愚か者たち

 時間は日曜日の日暮れまで遡る。芽亜凛の住む二〇二号室のインターホンが鳴らされたのは、買い出しから帰ってすぐ、片付けをしていたときだった。

 モニターに映っていたのは、私服姿の宮部りく。カメラのほうを見ぬよう、物憂げに視線を下げて立っている。

 直接会いに行ってやるとか言っていたが、本当に来たのか、と芽亜凛は思った。住所を調べて押しかけてくるなんて、非常識な。加えて、帰宅してすぐのこのタイミング。家の前で待ち伏せしていたのか、後をつけられていた可能性もあるだろう。


 宮部がもう一度インターホンに指を伸ばしたとき、芽亜凛は「はい」と渋々応答した。部屋の明かりはついているし、どのみちいることはバレている。宮部はハッと顔を上げて、やはり視線を下げたままで会釈した。


『藤ヶ咲北高校の宮部です。たちばな芽亜凛さんいますか?』


 予想していたよりもずっと礼儀正しい返事が返ってくる。学校で隠れヤンキーをしているように、好青年を装うのは得意というわけか。


「お待ちください」


 このままインターホン越しで会話をするのは少々やりづらさがあった。芽亜凛はもしものことがあってもいいように、防犯ブザーを隠し持って、チェーンのかかった玄関扉を開けた。

「何の用ですか」と隙間から冷たく言い放つ。


 宮部はチェーンを一瞥し、「……中入ってもいい?」と口元に硬い笑みを浮かべて、グッと扉に手をかけた。

 芽亜凛は瞬きひとつせずに彼を見据える。まず質問に答えてと思ったが、ここで強気に出ては余計聞き出せそうにない。「いいですよ」と敢えて口に出してチェーンを外した。

 玄関より先に入れる気はない、と芽亜凛が段差に腰を下ろすと、踏み込んだ宮部陸は靴を履いたまま隣に座った。まるで学校の家庭訪問のようである。お茶を出す気は毛頭ないが。

 しばらく思いつめた顔で足元のタイルを見つめていた宮部は、くるりと首を横にひねった。


「なんであいつと付き合ってんの?」


 じとりと捉える宮部の眼差しには、不審と好奇とが混ざっている。純粋な疑問であると同時に、そこには恐怖に近い何かがいるようだ。

 一切表情を変えぬ芽亜凛が疑問符を浮かべているように見えたのか、宮部は小さくため息をつく。


「神永響弥だよ。なんであんなモヤシと付き合ってんの?」

「答えたところで、宮部さんに関係がありますか?」


 思ったことを間髪入れずにそのまま返し、宮部の反応を窺った。宮部はこめかみを指で掻きながら「冷てえなぁ……」と笑い声を漏らす。


「陰であんたらのこと悪く言ってる奴も多いのに、別れるつもりねえの?」


 すると今度は芽亜凛がため息をつく番となった。「逆ですよ」と言って膝の上で手を丸める。見えないリードを握り込むかのように。


「逆?」

「周りのためには付き合っているほうがいいんです。……私のためにはならないかもしれないけど、これが一番いいんです」


 どうせ聞いても理解できまい。芽亜凛が自身を犠牲にして、周りへの危害を抑えていることなんて。

 響弥には別れたほうがいいかもしれないと告げてしまったが、あの言葉はを思ってのことだった。迷惑電話に、催涙スプレー、玄関前での嫌がらせ――校舎裏でのカツアゲに、シューズロッカーのいたずら。


 そう、芽亜凛は自分だけでなく、響弥の身を案じてしまった。心配してしまったのだ。

 戸川とがわの時は、響弥が何もしなくてよかったと、確かにそう思ったのに。いつの間に彼の身を思うようになってしまったのだろう……。彼が必死に約束を守ろうとするから? 戸川先生の死の真相がまだわからないから? 

 ――それとも私は心のどこかで、戸川先生の死を喜んでしまっているのだろうか……。

 惑わされるな、惑わされるな。響弥は――茉結華まゆかは、人殺しだ。人殺しのことを思うなんてどうかしている。


「じゃあ好きじゃないってことか」


 宮部は怪訝そうに片眉を吊り上げて「ふーん」と唸った。


「じゃあ、あんたのピンチにあいつが駆けつけて来なかったら、俺と付き合ってよ」

「……はい?」


 小首を傾げ、芽亜凛は自分の耳と宮部の頭を疑った。


「別に減るもんじゃないし、あいつのこと好きじゃないならいいだろ? そこで俺が勝ったら、あいつのことは見切って俺と付き合おうよ」


 宮部の目は甚だ真剣である。元から軽薄な印象はあったが、こんなにもがつがつしていただろうか? まるで褒美を前に目の色を変えた狐である。


「どうするつもりですか」

「タイマンだよ。あいつを呼び出してタイマンする。あんたは観客として見てればいい」

「…………」

「あ、そ、それでこないだ電話したんだけど、気づいてくれた? 連絡先も、住所も……勝手に調べて悪かったよ」


 途端にばつが悪そうに宮部は首をすくめる。芽亜凛が視線で突っぱねたからである。言葉もまるでおまけのような謝罪だ、誠実さは欠片も感じ取れない。

 つまり宮部は、男同士の勝負に協力してくれと言っているのだ。どうして急にそんな思考を抱いたのだろう。考えられるとすれば、こいつが本当にどうしようもないくらいの馬鹿であるか、その馬鹿を利用しようと彼に餌を与えた者がいるということである。

