあああああぁぁっ!」


 濁音混じりに絶叫し、宇野は両目を手で押さえてうずくまる。

 大号泣を上げる彼に大股歩きで近付き、落ちたスマホを踏み潰した。ひびの入ったそれを拾い上げて、抜いたSDカードを片手でパキリと折る――


 やがて思い出したように、ベッドで伸びている宮部陸の手元に目を向けた。これだけは渡さないとばかりに握り込む手を見て、ごきゃっ。手首を反対側にへし折ることで、手のひらを開けさせた。指紋だらけのイヤーカフをベッドで拭って、自分の耳へと付け直す。

 空気に触れて冷たくなった金属が、響弥の両耳を締めつけた。


「……………………芽亜凛ちゃん!」


 響弥は迷子の子供を探すように首を大きく動かし、部屋の隅で縮こまる芽亜凛を見つけ出してまっすぐ駆け寄った。膝をつき、青ざめた顔の彼女と目線を合わせる。

 見たところ怪我はしていないようだ、よかった、と響弥は彼女の華奢な身体を精一杯抱き締める。芽亜凛の身体はかたかたと小刻みに震えていた。大丈夫だよ、もう大丈夫だよ。言葉は使わずに、強く抱き締める。


「ご……ごめんなさい……」


 芽亜凛はか細い声で謝った。ごめんなさい、ごめんなさいと、繰り返し呪詛のように口にする。どうして彼女が謝るというのだろう、響弥にはわからなかった。悪いのはあいつらなのに。


「いいよ……いいんだよ、芽亜凛ちゃん。芽亜凛ちゃんが謝ることないよ」


 響弥ができるだけ落ち着いた声で言い聞かせると、腕のなかの震えは大きくなり、カッターシャツの肩口に温かい湿り気がはらはらと落ちた。

 泣いているのだ。あの芽亜凛が、響弥の腕のなかで泣いている。響弥はその顔を見ないように首を動かし、どうしたものかと考えた。

 早くここから連れ出すべきか、それともこのまま抱き締めているべきか、正解がわからない。ただ芽亜凛はしくしくと涙をこぼすばかりで、背中に腕を回そうとはしないし、引き剥がそうともしない。


 響弥はそっと身体を離すと、芽亜凛の濡れそぼった顎に指を添えた。固く唇を引いて喉を鳴らし、息を止める。そして芽亜凛の唇を目指して瞳を閉じたとき、「響弥!」という声とともに、部屋の扉が開け放たれた。

 唇が柔らかい感触を迎えた瞬間、パシンッと乾いた音が響く。気づくと響弥の顔は斜め下を向いていて、左頬にじわじわと広がる痛みに目をぱちくりとした。


「……芽亜凛ちゃん――」


 顔を見たとき、芽亜凛は唇をわなわなと震わせて響弥を睨みつけていた。潤んだ瞳から宝石のように大きなしずくがこぼれ落ち、「最低です……っ」と目を伏せる。

「ごめん……」と響弥は呟いた。タイミング、間違えた。こんな場所で、こんな状況ですることじゃなかった。今こんなことをしても、芽亜凛が笑ってくれるはずないのに――


 響弥は吐息を殺して肩を落とし、先ほど音がしたほうに顔を向けた。

 ガチャと勢いよく扉が開いて、誰かの声もしたのに――今そこには人っ子一人いない。開いたはずの扉はきっちり閉め切られていて、赤いものをあちこちから吹き出した男たちが床や壁際に倒れているだけだった。

 気のせいじゃないことくらいわかっているのに、響弥は思考を放棄して、そして


 ――宮部をそそのかしたのは、きっとあの女だ。

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