 芽亜凛は、ずいっと身を乗り出した。


「あなた、死にますよ」


 ぱちぱちと瞬きした宮部がぽかんと口を開いているうちに、芽亜凛は身体を引き離す。

 嘘でも冗談でもない忠告だった。神永響弥は必ず勝つ。それどころか、下手をすれば宮部が死ぬ。たとえ芽亜凛の前だとしても、勝負事という舞台に立たせてしまったら容赦なく手を出すに決まっている。

 けれどもし、約束を守り抜こうとするなら――?

 宮部はこらえきれなくなった笑いを吹き出した。


「へえ、やっぱあいつ野蛮なんだ。だと思った」


 ジーンズからスマホを取り出し、悪巧みを思いついた子供みたいにいじくる。そうして開いたマップをこちらに見せてきた。


「明日ここのホテルに泊まってよ。あんたが誘拐されたと思い込めばあいつも本気になるだろう」

「学校を休めって言うんですか」

「じゃあ昼休みに呼び出して、それが終わったら午後から行けばいい。俺のことが信用できなくなれば警察にでも連絡しなよ」


 まだよしとも言っていないのによく喋る男である。あいにく先週の帰りにスマホはなくしてしまった。しかしそれを今ここで知られるわけにはいかない。


「大丈夫大丈夫、あんなモヤシにやられないよ」


 宮部は余裕ぶって嘲笑を続ける。野蛮と知り得ていながらも、この余裕はどこから湧くのだろうか。本当に愚かとしか言いようがない。

 そしてそんな愚かな提案に乗った自分もまた。


    * * *


「おい陸、オレのスマホでエロ動画見んじゃねえよ!」

「うるっせえなぁ、仕方ねえだろぉ?」

「ウイルスかかったらどうすんだよ!」

「んなもんかかんねーよ。ホテルだからってムラムラすんな」

「してねーよムラムラなんて!」


 馬鹿二人、もとい宮部陸と宇野涼介のやり取りは、部屋のソファーに座る芽亜凛にも丸聞こえであった。響弥への呼び出しを済ませた二人は、シャワー室からぞろぞろと戻ってくる。よくもまああんな下衆な脅し文句を並べられたものだ。誰が五人相手なんかするものかと、芽亜凛は胸の前で腕を組んだ。


「これで来なかったら彼氏失格。いや、男失格だな」

「そうですね」


 適当に同意してやると、宮部は満足げに口角を上げて、スマホをまたいじりはじめた。

 宇野はベッドに腰をかけて、短い足をぷらぷらと揺らしている。先日したことは忘れていないらしく、芽亜凛の顔は一向に見ようとしない。こっちからすれば、こうして目の前に現れただけで、いったいどの面を下げているのだと、その神経を疑うが。

 見てのとおり二人は協力関係にある。芽亜凛に囮を仰ぐ時点で、ほかにも声をかけているだろうとは思っていたが、まさかその一人が宇野涼介とは。


 やがて宮部は「そろそろ着くって」と言ってスマホから顔を上げた。着くって、誰が――?

 扉をノックし、入ってきたのは響弥ではない、見知らぬ男が三人だった。一人は藤北の制服を着ており、ほか二人は私服である。まさか本当に、五人でかかってくる気じゃあるまいなと、芽亜凛は自然と身構えた。

 宮部は三人を親指でさし、「学校の先輩と大学の先輩」と言って紹介をはじめた。三人は「どうも」と肩をすくめて会釈する。背中にじわりと嫌な汗が流れた。


「どういうことですか」腹に力を込めて言う。「一対一じゃないんですか」

 宮部はカカカッと刻むようにして笑った。


「もう遅えよ」


 再び扉がノックされる。待ってましたとばかりに宮部が開けると、小さな呻き声とともに神永響弥が転がり込んできた。

 後ろ手に扉を閉めた宮部陸を除き、呼ばれた三人が現れた獲物の前へと群がる。来てくれたことに安堵する暇もなかった。

 芽亜凛はぞわりと身体を震わせる。これじゃ話が違う。リンチするなんて聞いていない――!

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